フッド (巡洋戦艦)
ファイル:H.M.S. Hood 1924.jpg | |
艦歴 | |
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発注 | 1916年4月7日 ジョン・ブラウン社に発注 |
建造 | ジョン・ブラウン社クライドバンク造船所 |
起工 | 1916年9月1日 |
進水 | 1918年8月22日 |
就役 | 1920年5月15日 |
その後 | 1941年5月24日戦没 |
前級 | レナウン級 |
後級 | インコンパラブル |
性能諸元 | |
排水量 | 常備:41,125トン(1939年軽荷:42,750トン) 満載:46,880トン(1939年:48,650トン) |
全長 | 262,3 m |
水線長 | 259.2 m |
全幅 | 28.9m (1939年:32.0 m) |
吃水 | 10,2 m(満載時) (1941年時満載:10,3 m) |
機関 | ヤーロー式重油専焼三胴型水管缶24基 +ブラウン・カーチス式ギヤードタービン4基4軸推進 |
最大出力 | 常用:144,000 hp 公試時:151,280 hp |
最大速力 | 常用:29.5ノット 公試時:32.07ノット 1941年:28~29ノット |
航続距離 | 14ノット/8,900海里 |
燃料 | 重油:1,200トン(常備)、4,615トン(満載) |
乗員 | 1,341名(1940年:1,418名) |
兵装 | 就役時: Mark I 38.1cm (42口径)連装砲 4基 14cm(50口径) MkI単装速射砲 12基 10.2cm(50口径)MkXVI連装高角砲 4基 2ポンド8連装ポンポン砲 3基 12,7mm 4連装機銃 4基 53.3cm 水上魚雷発射管単装 4基 同水中魚雷発射管 2基 ~1941年: Mark I 38.1cm (42口径)連装砲 4基 10,2cm(50口径)MkXVI連装高角砲 7基 2ポンド8連装ポンポン砲 3基 12,7mm 4連装機銃 4基 17,8cm 20連装UP発射機MkI 5基 53.3cm 水上魚雷発射管単装 4基 同水中魚雷発射管 2基 |
装甲 | 舷側: 305 mm(水線部) 178 mm(第一甲板舷側部) 127 mm(舷側上部) 25~38 mm(艦首部) 76 mm(水線面下部) 甲板: 38 mm(上甲板) 76 mm(主甲板) 76 mm(下甲板) 51 mm(水線下傾斜部) 主砲塔: 381 mm(前盾) 279~305 mm(側盾) 178~279 mm(後盾) 127 mm(天蓋) 主砲バーベット部: 305mm(甲板上部) 105 mm(甲板下部) 司令塔: 229~279 mm(側盾) |
レーダー | 竣工時: 無し ~1941年: 284型 1基(射撃指揮:最低有効範囲16.6㎞) 279M型 1基(対空:最低有効範囲18.5㎞) |
モットー | ventis secundis (ラテン語) (英訳:With Favourable Winds) (邦訳例:好き風とともに) |
フッド(HMS Hood)は、イギリス海軍が第一次世界大戦後に建造したアドミラル級巡洋戦艦で同型艦はない。艦名はサミュエル・フッド提督にちなむ。優美なだけでなく、巡洋戦艦としては攻防力ともに世界最強である[1]。
目次
概要
巡洋戦艦でありながら建造から長期間に渡り、世界最大・最強の軍艦で、歴史研究の大家でジェーン海軍年鑑の編集長を務めたオスカー・パークスに「軍艦美の極致」と評されるほどの優美[2]なスタイルの艦だった。イギリス国民からは「マイティ(強大な)・フッド」と呼ばれて親しまれ、容姿端麗な軍艦として愛された[3]。その基本性能の優秀さ故に、大規模な近代化改装が先送りにされ続けた事が本艦の喪失の一因になった。そして、この上ない悪運に見舞われ、悲劇的な最期を迎える事になる[3]。
本艦の名は高名な提督を輩出してきた名門一族の初代フッド子爵サミュエル・フッドの名にちなんでおり、その末裔であるホーレンス・フッド少将の未亡人が本艦の進水を執り行った[3]。
計画
イギリス海軍は、ジョン・アーバスノット・フィッシャーの提唱する防御力を速力で補うというコンセプトで巡洋戦艦を設計・建造していた。1915年に入った時に、仮想敵としてドイツ海軍がマッケンゼン級巡洋戦艦の建造を開始しており、さらに15インチ砲を搭載する巡洋戦艦を計画中という情報が入ったことで、イギリス海軍は対抗策として1915年度計画において15インチ(38.1cm)砲を搭載する巡洋戦艦4隻の急増を開始した。[4]1916年3月にまとめられた設計では常備排水量は36,360トン、速力32ノットとされた。水線部装甲は前級(レナウン級)よりも2インチ(51mm)増加の203mm装甲を傾斜して装着するなど防御力を向上させたが、水平装甲は76mmしかなかった。艦名にはネームシップのフッドをはじめとして、同級艦全てに海軍提督の名前がつけられる予定で、この為本級はアドミラル級巡洋戦艦と称せられた。
しかし、1916年5月31日に起きたユトランド沖海戦において巡洋戦艦「インヴィンシブル」、「インディファデガブル」が爆沈、更に最新鋭の「ライオン」も主砲塔を撃ち抜かれて大破し、「クイーン・メリー」もまた爆沈した。
