ベン・ジョンソン (陸上選手)
テンプレート:出典の明記 テンプレート:Infobox 陸上選手 ベンジャミン・シンクレア・"ベン"・ジョンソン(Benjamin Sinclair "Ben" Johnson, 1961年12月30日 - )はジャマイカ出身でカナダ国籍の陸上競技短距離走選手。ジャマイカ北西部トレローニー教区ファルマス出身。
経歴
母親がカナダへ移民した4年後に本人も移民し、コーチのチャーリー・フランシスからスカウトを受け、陸上競技のトレーニングを始める。1984年、ロサンゼルスオリンピックに出場し、カール・ルイス(アメリカ)が優勝した100mと、4×100mリレーで銅メダルを獲得した。これらのメダルは後述のドーピングが発覚した後も取り消されていないため、今日でもオリンピックメダリストである。この頃のジョンソンは目立つ選手ではなかったが、翌年から次第に成績を上げ始める。
1985年にはスイスのヴェルトクラッセチューリッヒ男子100mでカール・ルイスに初めて競り勝ち、1987年の世界選手権男子100mでルイスを破って9秒83の世界新記録(当時)を樹立し[1]、ルイスのライバルとして広く認知されるようになった。この記録は当時、高地で作られた世界記録を平地で破った点でも注目された[2]。終始イーブンペースで走るルイスに対し、ジョンソンは低い姿勢で序盤から最高速を出す「ロケットスタート」を得意としていた。イタリアのスポーツ用品メーカーであるディアドラのスポンサーが付き、当時の共同石油(現ENEOS)のCMに出演するほどの人気になった。
1988年ソウルオリンピックの100m決勝で9秒79の世界新記録(当時)を樹立して優勝。しかし、競技後の検査でステロイドの一種スタノゾロール[3]の使用によるドーピングの陽性反応が出たことで、世界記録と金メダルを剥奪された。その直後に韓国からカナダ国内の自宅へ直行。後日の記者会見で宣誓書の内容を読み上げ、「薬物を故意に使用したことはありません」、「家族、友人、祖国に恥をかかせるようなことしません」と述べた。大会後にカナダ連邦政府の調査委員会を設置し、チャーリー・フランシスとアンジェラ・イサジェンコ(女子陸上選手)らを招集し、ヒアリングが行われた。イサジェンコの証言によるとジョージ・アスタファン医師がジョンソンに投与されたスタノゾロールが動物用の商品(ウィンストロールV)であることに衝撃を与え、ジョンソンをはじめとする禁止薬物の使用を認めた選手らは出場停止処分を受け、またジョンソンは国際オリンピック委員会(IOC)の第2種ブラックリストに登録された[4]。スポンサーのディアドラをはじめ、共同石油のCMをも打ち切られ、100m決勝の際にNHKの羽佐間正雄アナウンサーが発した「ベン・ジョンソン、筋肉のかたまり」という声とともに、繰り返し「ドーピングで世界記録を樹立したシーン」が放映された。ただし、カール・ルイスの自伝によるとドーピング検査前にジョンソンの元へアンドレ・ジャクソンが尋ねたとされており、ESPNの30 for 30では、ジャクソンがジョンソンと2004年にロサンゼルスで出会った際に先の検査前において錠剤のステロイドを飲料に混入させた旨を告白したとジョンソンが証言している。
剥奪されたジョンソンの記録は、2002年にティム・モンゴメリ(アメリカ)が9秒78を出すまで幻の記録と呼ばれていた[5]。ギネスブックは「薬物の助けを得たにせよ、人類が到達した最速記録」と但し書き付きで彼の記録を掲載していた。1980年代の100m走において9秒7の大台に乗った人類はベン・ジョンソンただ一人である。その後、人類が再び9秒7の大台に乗ったのは1999年のモーリス・グリーンである。
その後、陸上競技大会への復帰が認められ、1992年のバルセロナオリンピックの100mに出場したが、準決勝敗退した。ところが、その後出場した競技会で再びドーピングで陽性反応が出たため、公式の陸上競技大会からは事実上永久追放され、IOCの第1種ブラックリストに登録された。
引退後
2000年7月12日、イタリア旅行中に財布を盗んだ少女を全速力で追いかけたものの、捕り逃がしてしまったことがあった(これはトリビアの泉にも取り上げられた)。余談だが、後にドーピング無しでジョンソンの記録に並んだモーリス・グリーンも1999年にセビリアで置き引きに遭遇したが、こちらは見事取り押さえに成功している。
現在の仕事はスポーツインストラクター。余談だが、1930年代にアメリカ国籍の同姓同名の短距離の陸上選手がおり、当時の100mの世界最高記録を出しながら、追い風参考記録を理由に後に取り消しになったことがある。
2010年8月1日、日本のテレビ番組「クイズ☆タレント名鑑」(TBS系列)の企画で、100mのタイムを計測した。48歳という年齢の上に体重も100kgと往年の面影はなかったが、予想を上回る11秒50という好タイムを記録。2011年7月10日放送分には、82.5kgに減量して出演。長距離走選手だった松野明美と800m競争をしたのだが、もともと短距離走選手ということもあり、松野に大きく突き放されて負けてしまった。2012年10月8日、「ALLSTAR WARS」(フジテレビ系列)では元十種競技日本チャンピオンの武井壮と対決した。
人物
- ロケットスタートと評されるスタートダッシュを得意とする前半逃げ切り型の選手であった。
- 他の選手と比べ、スタート直前は両手を大きく横に開き、低い姿勢からのスタートをしていた[6]。また、スターティングブロックは他の選手に比べ左右のずれがほとんど無く、両足で同時に踏み出す方式を取っていたが、これらはいずれも人並み外れた上半身の筋肉があってこそなせる業であり、他にこのスタート方式を採用しているトップ選手は非常に希少である。[7]
主な実績
年 | 大会 | 場所 | 種目 | 結果 | 記録 |
---|---|---|---|---|---|
1983 | 世界陸上競技選手権大会 | ヘルシンキ(フィンランド) | 100m | 6位(sf) | 10秒44 |
1983 | 世界陸上競技選手権大会 | ヘルシンキ(フィンランド) | 4×100mリレー | -(qf) | DQ |
1984 | オリンピック | ロサンゼルス(アメリカ合衆国) | 100m | 3位 | 10秒22 |
1984 | オリンピック | ロサンゼルス(アメリカ合衆国) | 4×100mリレー | 3位 | 38秒70 |
1987 | 世界陸上競技選手権大会 | ローマ(イタリア) | 100m | - | DQ(9秒83) |
1987 | 世界陸上競技選手権大会 | ローマ(イタリア) | 4×100mリレー | 4位 | 38秒47 |
1988 | オリンピック | ソウル(韓国) | 100m | - | DQ(9秒79) |
1992 | オリンピック | バルセロナ(スペイン) | 100m | 8位(sf) | 10秒70 |
1992 | オリンピック | バルセロナ(スペイン) | 4×100mリレー | -(sf) | DNF |