ダービー伯爵

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ダービー伯爵の紋章

ダービー伯爵テンプレート:Lang-en-short)は、イギリス伯爵位の一つ。

解説

これまでにイングランド貴族として3度創設されている。最初は1139年ロバート・ド・フェラーズに対して叙位され、6代伯ヘンリー3世に領地を没収されて1279年に没するまでフェラーズ家が保持した。その後、フェラーズ家の財産や1337年に創設されたダービー伯爵の称号はヘンリー3世の子孫が保持したが、爵位保持者がヘンリー4世として即位したため消滅した。そして1485年トマス・スタンリーに対して叙位され、現在までスタンリー家が保持している。

ダービー伯爵の従属称号に、スタンリー男爵Baron Stanley)およびプレストンのスタンリー男爵Baron Stanley of Preston)がある。初代伯の父トマス・スタンリーがスタンリー男爵に叙されたが、5代伯の死去によってスタンリー男爵位は保持者不在となった。また2代伯は、1299年に創設されたストレンジ男爵Baron Strange)を相続したが、これも5代伯の死去によって保持者不在となり、ストレンジ男爵位は現在セント・デイヴィズ子爵が保持している。一方7代伯から9代伯は、手違いによって1628年に再度創設されたもう一つのストレンジ男爵位を保持していた。

伯爵位の法定推定相続人は、スタンリー卿Lord Stanley)の儀礼称号で称される。

イギリスのダービーステークスは創設者の一人であった12代伯にちなんで名づけられ、各国の競馬のダービーもこれに由来する。12代伯は自身の生産所有馬で一度だけダービーに勝ったが、その曾々孫にあたる17代伯エドワードは、ダービーを名馬ハイペリオンなど生産所有馬で二度制している。

伯爵家としてはダービーよりも、同時に創設したオークスに縁があり、第1回に優勝した12代伯から第226回ウィジャボードで優勝した19代伯まで、通算9勝を挙げている。4世紀に渡るそれらの勝利の記録は、イングランドマージーサイドにあるダービー伯爵家の邸宅、ノーズリー・ホールで、一族の肖像画などとともに展示されている。

NHLの優勝杯であるスタンレー・カップは、当時スタンリー卿であった16代伯が寄贈したことに由来する。

歴史

フェラーズ家の受爵

ロバート・ド・フェラーズノルマン人の貴族で、ノルマン・コンクエストに参加しヘイスティングズの戦いで戦ったヘンリー・ド・フェラーズの息子であった。1138年スタンダードの戦いにおける彼の勇戦ぶりを称え、スティーブン王によってダービー伯爵が与えられた。

初代伯ロバートの没後、伯位は息子のロバート(2世)が継承した。

3代伯ウィリアムは2代伯の息子で、ヘンリー2世に対する反乱を起こしてノルマンディーカーンで拘束された。彼は後に第3回十字軍に参加し、アッコンの戦いで戦死した。伯位は息子の4代伯ウィリアム(2世)が、次いでその息子である5代伯ウィリアム(3世)が継承した。

6代伯ロバートは5代伯ウィリアムの息子で、ヘンリー3世に対して反乱を起こしたが捕らえられ、はじめロンドン塔に、後にウィンザー城ウォリングフォード城に監禁された。領地と爵位は没収された。

ヘンリー3世による授爵

1266年にロバートから奪った領地は、ヘンリー3世の息子であるランカスター伯爵エドマンド・クラウチバックに与えられ、その息子トマスは自身を「フェラーズ伯爵」と称した。その後、トマスの甥で相続人となったヘンリー・オブ・グロスモント1337年エドワード3世からダービー伯爵に叙された。ヘンリーは1351年ランカスター公爵にも叙されている。

ヘンリーの没後、これらの称号は娘のブランシュと結婚したジョン・オブ・ゴーントに相続され、次いでジョンの長男ヘンリー・ボリングブロクが継承した。ヘンリー・ボリングブロクは1399年にヘンリー4世としてイングランド王に即位したため、ダービー伯爵の称号は消滅した。

