スティーブ・マックイーン
テンプレート:出典の明記 テンプレート:ActorActress スティーブ・マックイーン(Steve McQueen 、1930年3月24日 - 1980年11月7日)は、アメリカ合衆国の俳優である。本名はTerrence Steven McQueen。 スタントマンに頼らないそのアクションで一時代を築き、世界中の映画ファンを熱狂させた。代表作にはテレビドラマ『拳銃無宿』、映画『荒野の七人』、『大脱走』、『砲艦サンパブロ』、『ブリット』、『ゲッタウェイ』、『パピヨン』、『タワーリング・インフェルノ』、『ハンター』など。
女優のニール・アダムス、アリ・マッグロー、バーバラ・ミンティと3度の結婚をした。長男のチャド・マックイーン、チャドの長男で孫のスティーブン・R・マックイーンは俳優。
目次
生涯
インディアナ州インディアナポリス近郊のビーチグローブ出身。父親は曲芸飛行士、母は家出娘であった。生後6ヶ月の頃に両親が離婚。母親の再婚とともに各地を転々とするなど環境に恵まれず、14歳の頃カリフォルニア州立少年院に入れられる。1年半後に出所し、17歳で海兵隊へ入隊。後に映画『大脱走』や『パピヨン』で脱走を企てる役を演じているが、実際に海兵隊の兵役中も数多く脱走しており、全て失敗に終わっていた。除隊後はバーテンダーやタクシードライバー、用心棒などで生計を立てる。
1951年、ガールフレンドの勧めで俳優の道を選びネイバーフッド・プレイハウスに入学、アクターズ・スタジオを経てブロードウェイにデビューする。1956年『傷だらけの栄光』でポール・ニューマン扮するロッキーの悪友役(出演時間は合計して5分程)で映画デビュー、1958年にテレビドラマ『拳銃無宿』はヒットし、3年間放映された。映画では『荒野の七人』、『大脱走』、『華麗なる賭け』、『ブリット』などに出演していく。『タワーリングインフェルノ』ではニューマンとダブル主演し、同作は大ヒット。その後『カッコーの巣の上で』、『遠すぎた橋』、『未知との遭遇』、『地獄の黙示録』などの主演オファーを受けたが、断っている。
1979年に米国西部開拓時代に実在した賞金稼ぎをモデルにした『トム・ホーン』の撮影中、アスベストが原因の中皮腫を発症していることが見つかった。翌1980年に『ハンター』で主演するものの、その時点で余命数ヶ月を宣告されていた。中皮腫の原因は海兵隊時代に搭乗した軍用艦船の船室の内装に多用されたり、趣味のレースで当時使われたアスベスト製の耐火服・耐熱フェイスマスクから長期にわたりアスベスト繊維を吸引したのが原因ではないかといわれている。また荒野や砂漠の光景として使われる撮影場所が軍の核実験で汚染されていたのが体調をさらに悪化させたともいわれている。1980年3月に治療法がないと告げられたあと、メキシコで代替医療(ケリー療法)によるガン治療を受けたが、癌は全身に転移、再訪したロサンゼルスの病院で手術は無理と告げられる。その後偽名で入院したメキシコの小さな病院で首と腹部の転移癌を切除する手術後に心肺停止で死亡した。[1] 11月7日死去[2]。50歳。
“LOP RABBITS as pets”(意訳『ペットとしてのロップ・ウサギ』)によると、マックイーンは死期間近の晩年を動物介在療法で用いられるロップイヤー・ウサギの一種であるフレンチ・ロップ(耳が垂れた大型のカイウサギ)とともに過ごしたという[3]。
生涯における来日回数は2回。初来日は1966年『砲艦サンパブロ』のプレミア時。当時の妻のニールも帯同している。ただし次の会場が香港であったため、日本での滞在時間はわずか20時間であった。2回目は1978年の肖像権訴訟時(後述)である。
逸話
映画チラシと写真集
マックィーンの出演した作品の映画チラシはとても人気が高く、中には1枚で数十万単位の値がつく物もあり、コレクターの間ではクリント・イーストウッドとともに現在も人気を誇る。 具体的な例として『荒野の七人』、『戦う翼』、『戦雲』、『大脱走』、『ガールハント』、『マンハッタン物語』、『傷だらけの栄光』、『マックイーンの絶対の危機』、『ハイウエイ』、『シンシナティ・キッド』などの初版チラシが挙げられる。
写真集に『スティーヴ・マックィーン』(1975年)、『マックィーン ザ ヒーロー(ともに芳賀書店 1981年)、『スティーヴ・マックィーンスタイル』(近代映画社 2004年)がある。また、かれが所有していた膨大な数のスポーツカーやオートバイの写真集『マックイーンズ マシン』(2008年)も出版されている。『The Last MILES / 日本語版』(2011年)。
交友
隣人にはザ・フーのドラマー、キース・ムーンがいた。ロック史上に残る「変人」を隣人に持ったマックイーンは、一時期ノイローゼに陥ってしまった。『砲艦サンパブロ』でのロケ中、メイクアップアーティストのビル・ターナーとカオリ・ナラ・ターナーの仲人をすすんで取り持つなど、人情家の一面もあった。近年、女性歌手のシェリル・クロウが『Steve Mcqueen』という作品を発表している。ホンダF1の初代ドライバーロニー・バックナムとは親友だったほか、ブルース・リーとは武道での師弟関係そして親友でもあり、リーの下積み時代を支えた一人である。またチャック・ノリスが教える空手の道場に息子のチャドともに生徒として通っており、俳優への道を強く勧め、彼の主演作を劇場でともに鑑賞し演技についてアドバイスしている。ノリスはマックイーンからの教えを忠実に守り、スーパースターへと成長した。
