ネルソン・マンデラ
ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ Nelson Rolihlahla Mandela ノーベル賞受賞者 | |||||||
ファイル:Nelson Mandela-2008 (edit).jpg |
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任期 | 1994年5月10日 – 1999年6月14日 | ||||||
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副大統領 | フレデリック・デクラーク ターボ・ムベキ | ||||||
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任期 | 1994年 – 1999年 | ||||||
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任期 | 1991年 – 1997年 | ||||||
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出生 | テンプレート:生年月日と年齢 テンプレート:ZAF1912 トランスカイ | ||||||
死去 | テンプレート:死亡年月日と没年齢 テンプレート:Flagicon 南アフリカ共和国 ハウテン州 ヨハネスブルグ |
政党 | アフリカ民族会議 | 配偶者 | テンプレート:仮リンク (結婚1944–1957; 離婚) |
署名 | 128px |
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ネルソン・ホリシャシャ・マンデラ(テンプレート:Lang-xh、1918年7月18日 - 2013年12月5日)は、南アフリカ共和国の政治家、弁護士である。
大統領(第8代)、下院議員(1期)、アフリカ民族会議議長(第11代)、南アフリカ共産党中央委員を歴任。
賞歴としてネルー賞、ユネスコ平和賞、アフリカ賞、サハロフ賞、ノーベル平和賞、国際検察官協会名誉章受章など。称号には名誉法学博士(早稲田大学)など。南アフリカ共和国での愛称はマディバ、タタ(父)[2]。マディバとは彼の先祖が誰かを象徴する氏族名であり、部族社会の影響が残る南アフリカでは単なる愛称ではなく、尊称に近いものである。ミドルネームのホリシャシャはコーサ語で「トラブルメーカー」の意味。
目次
来歴
若くして反アパルトヘイト運動に身を投じ、1964年に国家反逆罪で終身刑の判決を受ける。27年間に及ぶ獄中生活の後、1990年に釈放される。翌1991年にアフリカ民族会議(ANC)の議長に就任。デクラークと共にアパルトヘイト撤廃に尽力し、1993年にノーベル平和賞を受賞。1994年、南アフリカ初の全人種参加選挙を経て同国大統領に就任。民族和解・協調政策を進め、経済政策として復興開発計画(RDP)を実施した。1999年に行われた総選挙を機に政治家を引退した。
反アパルトヘイトの闘士
1918年7月18日にトランスカイのウムタタ近郊クヌ村で、テンブ人の首長の子として生まれる。メソジスト派のミッションスクールを卒業した後、フォート・ヘア大学で学ぶ。在学中の1940年には、学生ストライキを主導したとして退学処分を受ける。その後、南アフリカ大学の夜間の通信課程で学び1941年に学士号を取得した。また、その後、ウィットワーテルスランド大学で法学を学び、学士号を取得した。1944年にアフリカ民族会議(ANC)に入党。その青年同盟を創設し青年同盟執行委員に就任して反アパルトヘイト運動に取組む。1950年、ANC青年同盟議長に就任。アフリカ民族会議を構成する南アフリカ共産党にもひそかに入党し、党中央委員を務めるようになる。
1952年8月にヨハネスブルグにてフォート・ヘア大学で出会ったオリバー・タンボと共に弁護士事務所を開業する。同年の12月にANC副議長就任。1961年11月、ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)という軍事組織を作り最初の司令官になる。それらの活動などで1962年8月に逮捕される。1964年に国家反逆罪で終身刑となりロベン島に収監される[3]。1982年、ケープタウン郊外のポルスモア刑務所に移監。この時、イギリス人傭兵の有志が集まってネルソンを救出する作戦が立てられたことがあったが、南アフリカ側への情報漏れで中止されたという[4]。この収監は27年にも及び、マンデラはこの時期に結核を始めとする呼吸器疾患になり[5]、石灰石採掘場での重労働によって目を痛めた[6]。収監中にも勉学を続け、1989年には南アフリカ大学の通信制課程を修了し、法学士号を取得した。
全民族融和の象徴
1989年12月に当時の大統領フレデリック・デクラークと会談し、翌1990年2月11日に釈放される。釈放後、ANC副議長に就任。デクラークとの予備会談にANC代表として出席する。また、1990年10月27日から11月1日までANC代表団を率いて訪日している。
