フランス第一共和政
テンプレート:基礎情報 過去の国 フランス第一共和政(フランスだいいちきょうわせい、テンプレート:Lang-fr-short、テンプレート:Lang-en-short)は、フランス史上初の共和政政体である。8月10日事件でブルボン王政を打倒して成立した国民公会によって出された共和国宣言の1792年9月21日から1804年5月18日まで存在した[1]。
概要
テンプレート:フランスの歴史 1789年7月14日に勃発したフランス革命は、テンプレート:ルビを揺るがしたのみならず、社会の歪みを暴き、根底からの刷新を要求する強い流れとなった。当初は貴族の改革運動、ブルジョワジーの権利主張であったものが、食糧難から市民の暴動となり、農民の反乱となり、封建的特権の廃止から市民的自由の保証、さらには土地均等分配、平等主義の要求にまで至り、一方では教会改革への反発は反革命のヴァンデの反乱をも後に引き起こした。
急進化する革命のパリに恐れをなした国王のルイ16世は脱出を図ったが、ヴァレンヌ事件において逮捕されて連れ戻された。これによって国王の権威は失墜した。立憲議会は、1791年憲法を成立させてその役割を終えたが、国王は事実上の囚われの身であり、外国の干渉によって解放されることを期待した。立法議会では国王は拒否権を乱発して政局を停滞させ、1792年8月10日のテュイルリー宮殿襲撃によって王権は停止され、新たに召集された国民公会によってブルボン朝の廃止と共和政樹立が宣言された。
国民公会は、対仏大同盟諸国との戦争や国内の経済不安(アッシニア暴落)への対応に苦慮し、より強力な統治機構として公安委員会を設置して権限を集中させ、難局に当たろうとした。1793年の祖国の危機は恐怖政治を導入することで乗り切り、総動員法や最高価格令など、統制経済で混乱を収拾しようと努めたが、ジロンド派やモンタニャールの左右分派の粛清が相次いで政権自体は安定しなかった。フランスでのモンターニュ独裁は短命に終わった。
1794年のテルミドールのクーデターの結果、陰謀を決行した派遣議員らを中心とするテルミドール派が政権を握った。彼らは反動から右傾化して白色テロを行い、ジャコバン派を弾圧した。ブルジョワジー中心の政治を目指して3分の2法令を決議させて議員らの既得権益を保護しようとしたため、民主勢力が反発してヴァンデミエールの反乱が起きたが、これを武力鎮圧して、総裁政府が成立した。しかしこの政府でも政権は安定せず、統制を失った経済は再び崩壊した。国民からの支持も失っていたので、選挙のたびにそれを取り消すためのクーデターを必要としたため、軍隊の政治介入のきっかけとなった。総裁政府は、第一次対仏大同盟には勝利したが、第二次対仏大同盟の攻勢にあって窮した。
1799年、エジプトから戻ったナポレオンは、崩壊寸前の総裁政府をブリュメールのクーデターで倒した。彼は統領政府を樹立して自ら第一統領に就任し、事実上の軍事独裁を始めた。これは単なる軍事力の支配ではなく、兵士の供給源である農村と都会のブルジョワジーの支持を背景にした支配であり、国民の過半数の支持を得ることに成功した。またボナパルト体制における革命の資産移動の法的認定によってフランス革命は終息したとされる。
ナポレオンは戦争に勝利し、内戦を終結させて国内の和解に努め、カトリックを復権させた。アミアンの和約ではフランスを10年ぶりの平和に導いた。これらの一連の成功に対する国民の支持を背景に、以後は波風を立てない元老院の議決という方法で徐々に憲法を修正して権力を固めた。1802年に彼は終身統領となり、1804年には帝政を宣言して皇帝に即位した。こうして共和政は終焉を迎えフランス第一帝政に移行した。
制度
第一共和政は、少なくとも3つの時期に分けられ、3つの政体があった。それぞれの特徴は以下。1793年憲法は制定されたが、施行されなかった。このために国民公会は体系化された憲法を持たないが、公会自らが時々で規定した各種の法令によって成り立つという特殊な議会となった。また公安委員会は国民公会内の常設委員会であり、国民公会は名目的には執行機関も兼ねていた。総裁政府は逆に極端な分権構造であったが、統領政府はその反省から強力な中央機構を復活させると同時に、立法府は細分化し、選挙制度に行政が関与できる間接選挙とした。
期間 | 憲法 | 行政 | 議会 | 選挙 | 特徴 |
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非施行 |
臨時行政会議 |
1回 |
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4回 |
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回 |
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(国務院) |