ブレトン・ウッズ協定
ブレトン・ウッズ協定(ブレトン・ウッズきょうてい、Bretton Woods Agreements)は、第二次世界大戦後半の1944年7月、アメリカ合衆国のニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)で締結され、1945年に発効した国際金融機構についての協定である。
概要
展開
国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)の設立を決定したこれらの組織を中心とする体制である。この協定は1929年の世界大恐慌により1930年代に各国がブロック経済圏をつくって世界大戦をまねいた反省によっているだけでなく、第二次世界大戦で疲弊・混乱した世界経済を安定化させる目的があった。そのため具体的には国際的協力による通貨価値の安定、貿易振興、開発途上国の開発を行い自由で多角的な世界貿易体制をつくるため為替相場の安定が計られた。IMFについては、イギリスのケインズ案とアメリカのハリー・ホワイト案が英米両国の間で討議され、ホワイト案に近いものとなった。その際、ドルを世界の基軸通貨として、金1オンスを35USドルと定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定めた(金本位制)。この固定相場制のもとで、日本円は1ドル=360円(変動幅±1%)[1]に固定された。 この体制下で西側諸国は、史上類を見ない高度成長を実現。特に、日本は1950年代から1970年代初めにかけて高度経済成長を実現し「東洋の奇跡」とよばれた。テンプレート:要出典範囲。
結末
しかしその後、アメリカ合衆国と世界の諸国の経済や貿易や財政の規模が著しく増大し、金の産出量や保有量が、経済や貿易や財政の規模の増大に対応することが困難になった。
1971年8月にニクソン・ショックによりアメリカはドルと金の交換を停止し、ブレトンウッズ体制は終了した。
その後、1971年12月にスミソニアン協定でブレトンウッズ体制の骨格を維持しようとするも、1973年には本格的に変動相場制に移行し、ブレトン・ウッズ体制は完全に終結した。
学者の見解
経済学者のジョセフ・E・スティグリッツは「第二次世界大戦後から1973年まで続いたブレトン・ウッズ体制の下では固定相場制だったので、現在(2013年)のグローバル経済よりも安定していたことは確かであり、最近のアメリカの経済学者の中からブレトン・ウッズ体制を再評価する声も出ている。しかし、ブレトン・ウッズ体制は、各国の生産性にばらつきが出てきたときに、対応できなくなってしまった。その結果、ブレトン・ウッズ体制は崩壊し、変動相場制に移行した」と指摘している[2]。
脚注
- ↑ 『図解雑学 通貨と経済』p219 ナツメ社 野村茂治・著 2005年
- ↑ ジョセフ・E・スティグリッツkotoba(コトバ) 2013年6月号
関連項目
- 固定相場制
- 国際金融のトリレンマ
- スミソニアン協定
- ワシントン・コンセンサス - ケインズ主義に基づく「ブレトン・ウッズ体制」の後の、1971年から1973年の間の「スミソニアン体制」、1973年から1979年の間の過渡期を経て、1980年から今現在まで進行中の、新自由主義に基づく体制を「ワシントン・コンセンサス体制」という。