1991年、ANC議長に就任。デクラークと協力して全人種代表が参加した民主南アフリカ会議を2度開き、さらに多党交渉フォーラムを開いた。暫定政府、暫定憲法を作成。1991年6月にアパルトヘイトの根幹法である人口登録法、原住民土地法、集団地域法などを廃止し、翌1993年12月10日にデクラークとともにノーベル平和賞受賞。
1994年4月に南ア史上初の全人種参加選挙が実施された。ANCは勝利し、ネルソンは大統領に就任した。暫定憲法の権力分与条項に基づき国民党、インカタ自由党と連立政権をたて、国民統合政府を樹立した。ネルソンは民族和解・協調を呼びかけ、新憲法制定によるアパルトヘイト体制下での白人・黒人との対立や格差の是正、黒人間の対立の解消、経済不況からの回復として復興開発計画(RDP)を公表した。
1997年12月のANC党大会でネルソンは、議長の座を副大統領のターボ・ムベキに譲る。1999年2月5日、国会で最後の演説をした。同年行われた総選挙を機に政治の世界から引退した。
引退後
2000年1月19日に国際連合安全保障理事会で初めて演説を行った。2001年7月に前立腺癌が発見され、7週間の放射線治療を受けた。2005年1月7日に前妻・ウィニーとの子供マカト・マンデラがエイズによる合併症で死亡した事を公表した。 2008年6月末、正式に米国政府により、テロリスト監視リストより名前が削除された[7]。
2010年6月11日に行われたFIFAワールドカップ南アフリカ大会の開会式に出席する可能性が高いと親族が明らかにしていたが、前日にひ孫が交通事故で亡くなったことを受け、出席を断念。代わりにビデオメッセージを送った。なお閉会式には出席した。
この時以降公の場には姿を現さなかった。90歳を越えて高齢のため体に衰えが見え始めており、2012年12月8日に肺の感染症のため、首都プレトリアの病院に入院した。2013年4月6日、症状が改善したため退院した[5]。しかし、2013年6月から体調は悪化し、感染症を再発し6月8日から再入院となった[8]。
死去
テンプレート:Main 2013年6月23日、南アフリカ大統領府は、ネルソンが危篤状態に陥ったと発表した[9]。その後、ネルソンの容態は安定しており、7月18日に病室で95歳の誕生日を迎えた。娘のジンジは7月16日に、「ヘッドホンを着けてテレビを見ており、笑顔を見せた」という様子を語っている[10]。ネルソンの誕生日に合わせて、2013年7月18日に、国際連合は本部で「ネルソン・マンデラ国際デー」の式典を開き、ネルソンの功績を称えると共に回復を祈った[11]。
2013年12月5日(日本時間6日未明)、ヨハネスブルグの自宅で死去[12][13][14]。テンプレート:没年齢。
追悼式にはアメリカ3大ネットワークとCNN・BBCもそれぞれのアンカーマンを現地(ヨハネスブルグもしくはプレトリア)に派遣し、各国からも日本の皇太子徳仁親王、イギリスからはチャールズ皇太子[15]とキャメロン首相、アメリカ合衆国よりバラク・オバマアメリカ合衆国大統領及びビル・クリントンやジミー・カーター元大統領、ブラジルのジルマ・ルセフ大統領、キューバのラウル・カストロ国家評議会議長など各国の国家元首もしくはそれに準ずる人物が出席し、追悼式典のVIP席でバラク・オバマとラウル・カストロが握手する、弔問外交となった[16]。
人物
メソジスト教会で洗礼を受けたクリスチャンである。若き日の彼に大きな影響を与えたのは、テンブの人々の習慣とキリスト教のミッションスクールで受けた教育であった [17]。
結婚は3度している。1944年にテンプレート:仮リンク(Evelyn)と最初の結婚。1957年離婚。1958年、ウィニーと2度目の結婚。マンデラの収監中にウィニー夫人は獄外で政治活動を行った[18]。しかし1992年4月13日、離婚の意思を表明し、4年後の1996年3月19日にウィニーとの離婚が成立。1998年7月18日にモザンビークの初代大統領で飛行機事故で亡くなったサモラ・マシェルの未亡人、テンプレート:仮リンク夫人と3度目の結婚。
大統領時代、日本のバラエティー番組「進め!電波少年」で松村邦洋のアポなしロケを受けたことがある(「イヨ!大統領!憎いねコノー!」と声をかけるというもの)。周りにはSPもいたが、突然のことに驚いた様子だったものの、遥々日本から来た松村を温かく歓迎した。
交友関係
マイケル・ジャクソンとの交友
マイケル・ジャクソンと親しかったとして知られる。1996年には王国主催で無料のコンサートを開いたこともあった。
マイケル死去の際マンデラは、
- 「マイケルの余りにも早い死を本当に残念に思います。彼は定期的に南アフリカを訪れ、ライブを披露してくれるようになり、我々は親しくなり、彼は家族同然の存在になりました。私は彼の素晴らしい才能、人生における様々な悲劇を乗り越えて来た彼を心から尊敬しています。マイケルは音楽界の伝説です。彼を失って本当に悲しいです。彼の死は惜しまれ、彼の功績は末長く受け継がれていくことでしょう。」
と追悼のコメントを残した[19]。
映画
- 『マンデラの名もなき看守』(2007年)
- 監獄に入れられたマンデラと看守の交流を描く。マンデラ役はデニス・ヘイスバート。
- 『インビクタス/負けざる者たち』(2009年)
