デズモンド・ムピロ・ツツ
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デズモンド・ムピロ・ツツ | ||||||||
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デズモンド・ムピロ・ツツ(Desmond Mpilo Tutu, 1931年10月7日 - )は南アフリカの平和運動家、アングリカン・コミュニオン(=俗に言う「英国国教会」)南部アフリカ聖公会のケープタウン元大主教。1984年にノーベル平和賞を受賞。2013年にはテンプルトン賞を受賞した[1]。
経歴
ロンドン大学キングス・カレッジで神学を学ぶ。アパルトヘイト撤廃運動で活躍し、アパルトヘイト撤廃後にアパルトヘイト時代に黒人が受けた人権侵害等を調査するため、真実和解委員会が結成された際には、黒人、白人の双方から信頼されていたツツが委員長に就任した。1998年に、ツツは委員長としてその調査結果を国民に公表した。
ソルトレイクシティオリンピックの開会式でオリンピック旗を掲揚する際の旗手を務めた。
2002年4月、ボストンでパレスチナ問題に関連して、まずアパルトヘイト撤廃に何より協力してくれたのはユダヤ人であったと感謝の意を述べてから、しかしイスラエルがパレスチナ人に対して分離壁の設置やユダヤ人入植地を建設していることについて、かつて南アフリカで黒人に対して行われていたのと同じだと批判した[2]。サイモン・ウィーゼンタール・センターなどの親イスラエル団体からは、ツツに対する抗議や苦情もあった[3]。
2008年3月25日、チベット問題に関連して、中華人民共和国政府に対し抗議声明を発表した[4]。
2009年に行われたアイルランドのロックバンドU2の360°ツアーでは、スピーチ映像が引用された。
2010年の誕生日をもって、ケープタウン大主教を引退。
略年譜
- 1931年10月7日、クレルクスドルプ(ヨハネスブルグ西、120km)で生まれる
- 1945年、結核にかかり療養生活を送る(20ヶ月)、療養所で、トレヴァー・ドルストン神父と知り合う
- 1950年、メディベイン高校卒業
- 1951年、パンツー教育大学入学
- 1955年7月2日、レア・ノマリゾ・シェンクセーンと結婚、パンツー教育法公布、自由憲章発表
- 1958年、教師を辞め、セント・ピーターズ・カレッジ、ロゼッテンヴィル(ケープ東部)で神学を学ぶ
- 1960年3月21日、シャープヴィルの虐殺、5000人のパス法反対デモ者のうち、69人死亡、180人負傷
- 1961年、ベニノで司祭になる、南アフリカ連邦は、イギリス連邦から離れて、南アフリカ共和国となる
- 1968年、フォートヘア大学で改善要求の座り込みをした学生500人は退学処分を受ける
- 1975年、南部アフリカ聖公会のヨハネスブルグ大聖堂主任司祭になる
- 1976年、ソウェトで暴動、約600人が殺された
- 1979年、ハーバード大学名誉学位授与
- 1984年、ノーベル平和賞受賞
- 1986年、ケープタウン大主教就任
- 1988年、ケープタウンで反アパルトヘイトデモ、逮捕、釈放
- 1990年、ネルソン・マンデラが28年ぶりに釈放される
脚注
関連項目
外部リンク
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