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真っ二つになって沈む「インヴィンシブル」
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「インディファデガブル」の爆沈
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撃ち抜かれた「ライオン」の主砲塔
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「クイーン・メリー」の爆沈
ここにおいて、イギリス海軍はイギリス巡洋戦艦のコンセプトが誤りであることを自覚した。戦訓に基づいてアドミラル級巡洋戦艦においては要求性能である高速性能を損なわない程度で、防御力を強化する再設計が1916年9月より行われた。この改設計案がまとまったのは同年12月のことで、これにより「フッド」の建造は約5カ月遅延した。改設計により排水量が約5,000トン増加して常備排水量は42,670トンとなり、フッドはイギリス巡洋戦艦としては格段の防御力を得た。舷側装甲厚は当時のイギリス戦艦と同等の305mm、水平装甲も127mmへ増厚されている。ただし、カタログデーターに表れる装甲の厚みこそ戦艦並みであったが、後述する防御様式の古さから実際には水線部付近の狭い範囲しか防御しておらず、船体の大部分は薄い装甲板で覆われているだけであった。その事は、同クラスの主砲を搭載し、同等の速力を出せる超弩級戦艦「ビスマルク」との戦闘(デンマーク海峡海戦)での沈没の原因の一つとなった。
建造
本級は4隻の建造が予定されていた。1番艦であるフッドは1916年4月7日にジョン・ブラウン社クライドバンク造船所に発注し、5月31に起工したが上述の防御力強化を目的とした改設計を行うため中断され、同年9月1日に再び起工するトラブルがあった。さらに1917年にドイツがマッケンゼン級の建造を中止したことが明らかになると、イギリス海軍も「フッド」以外の3隻を1918年に建造中止としてしまった。未成艦3隻の予定艦名はアンソン、ハウ、ロドネーで、後の「ネルソン級」や「キング・ジョージ五世級」らの艦名に引き継がれた。
大戦に伴う工事遅延により進水は1918年8月22日となり、第一次世界大戦後の1920年3月5日にようやく竣工した。本艦の竣工後にワシントン海軍軍縮条約が締結・発効されたがフッドは特例で制限排水量35,000トンを超えるサイズであったが廃艦を免れたことにより、排水量という点でフッドを超える大戦艦は1940年にドイツが建造したビスマルク級が竣工するまで現われなかった。
建造には602万5000ポンドが費やされた。[3]
艦形
竣工時
本艦の船体形状はイギリス巡洋戦艦伝統の長船首楼型船体であったが、排水量に比して乾舷の高さが低かったために将兵から「イギリス海軍中もっとも濡れやすい艦(wet ship)」の異名を受けた[5]。高速力の発揮のためにイギリス軍艦初のバルバス・バウ(球状艦首)が水線下に採用された。
クリッパー型の艦首から軽くシアの付いた前部甲板上に1・2番主砲塔を背負い式で2基搭載、その背後に測距儀を載せた2階建ての司令塔の背後に立つ操舵艦橋を基部として軽量な三脚式の前部マストが立ち、艦橋の側面には近接防御として4.7cm速射砲が片舷2基ずつ計4基が配置されていた。
2本煙突の間には探照灯台が立ち、その左右の舷側に副砲の14cm単装砲が艦橋側面の最上甲板に防楯の付いた単装砲架で単装砲架2基、舷側甲板上に片舷5基ずつの計12基が配置された。
2番煙突から後ろは艦載艇置き場となっており、それらは2番煙突の側面に片舷1基ずつ付いた小型クレーン2基と後部三脚マストを基部とするクレーン1基の計3基により運用された。
対空火器の10.2cm高角砲は船首楼甲板の終わりに後部マストの左右に1基ずつと後部見張り所の下に直列に1基ずつの計4基が配置された。甲板一段分下がって後部甲板上に3番・4番主砲塔が背負い式で後ろ向きに2基が配置された。就役時に航空兵装として2番・3番主砲塔の上に陸上機の滑走台を設置していた。[6]
海軍休日から第2次世界大戦時
就役後の1931年5月より小規模な改装が行われた。外観上の相違点として水上機を運用するために艦尾側にカタパルトが設置し、フェアリー III型水上機を運用するためのクレーンが設けられた。[7]また近接火器として1番・2番煙突の側面に「ヴィッカース 4cm(39口径)ポンポン砲」を八連装砲架で片舷1基ずつ計2基を搭載した。1932年にカタパルトと艦尾クレーンが撤去され、近接火器として新たに「ヴィッカース 12.7mm(62口径)機関銃」を四連装砲架で2基を搭載した。1937年に船体内の53.3cm魚雷発射管2門を撤去し、10.2cm高角砲を単装砲架で2基を搭載し、後部見張り所の下に4cm八連装ポンポン砲1基、12.7mm四連装機銃を、後部見張り所の脇に1基ずつ計2基を追加した。
1940年に副砲14cm速射砲の撤去が行われ、代わりに10.2cm高角砲を連装砲架5基へと更新された。また、近接対空火器として17.8cm20連装ロケット砲が2番主砲塔上に1基、1番煙突の脇に片舷1基ずつ、艦載艇置き場の脇に並列で1基ずつの計5基搭載された。1941年3月に284型レーダーが搭載され、前部マストにアンテナが設置された。