モータースポーツ
バイクライダー、カーレーサーとして非常にレベルの高い技量を持っており、『大脱走』では牧草地をバイクで疾走するシーンだけでなく自身を追ってくるドイツ兵のバイクアクションまでやってのけている。またカーアクションの草分け的作品『ブリット』では、フォード・マスタングファストバックをチューニングし、危険なカーアクションを自らのドライブテクニックで披露した。
1970年3月にピーター・レブソンと組んでセブリング12時間レースにポルシェ・908/2で出場し、マリオ・アンドレッティ、イグナツィオ・ギュンティ、ニーノ・バッカレラ組のフェラーリ・512Sに遅れることわずか23秒で総合2位、3Lプロトタイプのクラスで優勝している。レブソンが12時間の大部分をドライブした結果ではあるものの、マックィーンは本番の10日ほど前にバイク事故で左脚を骨折し、ギブスをはめたまま出場していた[4]。このことから「映画スターにならなかったら、世界有数のドライバーになったにちがいない」と言うプロドライバーもいた[5]。
自身の出演した「栄光のル・マン」ではサルト・サーキットでのロケに際し、当時の花形ドライバーに混じって実際にマシンを走らせた。本人は実際に1970年のル・マン24時間レースにポルシェ・917でジャッキー・スチュワートとの組で参戦する意向であったというが、所属するソーラー・プロダクションや保険会社、スタッフ等周囲からの強硬な反対に遭って実現せず、本人はル・マンに出られなかったことを生涯悔やんでいたという。後に息子のチャド・マックイーンが出場を果たしている。
肖像権訴訟
1971年に公開された主演映画「栄光のル・マン」の日本での宣伝に際して、タイアップ企業となった松下電器産業(現・パナソニック)とヤクルト本社が映画のスチルやフィルムを製品(松下はラジオ、ヤクルトは乳酸飲料「ジョア」)の広告と組み合わせた宣伝を自分の承諾なしにおこなったとして、この両社および配給会社の東和、広告制作者の電通を相手取り、肖像権侵害の損害賠償として100万ドル(公開当時のレートで3億6千万円)を求める裁判を、1973年に日本の東京地方裁判所に提訴した。
マックイーンが裁判を起こしたのは単に肖像を結果として無断使用されたからというだけの理由ではなかった。彼が1978年に日本の裁判所に出廷して証言したところによると、乳酸製品(証言では「ヨーグルト」と表現)は自分が好まないもので、本来なら絶対に引き受けることがない仕事であること、松下電器のラジオについては自分は商品の説明を受けておらず、それに対する責任を引き受けることができないからだと述べている[6]。
この裁判は1980年11月10日に判決が下された。判決ではタイアップ広告の手法は広く映画の宣伝において一般に認められているもので、マックイーンの代理店と東和の間の契約条項の範囲内であるとした。このため、東和側が承諾の必要性を検討する注意義務はなく、過失を問うことはできないと認定し、マックイーン側敗訴の判決を下した[7]。
この判決はマックイーンの死去から3日後に行われたため、当時のマスコミでは「マックイーンあの世で敗訴」といった見出しで報じられた。
CM
ホンダ『エルシノアCR250』のCMへの出演については、ホンダのスタッフがテストしているところにたまたまマックイーンが遊びに来て、このバイクを気に入ったことから実現したという。
『ブリット』でのアクションシーンを演じたことから、後年新型のフォード・マスタングのCMにCGで出演し、このことから新型のマスタングを劇中と同じモスグリーンにペイントしチューニングを施した『ブリット』仕様も発売された。
主な出演作品
公開年 | 邦題 原題 |
役名 | その他 |
---|---|---|---|
1956年 | 傷だらけの栄光 Somebody Up There Likes Me |
町のチンピラ | |
1958年 | ニューヨークの顔役 Never Love a Stranger |
マーティン・キャンベル | |
マックイーンの絶対の危機 The Blob |
スティーブ・アンドリューズ | ||
拳銃無宿 Wanted: Dead or Alive |
ジョッシュ・ランダル | テレビドラマ | |
1959年 | セントルイス銀行強盗 The Great St. Louis Bank Robbery |
ジョージ・ファウラ | |
戦雲 Never So Few |
ビル・リンガ | ||
1960年 | 荒野の七人 The Magnificent Seven |
ヴィン | |
1961年 | ガールハント The Honeymoon Machine |
ファージー・ハワード | |
1962年 | 突撃隊 Hell Is for Heroes |
