ザカルパッチャ州
テンプレート:基礎情報 ウクライナの州 ザカルパッチャ、ザカルパート州[1](ウクライナ語:Закарпатська областьザカルパーツィカ・オーブラスチ)は、ウクライナの最も西に位置する州である。州庁所在地はウージュホロド。州名は、州の位置する地域の伝統的な名称からとられた。ロシア語名はザカルパチア州(Закарпатская область)。
歴史的にカルパティア・ルテニアと呼ばれた地方である。
概要
ザカルパッチャ州は、ウクライナ・カルパート山脈の南西部から越カルパート低地にかけての地域ザカルパッチャ(越カルパート地域)[2]に位置している。時期によって、キエフ大公国、オーストリア帝国、ポーランド王国、ハンガリー王国、チェコスロバキア共和国、ソビエト連邦などの支配を受けた。
第一次世界大戦後は、フーストを拠点にするウクライナ人とルシン人の勢力が、カルパート・ウクライナとドニプロ地方に成立したウクライナ人民共和国との合同を宣言したが、ウクライナ人民共和国がソヴィエト・ロシアとの戦争に敗れたため、合同は実現しなかった。サン=ジェルマン条約とトリアノン条約の結果、越カルパート地域はチェコスロバキアの領域になった。
チェコスロバキア時代には、資本主義経済が発達した。ミュンヘン会談後にカルパート・ウクライナはチェコスロバキア内での自治が認められた。そして、軍事組織「カルパート・シーチ」が設置されるなどこの地域のウクライナ化が進められた。
1939年3月15日には、選挙によって圧倒的な支持を得たセイム(議会)がカルパート・ウクライナの完全な国家的独立を宣言した。セイムは憲法を採択し、国号を「カルパート・ウクライナ」と定め、国家体制を「大統領制共和国」とし、公用語を「ウクライナ語」に定めた。国旗と国章、国歌はウクライナの伝統的な青・黄旗とトルィズーブ「ウクライナは滅びず」とされた。大統領には、アウグスティーン・ヴォローシンが就任した。しかし、3日後の3月18日にはカルパート・ウクライナはハンガリー軍によってほとんどの領域を占拠され、国家首脳部はルーマニアへ亡命、国は亡びた。「カルパート・シーチ」は同年5月まで武力闘争を続けたが敗れた。
ハンガリー王国時代には、ベレグ、ウング、ウゴチャ、マーラマロシュ、シャーロシュ、ゼンプレーン県の各一部の地域となった。
1944年11月には赤軍がハンガリーを破り、かつてのカルパート・ウクライナの地域はザカルパート・ウクライナの国号の下、独立を宣言した。しかし、この国家はソヴィエト・ウクライナと合併することになり、1945年7月には消滅した。1946年には、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国に併合された。
ソ連崩壊に伴い同地は新しく成立したウクライナの一部となった。2008年12月26日にはムカーチェヴェにて、ルシン人の民族主義政党が「近カルパト・ルーシ共和国(ポトカルパーツカヤ・ルーシ共和国)」のウクライナからの独立を宣言し、ロシアへ支援を求めた。ウクライナ側は、これをロシアによるグルジアのシナリオの焼き直しであるとして批判した。
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主な都市
- ヴィノフーラジウ(Виноградів) / (ナジセーレーシュ)(Nagyszőlős) / Vinohradiv
- ウージュホロド(Ужгород) / (ウングヴァール)(Ungvár) / Uzhhorod
- ベーレホヴェ(Берегове) / (ベレクサース)(Beregszász) / Bergsoß / Berehove
- ([1])
人口
2001年ウクライナ国勢調査によるデータ。
- 総人口:テンプレート:Nts人[3]
- 都市人口:テンプレート:Nts人(37%);農村人口:テンプレート:Nts人(63%)[4]
- 性別人口:男性はテンプレート:Nts人(48%);女性はテンプレート:Nts人(52%)[5]
ウクライナ人の他、ハンガリー人、ルーマニア人、ロシア人、ロマ、スロヴァキア人、ドイツ人、ルシン人などが居住する。かつてはユダヤ人の人口も多かった。なお、ルシン人はウクライナ人と合わせてルテニア人とも呼ばれる多数民族である。このほか、同じく古来からのウクライナ人の一派であるテンプレート:仮リンクも山岳地域を中心に居住している。
出身者
- ユーリー・ヴェネーリン - ウクライナ人の歴史家
- ミルトン・フリードマンの両親(アメリカ出身のユダヤ系経済学者)
- ロバート・マックスウェル(ヤーン・ルドヴィーク・ホッホ、ホッホ・ヤーノシュ・ラヨシュ) Robert Maxwell - イギリスのビジネスマン。ユダヤ系
- ムンカーチ・ミハーイ - ハンガリーの画家
脚注
参考文献
- テンプレート:Ja icon 伊東孝之, 井内敏夫, 中井和夫編 『ポーランド・ウクライナ・バルト史』 (世界各国史; 20)-東京: 山川出版社, 1998年. ISBN 9784634415003
- テンプレート:Ja icon 黒川祐次著 『物語ウクライナの歴史 : ヨーロッパ最後の大国』 (中公新書; 1655)-東京 : 中央公論新社, 2002年. ISBN 4121016556
- テンプレート:Uk icon Історія міст і сіл Української РСР: Закарпатська область. — Київ: УРЕ АН УРСР.
外部リンク
テンプレート:Navbox with columnsテンプレート:East-europe-stub- ↑ 『世界地名大辞典2 ヨーロッパ・ソ連II』朝倉書店、昭和49年による表記。
- ↑ 伝統的に、時期によってハンガリー・ルーシ、カルパート・ルーシ(カルパティア・ルテニア)、ルーシ国、ポドカルパート・ルーシ、カルパート・ウクライナ、ザカルパート・ウクライナと呼ばれる。
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
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