武装
射撃指揮装置は最新型のMark V 型ファイア・コントロール・テーブル(FCT:Fire Control Table)が搭載された。司令塔上と1番~4番主砲塔上に9.15m測距儀と後部測距所の4.58m測距儀から送られてきたデータを管制する方位盤は艦橋に搭載され、主砲に射撃データを送った。1941年1月から3月にかけての改修で対空捜索レーダー 279M型および射撃指揮レーダー 284型が前部マストに設置され、4月から運用試験を開始したが、5月にビスマルク追撃戦で本艦ごと失われた。[8]
副砲および備砲は2.74m測距儀を搭載する射撃方位盤で管制されたがFCTではなく、計算尺とレンジ・クロックが用いられた。前述の1931年の改装により10.2cm高角砲および対空火器にデータを送る対空管制装置HACS(High Angle Control Systemの略) Mark I型が後部マストの背後に搭載され、管制装置には4.58m測距儀が装備された。その後1939年9月にはMark III型に換装された。1940年に入る頃には、多くのイギリス艦の射撃管制がレーダーとコンピューターが主となり、光学式測距儀は故障時のバックアップとされた[2]。1941年3月でのドック入渠時に最新式の279型対空捜索レーダーと284型射撃指揮レーダーが装備され4月に運用を開始した。
主砲
主砲は前級より引き続き「Mark I 38.1cm(42口径)砲」を採用しているが、本級は主砲仰角を従来の20度から30度まで引き上げたMark II 型砲塔を採用して連装砲塔4基に収めた。これにより射程距離はMark I 型が22,850mのところを、重量871 kgの砲弾を最大仰角30度で26,520 mまで届かせることが可能で、俯仰能力は仰角30度・俯角5度である。旋回角度は船体首尾線方向を0度として、左右150度の旋回角度を持つ。主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に水圧で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分2発である。
副砲、その他の備砲、雷装
前級において副砲に採用されていた10.2cm砲は、大型化する駆逐艦の撃退には威力不足であった。そこで
軽巡洋艦の主砲クラスの口径である14cm速射砲を採用した。元々はバーケンヘッド級軽巡洋艦のために開発された「Mark I 1915年型 14cm(50口径)速射砲」である。既存の15.2cm砲弾よりも14cm砲弾の方が2割軽く、装填速度も良好であったが威力が落ちるために本級のみの採用であった。その性能は37.2 kgの砲弾を最大仰角30度で16,250 mまで届かせられる性能であった。この砲は旋回と俯仰は人力で行われ、150度の旋回角度があり、俯仰は仰角30度・俯角5度で発射速度は毎分12発と早かった。これを単装砲架で舷側ケースメイト配置で12基装備した。
他に対空火器として「10.2cm(45口径)高角砲」を単装砲架で4基、47 mm速射砲を単装砲架で4基搭載した。他に53.3cm水上魚雷発射管を単装で4基と同水中魚雷発射管を単装で2基を装備したが、第一次大戦の戦訓から水線下に開口部を増やす水中魚雷発射管は廃止されたが水上魚雷発射管は最後まで戦没まで搭載されていた。予備魚雷は16本である。
武装の追加・撤去の相違は以下の通り
改装年 | 副砲 | 備砲 | 対空火器 | 機関砲 | 機銃 | 雷装 | その他 |
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就役時 | 14cm速射砲12基 | 4.7cm速射砲4基 | 10.2cm(45口径)単装高角砲4基 | ↓ | ↓ | 53.3cm単装魚雷発射管6門 | |
1931年 | ↓ | ↓ | ↓ | 4cm8連装ポンポン砲2基 | ↓ | ↓ | 水上機1機、カタパルト設置 |
1932年 | ↓ | ↓ | ↓ | ↓ | 12.7mm4連装機銃2基 | ↓ | 航空兵装撤去 |
1937年 | ↓ | ↓ | 10.2cm(45口径)単装高角砲6基 | 4cm8連装ポンポン砲3基 | 12.7mm4連装機銃4基 | 53.3cm単装魚雷発射管4門 | |
1938年 | 14cm速射砲10基 | ↓ | 10.2cm(45口径)単装高角砲6基 10.2cm(40口径)単装高角砲2基 |
↓ | ↓ | ↓ | ↓ |
1939年6月 | ↓ | ↓ | 10.2cm(45口径)単装高角砲6基 10.2cm(45口径)連装高角砲4基 |
↓ | ↓ | ↓ | ↓ |
1939年8月 | 14cm速射砲12基 | ↓ | 10.2cm(45口径)連装高角砲4基 | ↓ | ↓ | ↓ | ↓ |
1940年5月 | 撤去 | ↓ | 10.2cm(45口径)連装高角砲7基 17.8cm20連装ロケット砲5基 |
↓ | ↓ | ↓ | 1941年に279型レーダーと284型レーダー設置 |
機関
