チッソ
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チッソ株式会社 (CHISSO CORPORATION) は、かつて化学工業を行う企業であったが、同社が有していた事業部門を2011年3月31日をもって中核子会社のJNCに移管したことで、同社は水俣病の補償業務を専業とする企業である。
登記上の本店を大阪市北区中之島 に、本社を東京都千代田区大手町に置く。
戦後の高度成長期に、水俣病を引き起こしたことで知られる。旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業、センコー、日本ガスなどの母体企業でもある。
主な子会社・関連会社として、JNC、JNC石油化学(旧:チッソ石油化学)(事業所:千葉県市原市)、九州化学工業(工場:福岡県北九州市)、JNCファイバーズ(旧:チッソポリプロ繊維・事業所:滋賀県守山市)や、ポリプロピレン事業合弁会社の日本ポリプロなどがある。また、日本国内の合弁相手に吉野石膏や同社と同根である旭化成がある。
同社が有していた事業部門
テンプレート:Main 液晶事業において、ドイツのメルク社と並び世界のトップシェアを誇り事業の柱としていた。 バイオテクノロジー・電子部品部門も展開する一方、旧来からの肥料事業・農事産業部門も継続していた。 石油化学部門では、三菱化学の石化セグメント子会社、日本ポリケムとのポリプロ事業統合などで、事業のさらなる展開を図っていた。
歴史
沿革(前身企業を含めて)
- 1906年、野口遵によって曽木電気株式会社が創業される。鹿児島県伊佐郡羽月村(現・伊佐市)に曽木水力発電所を建設
- 1907年、曾木発電所の余剰電力を利用してカーバイドを製造することを目的として、熊本県葦北郡水俣村(現・水俣市)に日本カーバイド商会[1]が設立される[2]
- 1908年、曾木電気株式会社と日本カーバイド商会が合併し、商号を日本窒素肥料株式会社に変更する(本社は大阪)。水俣工場でのカーバイド製造を皮切りに、総合化学会社となってゆく。昭和初期に業績を伸ばしたいわゆる新興財閥日窒コンツェルンの中心企業であった
- 1914年、水俣工場でカーバイドを原料とする石灰窒素法による硫安の製造開始。ヘドロが海に流れ出し漁業被害が始まる
- 1923年、延岡工場(後の旭化成延岡工場)にカザレー法によるアンモニア合成を導入し硫酸アンモニウム(硫安)の製造を開始(1926年、水俣工場でも開始)
- 1926年、信濃電気株式会社と合弁で長野県長野市に信越窒素肥料株式会社(現・信越化学工業)が設立される。水俣湾の漁業組合への補償を実施
- 1927年、朝鮮窒素肥料株式会社と朝鮮水力電気株式会社を設立し、朝鮮の興南(現・北朝鮮咸鏡南道咸興市)を始め、朝鮮半島各地に大規模化学コンビナートや水豊ダム、水力発電所を建設する。興南工場建設のため、用地買収を実施
- 1931年、宮崎県延岡市に延岡アンモニア絹絲株式会社(現・旭化成)が設立される(日本窒素肥料からの分離・独立)。水俣工場を昭和天皇が視察(11月16日)[3] 。水俣工場の橋本彦七・製造課長がアセトアルデヒド製造の特許を取得。通算7件の特許のうち1件は「高価有毒な水銀を系外に排出せざる」という内容であった
- 1932年、水俣工場でアセトアルデヒドの製造開始(この製造に水銀触媒を使用した事が、メチル水銀漏出による水俣病へとつながる)。この年酢酸工場の臨時工の採用試験を受けた者は橋本彦七から「いつ爆発するかもしれないがそれでもいいか」と質問され就職難の折、「はい、いつ死んでもよろしゅうございます」と答えてやっと採用されたという[4]
- 1941年、水俣工場で日本最初の塩化ビニール製造開始。工程には塩化第二水銀・昇汞が含まれた。興南工場でアセトアルデヒドの製造開始。廃水溝の水銀は回収せず廃液は城川江に流していた
- 1942年、水俣工場では日本人工員が兵役にとられ、炭鉱などから移ってきた朝鮮人の自由労務者の雇用を開始。原則として日本人と同じ仕事・待遇であった。また、地元の生徒の勤労動員も行われ、沖縄から学徒疎開で来た者も動員された。確認できる最初の水俣病患者が発病(1972年、熊本第2次水俣病研究班の調査で判明)
