サッコ・ヴァンゼッティ事件
サッコ・ヴァンゼッティ事件(サッコ・ヴァンゼッティじけん)は、1920年代にアメリカで問題となった事件。偏見による冤罪ではないか、という疑惑があり、これが事実なら米国裁判史上に残る最大の冤罪事件と言われる。司法側は冤罪だったとは認めていないが、行政側が冤罪とみなす宣言を行っている。
事件の発端
1919年、一件目の強盗事件。製靴工場の現金輸送車が襲撃されたが失敗に終わっている。翌年の1920年4月15日、二件目の強盗事件が発生。マサチューセッツ州サウスブレーントリー市で別の製靴工場が5人組のギャングに襲撃され、会計部長とその護衛が射殺されたほか、16,000ドルが強奪された。翌月の5月5日、この強盗殺人事件の容疑者として共にイタリア移民の製靴工ニコラ・サッコ (Nicola Sacco、1891年4月22日 - 1927年8月23日) と魚行商人バルトロメオ・ヴァンゼッティ (Bartolomeo Vanzetti、1888年6月11日 - 1927年8月23日) が逮捕された。
逮捕後の経過
1921年7月14日、マサチューセッツ州ボストン郊外のデッダム裁判所はこの容疑者二名に死刑判決を下した。有罪判決から3ヵ月後、公正さに欠ける審理に抗議する動きがボストンに留まらず、ニューヨークをはじめアメリカ国内各地で、更にヨーロッパをはじめ世界各地で起こった。そのため死刑は確定していたものの執行は長く延期となっていた。しかし、弁護側の裁判やり直しの申し立てはことごとく却下され、マサチューセッツ州知事も特赦を拒否した。
1927年4月9日、州知事は特別委員会を設置したが、国際的な助命嘆願を棄却。委員会は判決を支持し死刑判決が再度確定した。8月23日、マサチューセッツ州ボストン郊外の刑務所で0時19分にサッコが、続いて0時27分にヴァンゼッティが電気椅子で処刑された。この日、2人が収容されていた刑務所は彼らの処刑に抗議する群集の襲撃を恐れてサーチライトが輝き、機関銃と共に警官隊が警備に就いた。同じ頃、ボストン市内の留置場には処刑に抗議した作家のドス・パソス、ドロシー・パーカー、女流詩人のE.V.パーカーが留置されていた。
死刑執行後の経過
死刑執行の50年後にあたる1977年7月19日、マサチューセッツ州知事のマイケル・デュカキスは、この裁判は偏見と敵意に基づいた誤りであるとして二人の無実を公表、処刑日にあたる8月23日を「サッコとヴァンゼッティの日」と宣言した。
裁判の具体的詳細と時代背景
容疑者の二人は共にイタリア移民のアナーキストで、第一次世界大戦中はそろって徴兵を拒否している。警察は明確な物的証拠がないまま二人を検挙し、事件当時の検事は偽の目撃者を雇って法廷で証言させたといわれる。
戦後の不景気で労働紛争が熾烈化していたアメリカでは、社会不安の原因を過激分子になすりつけ、共産主義に対する憎悪を募らせていた。ボストンでは特にその傾向が強く、裁判では二人の前歴とアナーキストという点が、二人の思想を嫌う裁判長と陪審員に誤った予断を抱かせ、死刑判決が出されたといわれる。
有罪判決に対する抗議行動には多くの知識人が参加し、アナトール・フランス、アルバート・アインシュタイン、ジョン・デューイなどが支援した。イタリアの首相ベニート・ムッソリーニも助命を嘆願している。
実際には、二人を有罪とする明確な物的証拠はほぼ無く、事件の真相はよく分かっていない。この事件をテーマとした記録映画に、デービッド・ロートハウザーの『サッコとバンゼッティの日記』がある。
関連書籍
関連項目
- 死刑台のメロディ - 映画。1971年、伊・仏・米。
- アプトン・シンクレア - アメリカの作家。事件を題材に小説『ボストン』を書いた。
- ベン・シャーン
- ディルク・ブロッセ - ベルギーの指揮者、作曲家。事件を題材にミュージカル『サッコとヴァンゼッティ』を作曲した。
- マーク・ブリッツスタイン - アメリカの作曲家。事件を題材にオペラ『サッコとヴァンゼッティ』を作曲した。
外部リンク