機関構成は前級のレナウンではバブコックス&ウィルコックス式水管缶42基だったが、本艦では重量軽減とスペース減少に効果のあるヤーロー式細径水管缶を採用した事によりボイラー数を24基まで節約できた。また、タービン機関もレナウン級ではブラウン・カーチス式直結タービンを高速2基・低速2基の計4基4軸だったものを、本艦では同社製の新型ギヤード・タービン4基4軸推進に更新、計画出力144,000馬力で31ノットを発揮できるものとされ、公試時に最大出力151,280馬力で32.07ノットを発揮して計画値を凌駕した。この結果から常用で31ノットで運用できる事が確認された。
機関配置は艦首側にボイラー室、艦尾側にタービンを収める機械室を配置するイギリス巡洋戦艦伝統の全缶全機配置である。ボイラー室は横隔壁で区切られた4室構成で1室当たりボイラー6基を搭載した。機械室は横隔壁で区切られた3室構成で第1機械室には外軸用のタービン2基、第2機械室は左舷側内軸1基、第3機械室に右舷側内軸1基を配置した。[9]。4軸ともスクリュープロペラは4枚羽であった。[10]
燃料タンクは重油を収める4,000トンで、航続距離は速力10ノットで4,000海里と計算された。就役後の1931年の改装時に燃料タンクの拡充を行って搭載量は4,615トンとなり14ノットで8,900海里を航行できるとされた。これにより満載排水量は48,000トンとなった。[11]
防御
防御様式
本艦はイギリス巡洋戦艦にして初の「敵戦艦からの砲撃に耐えうる防御」を、限定的ではあるが与えられた最初で最後の巡洋戦艦である。前級であるレナウン級は舷側装甲の最厚部分が装甲巡洋艦並みの152mmしかなく、仮想敵国ドイツの巡洋戦艦が元来28~30.5cm砲を積んでいたことからみて、戦艦級の主砲弾に対し全くの無防御であった。このことを裏付ける出来事として、前述のユトランド沖海戦では自国の巡洋戦艦が3隻も爆沈していた。イギリス海軍は、この戦訓に基づいて、本艦からは装甲厚を増厚して防御力を既存の戦艦並みに施す方針となった。ただ、構造を大規模に変更するには建造が進み過ぎており、その代わりに装甲を5000t近く増強した[3]。その結果、排水量に比して防御重量は32.7%に達しており、キング・ジョージ五世級の33.2%に次ぐものだった。[12]テンプレート:要出典範囲[13]。
フッドの舷側防御は高さの低い装甲板を横方向に広く貼る旧来の全体防御様式であった。[14]原案ではフッドの装甲は巡洋戦艦「タイガー」に基づいて舷側8インチ(203mm)、水平3インチ(76mm)であったが、タイガーとは異なり、舷側装甲の装着方法は各国の戦艦に先駆けて傾斜装甲(Inclined Armour)が採用された。これは舷側部を内側へ12度傾斜させることにより、装甲に対して敵弾の撃角が増すほどに命中弾が斜撃して貫通力が下がる工夫で、カタログデーター以上の防御力を持った[15]。例えば、日本の36センチ砲弾の場合、撃角が20度から36.5度に増加すると、対弾力は1.3倍にもなる[2]。この様式は後の「ネルソン級戦艦」にも採用された。
垂直防御
弾薬庫と機関部を守る水線部装甲の厚さはオライオン級戦艦と同レベルの305mm装甲であったが、1番主砲塔から機関区を挟んで4番主砲塔までの172mという全長の約66%もの広範囲を覆った代償として主装甲板の上下幅が4.79mと低く、主甲板から水線部を挟んで下甲板までの限られた範囲しか覆うことができなかった。[16]。半ば水没した主装甲から上の主甲板(Main deck)から上甲板(Upper deck)の範囲を防御するために178mm装甲が貼られたが、これも高さ2.79mまでの狭い範囲を覆うものでしかなく、その上の船首楼甲板(Forecastle deck)から甲板上までの広範囲は128mm装甲が貼られたに過ぎなかった。14cm速射砲の周りの防御は同じく128mmである。水線部装甲の前端から艦首部までは152mm~38mm~25mmの順に薄くなった。艦尾側は125mm装甲が舵機室の側面まで貼られた。
305mm装甲から下の水線下装甲は一気に76mmまで薄くなり、その下から艦底部までは38mmにまで薄くなった。水雷防御として水線部装甲から下にはバルジが設けられ、その構造は液層と空気層に38mm装甲を挟んだ奥が燃料タンクの三層構造となっており、その内側の水密隔壁には18mm装甲が貼られていた。二重底の内部には水か燃料が充填されていた。[17]
甲板防御
一方、水平防御は原案より若干強化され、76mmとなりカタログデータ的には本艦建造時の戦艦並みの防御力を与えられた。実際には76mmと言うのは複数の装甲を足した合計厚であって一枚板ではない。主甲板(Main deck)は51mmであり、舷側装甲と接続する傾斜部は51mmから38mmにまで薄くなった。その上にある上甲板(Upper deck)は25mmで大口径砲による大落下角砲弾には充分ではなかった(ただし、3層甲板防御のため、飛翔してきた敵弾が接触信管であれば、そのエネルギーは最上甲板で消散し、それより下層は損傷しない[3])。機関区の煙突の基部には13mm装甲が貼られた。艦橋基部は38mm、副砲ケースメイト配置箇所は127mmであった。これは再設計など大幅な改訂をするよりも既存の装甲を厚くすることで、建造時間を短縮するためであった[15]。
なお、未成となったアンソン以降の3隻ではバルジや舷側装甲の変更、水平防御の強化といった改正を実施する予定であった[18] 。