- 1943年、ヘドロにより水俣湾の漁場が荒廃し、被害漁場の漁業権を買い取る
- 1945年、第二次世界大戦の敗戦により、興南工場を始めとする国外資産・工場設備を失う。日窒コンツェルンは解体され、空襲で壊滅状態となった水俣工場のみが残された。橋本彦七工場長が原料を山間部に疎開保管しておいたため、敗戦2ヶ月後には、食糧増産に必要な硫安の製造を再開した
- 1946年、水俣工場でアセトアルデヒドの製造を再開
- 1947年、公職追放令により戦前からの経営陣が退陣。財閥解体により、「積水産業」(現・積水化学工業)設立(後に積水化学の住宅部門が分離独立し積水ハウスが設立)。水俣工場の肥料生産量は戦前の水準を超える。九州地方の電力不足に対し、水俣工場附属火力発電所は配電会社に電力を供給し、窮状を救った[5]。
- 1949年、水俣工場の塩化ビニール製造を再開。5月29日、水俣工場を昭和天皇が行幸し、戦災から急速に立ち直り肥料増産に励む状況を90分間視察[6]
- 1950年、企業再建整備法の適用により日本窒素肥料株式会社は解散し、第二会社として新日本窒素肥料株式会社が設立される。本社を大阪から東京都千代田区へ移転。水俣市制後最初の市長選挙で橋本彦七元工場長が当選。以後、落選1回を挟み通算4回当選
- 1952年、アセトアルデヒドを原料としてオクタノールの製造を開始
- 1955年、労災事故多発のため熊本の労働基準監督署から安全管理特別指導事業場に指定をされた[7]
- 1956年、日窒アセテート株式会社(現・旭化成守山工場)を設立し合成繊維事業に参入する
- 1958年、日窒電子化学株式会社(のちの三菱マテリアル野田工場)を設立しシリコンウェハー事業に参入する
- 1960年、アセトアルデヒド生産量がピークに達した
- 1962年4月、9か月にわたる安定賃金闘争が始まる[8]。6月にチッソ石油化学株式会社を設立し石油化学事業に参入する。千葉県五井工場の建設に着手
- 1963年1月、労働争議が終結。会社がロックアウトを行ったため減産の結果に終わった。チッソポリプロ繊維株式会社を設立しポリプロピレン繊維の製造を開始する。五井工場でポリ塩化ビニルの製造開始
- 1964年、五井工場でアセトアルデヒドの製造開始
- 1965年にはチッソ株式会社へと改称している
- 1968年5月、水俣工場でアセトアルデヒドの製造中止
- 1971年3月、水俣工場で少量の有機水銀を排出していた、アセチレン法ビニル工程の稼働を中止
- 1972年1月、五井工場で、交渉に来た患者や新聞記者たち約20名が会社側の雇った暴力団員に取り囲まれ、暴行を受ける事件が発生[9]。写真家ユージン・スミスが片目失明の重傷を負う
- 1973年、五井工場のポリプロピレンプラント爆発事故で死者4名、重軽傷者9名を出す[1]
- 1978年、債務超過と無配継続のため、上場廃止。店頭管理銘柄となる。またチッソ救済のための熊本県債が発行される
- 1994年、チッソ金融支援策として、県債の金利負担軽減、地域振興基金からの融資、国から基金への財政措置などを決定
- 2000年4月3日、グリーンシート銘柄に指定
- 2003年、水俣市が土石流災害に襲われ、希望する被災者に社宅を無償で提供
- 2005年、五井工場で核燃料物質を含む廃触媒を保管しているが、核燃料物質を含む廃棄物の管理状況についての報告が1992年以降行われていないことが明るみに出た[2]。水俣工場の百間排水路で基準の3.8倍のダイオキシンが検出。汚染源は農薬製造に使う硫酸カリウム製造装置
- 2005年、韓国にLCD用配向膜及びオーバーコートの製造設備完成
- 2006年、1909年完成の曾木第2発電所が登録有形文化財[10]となる
- 2006年、台湾智索台南工場竣工
- 2010年12月15日、環境大臣が事業再編計画を認可
- 2011年1月12日、事業子会社として「JNC株式会社」(Japan New Chissoの略・資本金1億5千万円)を設立、登記する
- 2011年2月8日、環境大臣がJNC社への事業譲渡を許可