ジョン・リース | |
戦う翼 The War Lover |
バズ・リクソン | ||
1963年 | 大脱走 The Great Escape |
独房王 ヒルツ | |
雨の中の兵隊 Soldier in the Rain |
ユースティス・クレー | ||
マンハッタン物語 Love with the Proper Stranger |
ロッキー・ババサーノ | ||
1965年 | ハイウェイ Baby the Rain Must Fall |
ヘンリー・トーマス | |
シンシナティ・キッド The Cincinnati Kid |
エリック・ストーン | ||
1966年 | ネバダ・スミス Nevada Smith |
マックス・サンド | |
砲艦サンパブロ The Sand Pebbles |
ジェイク・ホールマン | ||
1968年 | 華麗なる賭け The Thomas Crown Affair |
トーマス・クラウン | |
ブリット Bullitt |
フランク・ブリット | ||
1969年 | 華麗なる週末 The Reivers |
ブーン・ホガンベック | |
1971年 | 栄光のル・マン Le Mans |
マイケル・ディレイニー | |
栄光のライダー On Any Sunday |
特別主演 | ドキュメンタリー | |
1972年 | ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦 Junior Bonner |
ジェイ・アール・ボナー | |
ゲッタウェイ The Getaway |
ドグ・マッコイ | ||
1973年 | パピヨン Papillon |
アンリ・シャリエール | |
1974年 | タワーリング・インフェルノ The Towering Inferno |
マイケル・オハラハン隊長 | |
1978年 | 民衆の敵 An Enemy of the People |
トーマス・ストックマン | 兼製作総指揮 |
1980年 | トム・ホーン Tom Horn |
トム・ホーン | 兼製作総指揮 |
ハンター The Hunter |
ラルフ・ソーソン |
受賞歴
アカデミー賞
- ノミネート
- 1967年 アカデミー主演男優賞:『砲艦サンパブロ』
ゴールデングローブ賞
- ノミネート
- 1964年 主演男優賞 (ドラマ部門):『マンハッタン物語』
- 1967年 主演男優賞 (ドラマ部門):『砲艦サンパブロ』
- 1970年 主演男優賞 (ミュージカル・コメディ部門):『華麗なる週末』
- 1974年 主演男優賞 (ドラマ部門):『パピヨン』
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脚注
参考文献
- テンプレート:Cite
- テンプレート:Cite journal
- ラストイヤーズ(2010年 NHK)
- 『われらがポルシェ ポルシェなんでも事典』講談社
- 檜垣和夫『ポルシェ906/910/907/908/917』ニ玄社、2006年
- Roger Worthington "A Candid Interview With Barbara McQueen 26 Years After Mesothelioma Claimed The Life Of Husband And Hollywood Icon, Steve McQueen" mesothelioma bytes Worthington & Caron blog
外部リンク
- テンプレート:Allcinema name
- テンプレート:Imdb
- Steve McQueen Online
- New publication with private photos of the shooting & documents of 2nd unit cameraman Walter Riml
- Photos of the filming The Great Escape, Steve McQueen on the set
- ↑ A Candid Interview With Barbara McQueen 26 Years After Mesothelioma Claimed The Life Of Husband And Hollywood Icon, Steve McQueen.
- ↑ 広瀬隆の『ジョン・ウェイン はなぜ死んだか』(文藝春秋社、1982年)では死因である癌の原因の一つとして、ネバダ核実験場の風下で撮影が行われたことを挙げている。
- ↑ 『うさぎと暮らす』 NO.35, 2010年、Spring, 52頁。
- ↑ 『ポルシェ906/910/907/908/917』p.153。
- ↑ 『『われらがポルシェ ポルシェなんでも事典』』p.218。
- ↑ 「スティーブ・マックイーンが言い残していったこと」「暮らしの手帖」1981年1-2月号[1]
- ↑ 東京地判昭和55年11月10日(「判例時報」981号P19、「判例タイムズ」425号P64)[2]