主砲塔の装甲は前盾が381mm、側盾が305mmから279mmへとテーパーし、後盾は279mm、天蓋は127mmと重防御であった。但し、主砲塔を支える基部(バーベット)の防御は甲板の上は305mmと戦艦並であったが、上甲板から下の部分は外側が254mmで内側は152mm、さらに主甲板は127mmへと一気に薄くなるという、初期のイギリス巡洋戦艦と変わらない弱防御であった。前後の弾薬庫を守る前後の隔壁(bulk heads)の厚さは102~128mmである。司令塔の防御は前盾が254mmで側盾と背面が228mm、そこから下は178mm~152mmまでテーパーした。
水中防御
英国巡洋戦艦では初めてとなる対魚雷バルジは本艦の防御性をわずかに向上させた。230㎜のバルジがA~Yバーベットまで延びており、内部には5列の水密鋼管が並べられ、魚雷爆発の衝撃を吸収した。[3]
艦歴
1920年5月15日に就役してまもなく、フッドは大西洋艦隊巡洋戦艦戦隊を率いる海軍少将ロジャー・キース卿の旗艦となる。同年にスカンジナビア海域を巡った後は、ジェフリー・マクワース大佐が艦長に就任。1921年と22年に地中海を巡行して大英帝国の威光を示し、その後巡洋戦艦戦隊とともにブラジルと東インド諸島へと巡行した。
1923年、フッドは巡洋戦艦レパルスと5隻の巡洋艦からなる特務戦隊の旗艦として1年にわたる世界巡行に旅立つ。特務戦隊は南アフリカ、ザンジバル、セイロン、シンガポール、オーストラリア、ニュージーランド、太平洋諸島、サンフランシスコに寄港し、パナマ運河を通ってジャマイカへ立ち寄り、最後にニューファンドランドを訪問した。この巡行は大成功し、フッドの存在は第一次大戦後の陰鬱とした雰囲気が立ち込める大英帝国社会に自信を取り戻させる役割を果たした。[3]
1936年、スペイン内戦勃発を受けて地中海艦隊に転属となり、英国商船の護衛を主な任務とした。1937年4月23日、フランスからスペインのビルバオ港へと食料と物資を輸送しようとしていた英国汽船3隻が、スペイン海軍に妨害を受けた。そこへフッドが駆けつけ、スペイン海軍のプリンシペ・アルフォンソ級軽巡洋艦「アルミランテ・セルベラ」に照準を定めると、スペイン海軍は英国商船への妨害を諦めた。
フッドは就役から戦没するまでの間、基本性能の優秀さゆえ大規模な近代化改装を全く受けていない。1931年までにフッドに施された改装は、カタパルトとポンポン砲の追加のみであった。1938年8月に地中海で座礁したの機に翌年1月までドック入りをして小改装を行った。
1939年5月にIrvine Glennie大佐が艦長に就任し、フッドはレパルスと共に本国艦隊の巡洋戦艦戦隊に配属された。第二次世界大戦が始まると、フッドは主に船団護衛や大西洋への進出をもくろむドイツ仮装巡洋艦や封鎖突破船の阻止を目的とするハンター・キラー・グループに所属してアイスランドやフェロー諸島近海で哨戒活動に従事した。1939年9月25日、損傷したS級潜水艦スピアフィッシュの帰還を援護するため本国艦隊は北海中央部へ進出した。艦隊はドイツ軍に発見され空襲を受けた。フッドはJu 88から250kg爆弾1発を被弾し、左舷側のバルジや復水器が損傷した。1940年初め頃には、フッドの機関はかなりひどい状態になっており、速力は26.5ノットに低下していた。4月4日から6月12日まで修理がなされた[19]。
1940年6月にイタリアが連合国に宣戦布告したため、イギリス海軍は地中海戦隊の強化のためにH部隊を編成して旗艦にフッドを据えて1940年6月23日にジブラルタルに到着した。フッド率いるH部隊はジブラルタルを拠点として、マルタ島の支援と北アフリカ戦線への輸送船団の護衛に従事した。
同時期にフランスが降伏したが、フランス海軍は枢軸国からの拿捕を防ぐために艦隊を海外植民地に避難させてたため、イギリス海軍はフランス艦隊を無力化するために行動を開始した。1940年7月2日、フッドは戦艦レゾリューション、ヴァリアントなどと共に、ジブラルタルを出撃。翌3日、フッドと2隻の戦艦はフランス領アルジェリアのメルス・エル・ケビール(Mers El Kébir)軍港に停泊する最新鋭艦を2隻と旧式戦艦2隻と水上機母艦1隻を擁する艦隊を攻撃し、ブルターニュを撃沈、ダンケルクとプロヴァンスを中破させ、座礁せざるを得ない状況に追い込むという大きな戦果を挙げた(カタパルト作戦)。
この戦闘でフッドは、港湾の形状の関係でフランス艦隊がイギリス艦隊に対し艦尾を見せて停泊していた事をうまく利用した。最新鋭のダンケルク級2隻は艦首甲板に主砲を集中配置させる設計からイギリス艦隊に向けて主砲の砲撃が出来ず、火力の劣る副砲での応戦を余儀なくされた。しかも、プロヴァンス級は僚艦により射界を遮られた状態だった。これにより、海戦初期は敵からの反撃を受けず射撃を送ることができた。しかし、海戦中盤でストラスブールをはじめとするフランス戦艦が動きだし、残存艦艇もイギリス艦隊に全砲門を向けて砲撃を開始。巡洋戦艦で戦艦の相手をすればどうなるかを知るイギリス艦隊司令ジェームズ・サマヴィル中将は、冷静に撤退を決断し、それを実行した。
なお、この戦闘ではかつての同盟国との戦闘を快く思わないサマヴィル中将により攻撃には手心を加えるよう厳命されていた。
フッドはこの後、1941年3月にイギリスに帰国して最後の入渠修理を行った。この入渠中に機関のオーバーホールと新型の対空・射撃レーダーの増設を行っている。
