ブラガンサ王朝
ブラガンサ王朝(Dinastia de Bragança)は、1640年から1910年までポルトガル王国を統治したポルトガル最後の王朝。ブラジル帝国(1822年 - 1899年)の2人の皇帝も出している。
目次
歴史
ブラガンサ家の起こり
ブラガンサ家は、アヴィス王朝の初代ジョアン1世の庶子アフォンソ(1377年 - 1461年)に始まるアヴィス家の庶流の分家である。アフォンソはジョアン1世の孫アフォンソ5世の時代にブラガンサ公に叙せられ、以後その子孫により公位が継承された。アフォンソは異母弟コインブラ公ペドロを追い落とし、ポルトガル宮廷の実権を掌握したが、後にペドロの外孫であるジョアン2世がアフォンソの孫フェルナンド2世(1430年 - 1483年)を反逆罪で処刑している。
アヴィス家の諸分家は、ブラガンサ家を含めてしばしば同族間での通婚を重ねており、ジョアン2世の王妃レオノール・デ・ヴィゼウやその弟で王位を継いだマヌエル1世はブラガンサ公アフォンソの曾孫であった(マヌエルの母ベアトリスはペドロの弟ジョアン王子とアフォンソの娘イザベルの娘であった)。また、マヌエル1世の次姉イザベル・デ・ヴィゼウテンプレート:Enlinkがブラガンサ公フェルナンド2世と結婚している。
第6代ブラガンサ公ジョアン1世(テンプレート:Enlink, 1543年 - 1583年、フェルナンド2世の曾孫)はマヌエル1世の孫カタリナテンプレート:Enlinkと結婚していたが、カタリナの母イザベル・デ・ブラガンサテンプレート:Enlinkはジョアンの父テオドジオ1世(1510年 - 1563年)の妹であった。カタリナはまた、伯父エンリケ1世の王位継承候補者の一人であったが、同じくマヌエル1世の孫であるスペイン王フェリペ2世がエンリケ1世の死後にリスボンを制圧し、1580年にポルトガル王位についた。
ブラガンサ王朝の成立
フェリペ2世以後、続くフェリペ3世、フェリペ4世と3代にわたりスペイン・ハプスブルク家の王がポルトガル王を兼ねたが、ポルトガル人は他国の王の支配を嫌い、1640年にスペインに対する反乱を起こして、独立を回復した。新国王にはブラガンサ公ジョアン1世とカタリナの孫である第8代ブラガンサ公ジョアン2世がジョアン4世として推戴され、ポルトガル王政復古戦争を経てスペインからの独立を承認させた。そして以後、ポルトガル王位はジョアン4世の家系によって継承されることになった。
17世紀末以来ブラジルから大量の金が流入したため、ブラガンサ王朝の初期には華やかなバロック文化が花開いた。1750年に即位したジョゼ1世はポンバル侯爵を登用して啓蒙専制政治を行い、教会財産を没収、イエズス会も追放された。その一方で経済的には対英依存が深まり、対英輸入は輸出の2倍に達していた(メシュエン条約)。1755年に起こったリスボン大地震も大きな打撃となった。ポンパルはこの状況を打開するためイギリスから最新の機械を導入するなど、ポルトガルの初期的工業化も進めた。マリア1世はポンパルを追放して政治犯800人を解放したが、経済的には対英赤字の解消が達成された。しかし1789年に起きたフランス革命はマリア1世を動揺させ、精神崩壊へと至らせた。
ナポレオン戦争とリオデジャネイロ遷都
19世紀初頭はナポレオン戦争の時代であった。1806年に出された大陸封鎖令をポルトガルが1807年に拒否したことで、ナポレオン1世のフランス軍侵攻を受け、重大な危機に立たされるのである(半島戦争)。ジュノー将軍率いるフランス軍のリスボン入城を目前にして、ポルトガル宮廷は植民地ブラジルへの退避を決意する。当時王位にあったマリア1世は高齢の上に精神に異常をきたしていたので、実質的には王太子で摂政のドン・ジョアン(ジョアン6世、後にブラジルで即位)が差配していた。1807年11月、宮廷は目ぼしい財宝と15,000人の貴族、役人、兵士を率いて乗船し、英国艦隊の護衛の下、ブラジルに向かった。ヨーロッパ史上空前の新大陸遷都である。苦しい2ヶ月の航海の末、艦隊は翌年1月ブラジルのバイアに到着し、さらに3月にはリオデジャネイロに転じて、この地を首都とする。ブラガンサ王朝のリオ滞在は1821年まで13年に及んだ。1815年にはポルトガルとブラジルを同格の王国としてポルトガル・ブラジル連合王国が成立した。
ブラジル独立とポルトガル内戦、王朝の終焉
1821年に宮廷はリスボンに帰還するが、ブラジルは翌1822年にブラジル帝国として独立し、摂政として残留していたペドロ王太子を皇帝ペドロ1世として擁立した。以後、ペドロ2世まで2代の皇帝が続いたが、1889年にクーデターによって帝政が廃止された。
ジョアン6世の没後、ポルトガル王位継承を巡ってペドロ1世とミゲルの兄弟が争うポルトガル内戦(1828年 - 1834年)の後、マリア2世の下で王室は権威を回復する。しかし19世紀後半の産業革命によって台頭したブルジョアジーの間に共和主義が台頭し、1910年10月5日革命によって王制は打倒され、ポルトガル最後の国王となったマヌエル2世はイギリスへ亡命した。
歴代国王
括弧内は在位期間。
- ジョアン4世(1640年 - 1656年)
- アフォンソ6世(1656年 - 1683年)
- ペドロ2世(1683年 - 1706年) ポルトガル摂政(1668年 - 1683年)
- ジョアン5世(1706年 - 1750年)
- ジョゼ1世(1750年 - 1777年)
- マリア1世(1777年 - 1816年) ブラジルに逃れ、リオデジャネイロで没した。
- ジョアン6世(1816年 - 1826年) ブラジルで即位、1821年リスボン帰還。
- ペドロ4世(1826年) ブラジル皇帝ペドロ1世。暫定的に王位についたが、すぐに娘マリアに譲位した。
- マリア2世(1826年 - 1853年) ブラジル生まれ、リスボンに帰還したのは1833年。
- ミゲル1世(1828年 - 1834年) ペドロ4世の弟ドン・ミゲル(国王を僭称) ポルトガル摂政(1826年 - 1828年)
- フェルナンド2世(1836年 - 1885年) ザクセン=コーブルク=ゴータ公子、マリア2世の王配、ペドロ5世の摂政
- ペドロ5世(1853年 - 1861年) ペドロ5世以降の王家はブラガンサ=サクセ=コブルゴ・イ・ゴータ家とも呼ばれる。
- ルイス1世(1861年 - 1889年)
- カルルシュ1世(1889年 - 1908年) スペイン語読みはカルロス。
- ルイス・フィリペ(1908年) カルルシュ1世の長男で王太子。父と共に暗殺されたが、約20分だけ長く生きていたため、その間に王位を継承していたとも見なされている。
- マヌエル2世(1908年 - 1910年) 革命後、イギリス亡命。
ブラジル皇帝
系図
ジョアン4世以前の系図はアヴィス王朝を参照。
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- 凡例
- :ブラガンサ家
- :ブラガンサ=コブルゴ家
- :オルレアンス=ブラガンサ家
- :ボルボン=ブラガンサ家