ノヴァーリス

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ノヴァーリス(Novalis, 1772年5月2日 - 1801年3月25日)は、ドイツロマン主義詩人小説家思想家・鉱山技師。シュレーゲル兄弟らと並ぶ初期ロマン主義の中心人物である。本名フリードリヒ・フォン・ハルデンベルク(Friedrich von Hardenberg)。筆名の「ノヴァーリス」はラテン語で新開墾地を意味する。

「シュタイン-ハルデンベルクの改革」で知られるプロイセン宰相カール・アウグスト・フォン・ハルデンベルク(1750年 - 1822年)とは親戚。

生涯

誕生

1772年5月2日にハルツ(当時はクアザクセン、現在はマンスフェルター・ラント)のオーバーヴィーダーシュテットの貴族の家庭に生まれる。この土地でハルデンベルクは幼少時代、少年時代を過ごした。

父ハインリヒ・ウルリヒ・エラスムス・フライヘル・フォン・ハルデンベルク(1738年 - 1814年)は厳格な敬虔主義者であり、ヘルンフート同胞教会の一員であった。2度目の結婚でアウグスティーネ・ベルンハルディーネ・フライフラウ・フォン・ハルデンベルク(旧姓ベルツィヒ)との間に11人の子をもうける。2番目の息子ゲオルク・フィリップ・フリードリヒ・フライヘル・フォン・ハルデンベルクが後にノヴァーリスと名乗ることになる。

幼少時代には家庭教師の教育を受ける。9歳の時に赤痢にかかり、後遺症で胃の弛緩を患う。この病気を機に詩的、知的才能が花開いたと伝えられている。

学生時代・ゾフィーとの出会い

1785年、父がザクセン選帝侯国の製塩工場長に任命されたことにより、1786年4月に一家をあげてヴァイセンフェルスに移住。1790年10月までアイスレーベンのルター・ギムナジウムに通い、修辞学西欧古典文学を学ぶ。10月末からイェーナ大学に入学し、法学を学ぶ。

1791年10月ライプツィヒ大学へ転学し、法学のほかに哲学、数学を学ぶ。1793年にはヴィッテンベルク大学へ移り、翌年、法学試験に合格。この年、当時12歳の少女ゾフィー・フォン・キューンと出会い、翌春に婚約を結ぶが、彼女は重病に倒れる。大学を首席で卒業し、秋には両親のもとに帰る。裁判所書記の見習いとしてザクセンのテンシュテットへ行き、実務を学ぶ。

死去

1796年、ゾフィーは3回にも及ぶ手術を経ながらも、回復することなく死去する。

この年、ヴァイセンフェルス製塩所の試補となる。その年の12月、ドレスデンケムニッツの間に位置するフライベルクの鉱山学校に入学。鉱山学地質学鉱物学化学数学についての講義を聴く。1799年フライベルクからヴァイセンフェルスに帰る。

12月にはヴァイセンフェルスの製塩所試補と管理局の一員となり、1800年にはテューリンゲン郡の地方長官採用予定者に任命された。しかし、以前から患っていた肺結核が悪化し、1801年3月その職に就くことなく死去した。

創作・思索活動

ルートヴィヒ・ティークアウグストフリードリヒのシュレーゲル兄弟らと親交をもつ。詩文芸の無限な可能性を理論と実践において追求した。雑誌『アテネーウム』に参加し、評論などを書いた。

ノヴァーリスの作品の特徴は、ゾフィーの死、いわゆる「ゾフィー体験」を中核にする神秘主義的傾向、とりわけ無限なものへの志向と、中世共同体志向にある。前者についてはゾフィーの墓の前で霊感を受けて作られた詩『夜の賛歌』に、後者は中世のミンネゼンガーを主人公にする小説『青い花』(原題は『ハインリヒ・フォン・オフターディンゲン』)や、宗教改革前の世界をキリスト教というひとつの文化的背景によって民族性を超えた普遍的地盤をもつ共同体として称揚した評論『キリスト教世界あるいはヨーロッパ』にことに顕著に現れる。この評論をアテネウム誌のために書いたノヴァーリスであったが、評論内で展開された詩的歴史観が、誤解を招く恐れがあると周囲からみなされ、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの判断をあおいだ結果、発表を見合わせることになった。

主要著書

  • 断片集 Blüthenstaub (1798) - 日本語訳『花粉』
  • 小説 Die Lehrlinge zu Sais (1798)(未完)- 日本語訳『ザイスの弟子たち
  • 小説 Heinrich von Ofterdingen (1801)(未完)- 日本語訳『青い花
  • 評論 Die Christenheit oder Europa (1799) - 日本語訳『キリスト教世界あるいはヨーロッパ』
  • 詩集 Hymnen an die Nacht (1800年) - 日本語訳『夜の讃歌

主な訳書

関連項目

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