ドイツ赤軍
テンプレート:Infobox 組織 ドイツ赤軍(ドイツせきぐん、Rote Armee Fraktion, RAF)は、第二次世界大戦後のドイツ(旧西ドイツ)における最も活動的な極左の民兵組織であった。バーダー・マインホフ・グルッペ(Baader-Meinhof-Gruppe)という名義でも活動していた。日本では「ドイツ赤軍」または「西ドイツ赤軍」の呼称が一般的であるが、ドイツ語名の直訳は「赤軍派」であり、各国語の呼称も概ねこれに倣う。
概要
1970年代から1998年まで活動を行い、20年以上の活動で主なターゲットにしたのは、西ドイツの政府公共施設、政府関係者、政界関係者、法曹関係者、西ドイツ大企業とくに軍需産業幹部、駐留アメリカ軍で多数の著名ドイツ人を殺害した。
結成
グループの起源は1960年代末の学生運動まで遡る。1967年6月2日にイランのシャー、モハンマド・レザー・パフラヴィーが西ベルリンを訪問したとき、東側の諜報組織の工作を受けて、抗議活動は暴動へ変わった。
西ドイツ人の過激派学生と東側の諜報組織に支援された追放ペルシャ人による猛烈な抗議の翌日、パフラヴィーはドイッチェ・オペラを訪問した。国王観劇の後、抗議参加者と西ドイツ警察の間に通りかかったドイツ人学生ベンノ・オーネゾルクが警察の誤射によって射殺された。この事件は国内に衝撃を与え学生運動が激化した。
そして、1968年頃に一部の若者を中心として先鋭化した反帝国主義、反資本主義、反米をスローガンに掲げた極左地下組織「バーダー・マインホフ・グルッペ」が形成された(グループ名は中心となったアンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフの二人にちなむ)。
彼らの政治主張は「反帝国主義」で、暴力も辞さない広範な反体制活動を通じ、西側資本主義を打倒し、マルクス主義による世界革命を目指していた。そのため銀行強盗、爆破、誘拐、窃盗など非合法活動も含めたあらゆる革命行動を行った。バーダーとグドルン・エンスリンは、出入りしていた西ベルリンのヒッピー・コミューン「コムーネ1」のパンフレットに書かれていた「資本主義とブルジョワジーの生活スタイルの象徴であるデパートを客もろとも焼き払うことによって、ベトナムに於いて戦火に逃げ惑う人々と連帯できるのだ」という、前年の6月に起きたブリュッセルでのデパート火災(332人が死亡)にインスパイアされて書かれた詩[1][2]に触発されて、1968年4月2日、フランクフルトの2つのデパートに放火(死傷者はなし)。その2日後、バーダーらは逮捕され、翌年、3年の刑を言い渡されたが、恩赦を受け、出獄する。連邦憲法裁判所はこの決定を不服とした。翌1970年4月、バーダーは再び逮捕されたが、マインホフの手引きにより脱獄する。
1970年代
1970年5月には日本赤軍に共感してドイツ赤軍と改称。同じようにレバノンのPFLP訓練施設で戦闘訓練を受けた。その結果、ドイツ赤軍は革命活動には、あらゆる武器が使用できた。加えて高度な技術で改良された爆発物も彼らによって製造、使用された。1972年5月には西ドイツ各地で連続15件の爆破行動を起こしたが、この事件をきっかけに中心的メンバーのアンドレアス・バーダーとウルリケ・マインホフたちは逮捕され、シュトゥットガルトのシュタムハイム刑務所に収監される。彼らの逮捕後は内部分裂が進み「赤軍再建組織」「六月二日運動」などに分裂したが相変わらず革命行動を繰り返した。マインホフは1976年に刑務所内で自殺するが、他メンバーは激しい獄中・法廷闘争を繰り広げた。ドイツ赤軍はギュンター・フォン・ドレンクマン西ベルリン高等裁判所長官、ジークフリート・ブーバック西ドイツ連邦検事総長、ユルゲン・ポント ドレスデン銀行会長など、政財界や司法界の重要人物を暗殺した。
ドイツの秋
テンプレート:Main 1977年の後半にはブリギッテ・モーンハウプトとクリスティアン・クラーを新たな指導者として、相次いで事件を起こし西ドイツを震撼させた。
1977年9月5日には西ドイツ経営者連盟会長ハンス=マルティン・シュライヤーが誘拐された。1977年10月にはルフトハンザ航空181便ハイジャック事件を起こすが、ソマリアのモガディシュに着陸したところを西ドイツ政府によって派遣された特殊部隊GSG-9によって急襲された。結果、ハイジャック犯3名を射殺、1名を逮捕、乗客人質全員を救出され、ハイジャックの失敗を知ったバーダーらは獄中で自殺。10月19日、ドイツ赤軍は誘拐した会長を殺害、遺体はフランスで発見された。
1978年以降からは「六月二日運動」を中心に、完全に東ドイツ情報部(シュタージ)に指揮されるようになっていた。
1980年代 - 解散
1982年には、リーダーが逮捕されたもののフランスの極左組織直接行動とベルギーの戦闘的共産主義者細胞の残党を吸収して活動を再開。攻撃目標をNATOや軍関連の人物や施設に向けてさかんに暗殺、爆破をおこなった。
しかし、1989年にベルリンの壁が崩壊し冷戦が終結すると資金源や目標、存在基盤を失った。東ドイツに潜伏していたメンバーが次々逮捕され1990年代には後継組織とみられる「反帝国主義者細胞」が活動を始めたが1996年に最高幹部が逮捕され以後、活動をしていない。1998年にロイター通信ボン支店にドイツ赤軍の解散宣言の声明文を送付した。
映画
- 秋のドイツ(1981年、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、フォルカー・シュレンドルフ、監督等のオムニバス)
- 過激なフェルディナンド(1979年、フォルカー・シュレンドルフ監督)
- バーダー・マインホフ/理想の果てに(2008年、ウーリ・エーデル監督 ベアント・アイヒンガー脚本・製作)
音楽
- Baader Meinhof(1996年、The AuteursのLuke HainesとJohn Banburyによる同名の音楽ユニットによるアルバム)
脚注
- ↑ Gerd Koenen: Vesper, Ensslin, Baader. Urszenen des deutschen Terrorismus. Fischer Verlag, Frankfurt am Main 2005, ISBN 3-596-15691-2, p126.
- ↑ ブリュッセルの火災もベトナム反戦運動の過激派の犯行説がある