- 2011年3月11日の東日本大震災で、五井工場に隣接するコスモ石油製油所から火災が発生し工場が類焼したが、劣化ウラン保管施設は無事だった模様[11]
- 2011年3月31日、機能材料分野、化学品分野、加工品分野等において営む事業をJNC社に譲渡[12]。JNCは、チッソ株式会社の事業のうち、水俣病補償業務以外の全部の生産事業の譲渡を受けた。チッソは、JNC社の持株会社(完全親会社)としてJNC社の経営、財産を管理・監督するとともに、JNC社からの配当をもとにして水俣病患者への補償を行う
- 2014年5月1日、森田美智男社長が、被害者の救済が近く完了することを理由にJNCの早期上場を目指す考えを表明。被害者団体は「問題の幕引きを図ろうとするもので一方的」と反発
水俣病
テンプレート:Amboxテンプレート:DMC テンプレート:Main 同社の水俣工場が触媒として使用した無機水銀の副生成物であるメチル水銀を含んだ廃液を海に無処理でたれ流したため、水俣病を引き起こした。1960年代に電気化学から石油化学への転換が遅れたことに加え、1962年7月から翌1963年1月まで続いた労働争議の影響で製品の販路を失うなど経営状態が悪化し、1965年には無配になった。水俣病裁判での敗訴後は被害者への賠償金支払い、第一次オイルショックなどにより経営がさらに悪化。債務超過・無配継続により1978年に上場を廃止した。その後株式は店頭管理銘柄(現在はグリーンシートの「オーディナリー」区分に編入)となり、制約つきで流通している(株式の取り扱いはみずほ証券のみが認められている)。同社は現在では実質上、国の管理下にある。水俣病問題は発生から数十年経過した現在でも未だに解決を見ていない。なお、水俣工場は現在もJNCの水俣製造所として操業を継続している。
日本興業銀行から転じた江頭豊が1964年から1971年にチッソ社長、1971年以後は同会長、同相談役を務めた。社長時代には一旦謝罪したが、その後被害者と対峙するようになり、水俣病被害者との話し合いは進まなかった。テンプレート:要出典範囲。現在でも鹿児島県と熊本県には6000人以上の水俣病認定申請者がいる。
水俣病関連
- 少なくとも1953年頃より、水俣湾周辺の漁村地区などで猫などの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった。
- 1956年5月1日、新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。
- 1959年、熊本大学医学部水俣病研究班が水俣病の原因物質は有機水銀であると公表した。
- 1970年11月28日、株主総会を大阪厚生年金会館(現・オリックス劇場)で開催。会場正面入口近くに配置された特別防衛保障の警備員により、株式を取得して総会に出席しようとする水俣病患者・家族・支援者(1株株主)の入場を妨害した。会場に入場できた1株株主の発言も総会屋の野次で妨害した。総会は5分で閉会した[13][14][15][16]。総会前の11月13日、「一株運動」について、当時のチッソ専務は、「株主総会に出席する趣旨が反体制運動とか政治的なことだったら違った方法をとらざるを得ない」「一株運動を封じるために総会屋を雇うようなことはしない」と発言していた[17]。
- 1976年に熊本地方検察庁が、社長の吉岡喜一と元工場長の西田栄一を業務上過失致死傷害罪で熊本地方裁判所に起訴した。1988年3月に最高裁で有罪が確定した。
- 水俣病を取材していたジャーナリスト、ユージン・スミスに対し、企業に忠誠を誓う多数派労組が暴行し、重傷を負わせた[9]。
脚註
参考文献
- 後藤孝典「沈黙と爆発」(集英社1995) ISBN 4087751953
- 宮澤信雄「水俣病事件四十年」(葦書房1997) ISBN 4751206915
- 「水俣病50年」(2006西日本新聞社) ISBN 4816707117
- 「水俣病50年」(2006熊本日日新聞社) ISBN 4877552561
- 岡本達明「聞書水俣民衆史全5巻」草風館[3]