そして1941年5月21日、本艦は(就役直後で乗員の慣熟訓練すら終わっていないという訓練不足や、主砲の故障等の問題を抱えた)プリンス・オブ・ウェールズと共にナチス・ドイツ海軍の戦艦ビスマルクの追撃を命じられ出撃。5月24日、両艦はアイスランド近海の大西洋上において、ビスマルクと僚艦の重巡洋艦プリンツ・オイゲンを発見し戦闘を開始した(デンマーク海峡海戦)。戦闘開始から6分後、ビスマルクの第五斉射が奇跡的[20]かつ運命的[2]にフッドに命中、不運にも誘爆が発生しフッドは轟沈した(誘爆発生の(推測)原因は後述)。生存者は乗員1,419名中、3名であった。
第二次世界大戦時のイギリス海軍に取って、より新型の戦艦であるキングジョージ5世級のそれを口径で上回る38.1cm砲を8門搭載し、各国の新型戦艦(大和、ビスマルク、ノースカロライナ等)と互角以上の速力を持ち、上述の通り範囲が狭いとは言え装甲も厚い本艦は、極めて有力な艦であった。その優秀さ故に[20]、大規模近代化改装は先送りにされ、大戦に入ってからはその戦力としての重要性の為、長期間戦列から外す事ができず、結果的に老朽化した状態で最後の戦闘に挑んだ事は、本艦喪失の遠因となった。
本艦の喪失により実行はされなかったが、1939年に大改装が策定済みで、状況が許せば実行される予定だった[2]。しかし前述の通り、基本性能の優秀さ故に大改装は一切重要視されず、極めて有力な戦力である事と相まって、大規模近代化改装は引き伸ばし続けられた。
もし大改装が実施されていれば、終了までに2年以上を要する大工事となり、本艦は生まれ変わっていた。具体的な改装項目としては、兵器換装、タービンとボイラーの軽量化、装甲甲板強化、対魚雷バルジ強化、艦橋の巨大司令塔化、新型煙突の設置などである[3]。
フッド喪失の影響
偶然とはいえ、フッドを沈められた事によりイギリス海軍の怒りは頂点に達した。ビスマルク追撃戦においてイギリス海軍は確実な復讐のために動かせる全ての戦力を動員し、ビスマルクをなぶり殺しにした結果、ビスマルクは浮かぶ廃墟と化して撃沈された[2]。さらに、イギリス海軍の怒りはビスマルクを沈めてもなお納まらず、その後のドイツ海軍に対する攻撃はより徹底された[20]。1941年6月以降、イギリス海軍が大西洋水域の船団護衛に戦艦を投入する必要が皆無になった事からも、ドイツ海軍全般における水上艦の壊滅的状況がわかる[2]。
喪失原因の推測
沈没後の調査委員会の結論は「ビスマルクの15インチ砲弾が、本艦の高角砲用の4インチ砲あるいは主砲用15インチ砲の弾薬庫に命中し、誘爆したために船体後部が破壊されたことによる」というものだった。4インチ砲の弾薬庫がまず爆発し、15インチ砲の弾薬庫が続いた可能性が高いとしていた。
これについて、近年では以下のような推測がなされている。
- 高角砲弾薬庫への砲弾の直撃
- 目撃証言によれば、まずメインマスト付近から爆煙が上がったとのことだが、これは4インチ砲の弾薬庫の爆煙が、機関用の換気口を通じて吹き上がったと説明される。同じ爆煙が、15インチ砲弾薬庫との間の隔壁を吹き飛ばし、致命的な誘爆を発生させたというのが調査委員会の結論である[21]。
- 水中弾による弾薬庫への直撃
- ビスマルクとの交戦中にプリンス・オヴ・ウェールズは15インチ砲の水中弾を受けて損傷した。調査委員会では、水中弾の場合、信管が作動すれば、船体に直撃する前に砲弾は炸裂するだろうとしている[22]。
- 搭載魚雷の誘爆によって沈没
- スタンレー・グッドオール卿(海軍造船部長)は、火災の延焼または砲弾の直撃によって搭載魚雷が誘爆し、船体側面に大穴を開け、そこから30ノットの早さで流入する水圧で船体後部が引きちぎられてしまったのではないかと推測した[23]。
- 甲板上の火災の延焼により弾薬庫が誘爆
- 調査委員会によれば、4インチ砲の弾薬供給路は交戦中は閉ざされていたということだが、砲弾の命中によって弾薬庫に穴が開き、そこから延焼したことは考えられる。また、換気装置からの延焼や、15インチ砲塔の床からの延焼も考えられる[24]。
- 弾薬庫外に積まれていた4インチ砲弾が誘爆
- 1979年に海軍史家のアンソニー・プレストンは4インチ砲弾が後部弾薬庫の周りに積まれており、それが砲弾の命中または火災の延焼により誘爆したのではないかとした[25]。
- フッドの15インチ砲が砲身内爆発
- 調査委員会で一部の証言はフッド自身の15インチ砲身内で爆発がおき、それが砲塔の爆発につながったとしている。戦闘中のことで、安全のための手順がおろそかにされた可能性は否定できない[26]。
ジュレンスは、以上の内プレストンの説明以外について検証した。その主な結論は、沈没は4インチ砲弾薬庫の爆発が原因である可能性が高いが、その爆発の原因は色々考えられるということだった。よく言われるような、ビスマルクの15インチ砲弾が水平装甲を貫通して弾薬庫に命中したとの説明については、交戦距離での15インチ砲弾の垂直方向の命中角度は14度以下であり、水平装甲を貫通した可能性は低いが、舷側の装甲帯を貫いた可能性はありうるとしている[27]。
最近行われたフッドの海底の残骸の調査では、後部弾薬庫は爆発していたことが確認された。後部船体は切り離されておらず、グッドオール卿の推論を否定している。大爆発の前の、4インチ砲の弾薬庫からの煙は、フッドの15インチ砲が砲身内爆発を起こしたことを否定している。その他の推測はいずれも可能性がある[28]。