- 1995年に南アラグビーチームがワールドカップに優勝した話の映画化。マンデラ役はモーガン・フリーマン。
- 『マンデラ 自由への長い道』(2013年)
- 自伝の映画化。マンデラ役はイドリス・エルバ。
脚注
関連項目
- アパルトヘイト
- アフリカ民族会議
- 南アフリカの大統領
- ネルソン・マンデラ・ベイ・スタジアム
- ネルソン・マンデラ・チルドレンズ・ファンド
- ザ・ネルソン・マンデラチャンピオンシップ presented by ISPSハンダ
- 有名人のハプログループ
外部リンク
- Gallery of Mandela pictures, including some rare ones from his early days
- ANC profile of Mandela
- Time 100 profile
- Nelson Mandela Defiant At Rivonia Trial
- Nelson Mandela Foundation - 46664
- Big Picture TV Free video clip of Nelson Mandela
- Nelson Mandela's Order of Canada Citation
- Mandela appeals on behalf of Lockerbie bomber
- International diplomacy by Nelson Mandela
- 早稲田大学名誉博士学位贈呈者一覧
- テンプレート:CAPlink
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
フレデリック・デクラーク
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 南アフリカ共和国大統領
第8代:1994 - 1999
|style="width:30%"|次代:
タボ・ムベキ
テンプレート:S-dip
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
Andrés Pastrana Arango (en)
|style="width:40%; text-align:center"|非同盟諸国首脳会議事務総長
1998 - 1999
|style="width:30%"|次代:
タボ・ムベキ
テンプレート:S-ppo
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
オリバー・タンボ
|style="width:40%; text-align:center"|25px ANC議長
第11代 : 1991-1997
|style="width:30%"|次代:
タボ・ムベキ
- 転送 Template:End
テンプレート:ノーベル平和賞受賞者 (1976年-2000年) テンプレート:Normdaten
テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA
- ↑ "The Nobel Peace Prize 1993" NobelPrize.org
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ このときの、彼の監獄番号が「46664」であり、現在、彼の財団の活動を象徴する番号となっている。厳密には上位「466」が彼の囚人番号、下位「64」が彼の投獄された年、19「64」年の下2桁である。そのため、「46664」は一般に、four-double six-six-fourと発音する
- ↑ 『ネルソン・マンデラ』 メアリー・ベンソン著
- ↑ 5.0 5.1 テンプレート:Cite news
- ↑ 独居房、N・マンデラの足跡 ナショナルジオグラフィック 2013年12月6日
- ↑ Mandela taken off US terror list BBC 2008-07-01
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 南アフリカ マンデラ元大統領が死去NHK2013年12月6日閲覧
- ↑ Nelson Mandela Dead Former South African President Dies at 95(ABC News)12/6閲覧
- ↑ マンデラ氏死去、95歳=アパルトヘイト撤廃に尽力―ノーベル平和賞・南ア(時事)12/6閲覧
- ↑ 女王エリザベス2世は出席を希望したが高齢のため叶わず、代わりにウェストミンスター寺院での追悼行事を行うこととなった。ウェストミンスターで国外の人物の追悼行事を行うのは初である(チャールズ皇太子が出席へ MSN産経ニュース、2013年12月10日閲覧)。
- ↑ NBCナイトリーニュース、Podcastにて2013年12月10日閲覧
- ↑ ネルソン マンデラ 幼少時代 Google Cultural Institute .
- ↑ ウィニー夫人、N・マンデラの足跡 ナショナルジオグラフィック 2013年12月6日
- ↑ テンプレート:Cite web