スタンリー家の受爵

スタンリー家はウィリアム征服王とともにイングランドへ渡った Adam de Aldithley の子孫で、結婚持参金としてダービーシャーの Stanleigh を所持していた人物と結婚してこの姓を用いるようになった[1]

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初代ダービー伯爵トマス・スタンリー

サー・トマス・スタンリーアイルランド統監ランカシャー選出庶民院議員を務めた後、1456年スタンリー卿として貴族院へ召集された(貴族院に召集されるということは貴族に列せられることを意味している)。彼の長男である2代男爵トマスマーガレット・ボーフォートと結婚し、薔薇戦争におけるボズワースの戦いの際に継子のリッチモンド伯ヘンリー・テューダー(後のヘンリー7世)側についた功績でヘンリー7世によってダービー伯爵に叙された。これはウィリアム・シェイクスピアの『リチャード三世』にも描かれている。

初代伯となったトマスの長男であるジョージは第9代ストレンジ女男爵ジョーン・ストレンジと結婚し、妻の権利によって貴族院に出席した。彼は父より先に没したため、ダービー伯爵やストレンジ男爵の爵位は長男のトマスが相続した。

2代伯トマスの後は、息子のエドワードが3代伯となった。彼は1553年に挙行されたメアリー1世戴冠式において王室執事長大家令)を務めたほか、チェシャーランカシャーの統監となった。

4代伯ヘンリーは3代伯の息子で、マーガレット・クリフォードと結婚した。彼女はメアリー・テューダーの孫であり、以後直系子孫である10代伯までのスタンリー家の成員はイングランドの王位継承権を持つことになった。

5代伯ファーディナンドは4代伯の長男で、1594年に死去した。彼は当時イングランド王位継承順位が母に次ぐ2位で、死の状況も不可解なものであったため、イエズス会士によって毒殺されたのだといわれた。彼には女子しかいなかったため、ダービー伯爵位は弟のウィリアムが継承した。一方ストレンジ男爵位は女子も継承できるがその場合の優先順位が存在しないため、保持者不在となった。

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第7代ダービー伯爵ジェームズ・スタンリー

7代伯ジェームズは大ダービー伯(Great Earl of Derby)とも呼ばれる。彼は6代伯ウィリアムの長男で、1628年にストレンジ卿として貴族院に招集された。これは父親がこの称号も継承していると思われていたためであったが、上記の通りこれは誤りであった。結果、貴族院は1299年叙位のストレンジ男爵位とは別に、1628年に新しく叙位されたもう一つのストレンジ男爵位があることにすると決定した。ジェームズはイングランド内戦において一貫して王党派に立ち、領有していたマン島を王党派の拠点としたが、1651年ウスターの戦い議会派に敗れて捕らえられ、ボルトンで処刑された。

ジェームズの一人息子チャールズが8代伯に、次いでチャールズの長男ウィリアムが9代伯となった。ウィリアムには一男二女がいたが息子より長生きしたため、ダービー伯位は弟のジェームズが継承した。一方ストレンジ男爵位は女子も継承できるがその場合の優先順位が存在しないため、保持者不在となった。

10代伯は政治家で、先祖達と同様にチェシャーとランカスターの統監となったほか、ランカスター公領大臣ヨーマン・オブ・ザ・ガード隊長を務めた。また1732年に兄の孫からストレンジ男爵を継承したが、ジェームズには子がいなかったため、1736年に彼が没すると2代伯の男系子孫は断絶した。ダービー伯爵位は2代伯の弟の子孫であるエドワード・スタンリー準男爵が、ストレンジ男爵位はジェームズの従弟である第2代アサル公爵ジェイムズ・マレーが継承した。