メアーンズ調査隊の調査
2001年7月、海洋探索専門家のデヴィッド・メアーンズ率いる調査隊が水深2,800mの海底でフッドの残骸を発見した。調査隊はフッド最後の座標である北緯63度20分西経31度50分を中心に、2,000平方キロメートル以上の海域を、海が穏やかな4ヶ月間に側方走査ソナーを使用して重点探査すれば、6日で広大な海底イメージを構築できると見積もっていたが、実際はわずか39時間で残骸の位置が特定できた。本艦沈没の原因についてはこれまでに様々な議論があったが、「運命的な1弾によって沈んだ」という事実以外、どれも万人を納得させる事は出来なかった。遠隔操作無人探査機(ROV)を使った詳しい調査の結果、艦尾が完全に破壊されているのが確認され、艦尾の弾火薬庫が爆発した事がはっきりした。ビスマルクが放った38.1cm砲の1弾が貫通して爆発し、沈没を引き起こした爆発的な火災が後部弾薬庫から右舷燃料タンクを通って前部弾薬庫のほうまで広がったためと考えられる。[3]
2012年に再調査が行われ、フッドの号鐘を回収しようとしたがあと一歩で失敗した。一方で舵は残っており、左舷20度を向いたまま固まっているのが確認された。これにより、フッド座乗のホランド提督は戦闘要領に則り、全主砲をドイツ艦隊に向けようと本艦を回頭させていた事が証明された。
艦内生活
乗員たちは本艦において、厳しい規律を強いられた。
睡眠環境には格差があり、艦長や艦隊指揮官にはゆったりとした専用室が、士官には何人かで共有する船室に専用の寝台が用意された一方、一般水兵はメスデッキにハンモックをかけて睡眠をとった。食堂のパン釜は一度に100㎏以上のパンを焼く事ができた。トイレと風呂は艦内のあらゆる所に設置され、寄港中のゴミは焼却炉で処分した(航行中は海へ投棄)。士官と水兵は定期的に海軍内や陸海空軍合同のスポーツトーナメントに参加し、サッカー、クリケット、ボクシング、フェンシング、ボート競技などを行った[3]。
艦内では多くのペットが飼われており、犬や猫、カンガルーが飼われていた。カンガルーのジョーイは1924年世界巡行の際にオーストラリア住民から贈られたもので、犬の中でも白いブルテリアのビルは最後の航海の前に本艦を降りて難を逃れた[3]。
生還者たち
本艦の生存者はウィリアム・ダンダス少尉候補生、ボブ・ティルバーン熟練水兵、テッド・ブリッグズ信号手の3名だった。彼らは小さな筏にしがみついて約4時間漂流し、低体温症で瀕死のところを駆逐艦エレクトラに救助された。ダンダス少尉候補生は他の2名に歌を歌わせて意識を保たせ、生還を助けた。[3]
エディンバラ出身のダンダス少尉候補生は大戦を生き抜いて少佐にまで昇格したが、1965年の自動車事故による怪我が原因で死亡した。ティルバーン熟練水兵はヴィクトリーやクイーン・エリザベスに乗り込んで大戦を生き延び、1995年に亡くなった。ノース・ヨークシャー州レッドカー出身のブリッグズ信号手は英海軍に35年間勤務し、士官まで昇進した。ブリッグズは2008年10月に85歳で亡くなり、本艦の生還者は1人もいなくなった。なお、ブリッグズとティルバーンは生前、「巡洋戦艦フッド協会」会長を務めた。
英国政府は2012年にフッドの残骸を公式戦没者墓苑に指定し、フッドの亡骸は法律的に守られる運びとなった。
ギャラリー
- Amm.Lancelot Holland.jpg
フッドと運命を共にしたランスロット・ホランド(Lancelot Holland)中将
- HMS Hood HU108391.jpg
奥の白1色の艦がフッド。白色の平時塗装からみておそらく第二次大戦前のもの。
- HMS Hood h60404.jpg
1924年のもので、艦体各所に日よけが展開されている。
- HMS Hood h60450.jpg
同じく1924年のもので、艦橋付近のアップ。展開された日よけが良く分かる。
- HMS Hood HU76085.jpg
本艦独特の艦尾の乾舷の低さがよくわかる1枚。
- HMS Hood sailors with kangaroo mascot at Vancouver.jpg
1924年6月25日、バンクーバーでの1枚。
脚注
参考文献
参考図書
- 「世界の艦船 増刊第30集 イギリス戦艦史」(海人社)
- 「世界の艦船 増刊第22集 近代戦艦史」(海人社)
- 「世界の艦船 増刊第67集 第2次大戦時のイギリス戦艦」(海人社)
- 「世界の艦船 増刊第83集 近代戦艦史」(海人社)
- 「Conway All The World's Fightingships 1906–1921」(Conway)
- 「Conway All The World's Fightingships 1922-1946」(Conway)
- Burt, R. A. (1993). British Battleships, 1919–1939. London: Arms and Armour Press. ISBN 1-85409-068-2.