11代伯エドワードは襲爵前にランカシャー選出庶民院議員を、襲爵後にランカシャー統監を務めた。 エドワードの長男であるジェームズは儀礼称号のストレンジ卿で知られる。彼も政治家で、ランカスター公領大臣を務めた。また姓を妻のものと組みあせて「スミス=スタンリー」へ改めた。ジェームズは11代伯エドワードより先に没したため、ジェームズの息子で11代伯の孫にあたるエドワードが12代伯となった。 12代伯もやはりランカスター公領大臣を務めたが、専ら競馬の世界で有名である。特にオークスダービーを創設したことで知られ、前者をブリジット(Bridget)およびハーマイオニ(Hermione)によって二度、後者をサーピーターティーズルによって一度、それぞれ勝利した。

13代伯エドワードは12代伯の長男で、襲爵前にプレストンランカシャー選出庶民院議員となった。また1832年ビッカースタフのスタンリー男爵に叙された。彼は博物学にも興味を示し、政界引退後にリバプール博物館を創設した。

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第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリー

14代伯エドワードは歴代のダービー伯爵の中で最も有名な一人である。彼は13代伯の息子で、保守党の初期に、党首を22年にわたって務め、その間三度イギリスの首相となった。選挙法改正がその最大の業績である。また競馬のオークスをアイリス(Iris)の馬主として優勝している。

15代伯となったエドワードは14代伯の息子で、父の下で外務政務次官植民地大臣外務大臣を歴任し、ベンジャミン・ディズレーリ内閣でも外務大臣を、ウィリアム・グラッドストン内閣では植民地大臣を務めた。

15代伯には子がなかったため、弟のフレデリックが伯位を継承した。彼も保守党の政治家で、戦争大臣植民地大臣商務大臣を務め、襲爵前にプレストンのスタンリー男爵に叙された。また1888年から1893年までカナダの総督でもあり、ブリティッシュコロンビア州スタンレーパークに名が残されているほか、カナダのアイスホッケーのトップチームに授与されるトロフィーのスタンレー・カップを寄贈した。また競馬のオークスを、購入したカンタベリーピルグリムおよび自ら生産したキーストーン(Keystone)の馬主として、二度優勝している。

17代伯エドワードは16代伯フレデリックの息子で、先祖達と同様に政治家であり、馬主であった。彼はデビッド・ロイド・ジョージ内閣で戦争大臣を務めたほか、1918年から1920年まで在フランスイギリス大使となった。彼の長男エドワードと次男オリヴァーもともに保守党政治家で、1938年ネヴィル・チェンバレン内閣ではそろって入閣している。 17代伯は競走馬の生産者および馬主として、一族の中で最も大きな成果を挙げた。1924年自らの生産馬サンソヴィーノ(Sansovino)によって曾々祖父12代伯以来137年ぶりにダービーを勝ち、その後もハイペリオンで二度目のダービーを、トボガン(Toboggan)とサンストリーム(Sun Stream)でオークスを、アメリカ合衆国財務次官オグデン・ミルズと共同で購入したカンタール凱旋門賞を、それぞれ制している。

17代伯は長男よりも長生きしたため、18代伯となったのはその長男のエドワードとなった。 第18代伯日本中央競馬会ダービー卿チャレンジトロフィーの優勝杯を寄贈している。彼には子がなかったため、伯位は18代伯の弟ヒューの息子エドワードが継承した。

当代のダービー伯爵である19代伯も、小規模ながら競走馬の生産者・馬主として活動しており、生産所有馬ウィジャボードは2004年、曾祖父のサンストリーム以来59年ぶりにオークスを制した。2005年2006年ジャパンカップでは、19代伯がウィジャボードと共に来日している。現在19代伯の息子のエドワードが法定推定相続人となっている。

スタンリー準男爵は、1627年エドワード・スタンリーに対して与えられた。彼は2代伯の弟の曾孫で、前述の通り子孫は後にダービー伯爵を継承した。

一覧

ダービー伯爵(第一期; 1138年)

ダービー伯爵(第二期; 1337年)

スタンリー男爵(1456年)

ダービー伯爵(第三期; 1485年)

スタンリー準男爵(1627年)

脚注

  1. Stephen Glover (1829) The history of the county of Derby p. 545

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