- Jurens, Bill (1987). "The Loss of H.M.S. Hood—A Re-Examination". Warship International (Toledo, OH: International Naval Research Organization) XXIV (2): 122–180. ISSN 0043-0374. http://www.warship.org/no21987.htm.
- Preston, Antony (1979). Sea Power: A Modern Illustrated Military History. London: Phoebus Publishing Company. ISBN 0-89673-011-5.
- Roberts, John (1997). Battlecruisers. Annapolis, MD: Naval Institute Press. ISBN 1-55750-068-1.
- テンプレート:Cite book
- Warship Pictorial 20 Hood
関連項目
外部リンク
- H.M.S. Hood Association
- H.M.S. Hood Today - Wreck Overview Description of the wreck state, and many annotated photographs.
- Books and Magazines
- Official Records Pertaining to H.M.S. Hood
- Battle of the Denmark Strait Documentation Resource
- Hunt for the Hood Includes colour photographs and a log of the expedition.
- Blue Water Recoveries The Hood page at the deep-sea exploration company which found her.
- HMS Hood 1920 Official Royal Navy page.
- Maritimequest HMS Hood photo gallery
- HMS Hood - NavalStudies.com by Dr. Bruce Taylor who is a leading historian of the Royal Navy in the 20th century. He is author of numerous articles and books including The Battlecruiser HMS Hood: An Illustrated Biography, 1916–1941.
- H.M.S. Hood - A Film by Trevor Lacas
- ↑ 世界の艦船No.553
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 2.6 世界の艦船増刊第67集
- ↑ 3.00 3.01 3.02 3.03 3.04 3.05 3.06 3.07 3.08 3.09 3.10 3.11 3.12 世界の軍艦コレクション第22号 (Eaglemoss Publications Ltd.)
- ↑ イギリス戦艦史(海人社), p. 146
- ↑ 第2次大戦時のイギリス戦艦(海人社), p. 107
- ↑ イギリス戦艦史(海人社), p. 124
- ↑ イギリス戦艦史(海人社), p. 124
- ↑ 第2次大戦時のイギリス戦艦(海人社), p. 142~143
- ↑ 第2次大戦時のイギリス戦艦(海人社), p. 137
- ↑ イギリス戦艦史(海人社), p. 122
- ↑ 第2次大戦時のイギリス戦艦(海人社), p. 136
- ↑ 第2次大戦時のイギリス戦艦(海人社), p. 130~131
- ↑ 第2次大戦時のイギリス戦艦(海人社), p. 131~133
- ↑ 第2次大戦時のイギリス戦艦(海人社), p. 131
- ↑ 15.0 15.1 バート, pp. 297–98
- ↑ ロバーツ 1997, p. 113
- ↑ イギリス戦艦史(海人社), p. 122
- ↑ 大塚好古『「フッド」と「レキシントン」』歴史群像シリーズ『帝国海軍の礎 八八艦隊計画』p101-103 学研パブリッシング、2011年
- ↑ Taylor, pp. 192, 240–41
- ↑ 20.0 20.1 20.2 「FightingShips」DiscoveryChannel
- ↑ ジュレンス 1987, p. 139
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- ↑ ジュレンス 1987, pp. 152–53
- ↑ プレストン 1979, p. 109
- ↑ ジュレンス 1987, p. 154
- ↑ ジュレンス 1987, pp. 122–61
- ↑ "Statutory Instrument 2006 No. 2616 The Protection of Military Remains Act 1986 (Designation of Vessels and Controlled Sites) Order 2006". Queen's Printer of Acts of Parliament.