ゴリラ
ゴリラは、哺乳綱サル目(霊長目)ヒト科ヒト亜科ゴリラ族ゴリラ属(Gorilla)に分類される構成種の総称。
分布
アンゴラ(カビンダ)、ウガンダ、ガボン、カメルーン南部、コンゴ共和国、コンゴ民主共和国東部、赤道ギニア、中央アフリカ共和国南部、ナイジェリア東部、ルワンダ[1][2]
形態
体長オス170-180センチメートル、メス150-160センチメートル[2]。体重オス150-180キログラム、メス80-100キログラム[2]。毛衣は黒や暗灰褐色[1]。
出産直後の幼獣は体重1.8キログラム[2]。オスは生後13年で背の体毛が鞍状に白くなり、シルバーバックと通称される[1]。生後18年で後頭部が突出する[2]。
分類
本属の構成種の和名として大猩猩(おおしょうじょう、だいしょうじょう)が使用されたこともある[1]。過去には本属をチンパンジー属に含める説もあった[1]。
以前はゴリラ1種から構成され、低地個体群(亜種ローランドゴリラG. g. gorilla)と高地個体群(亜種マウンテンゴリラG. g. beringei)の2亜種に分けられた[1]。後に同じく1属1種ながら亜種ローランドゴリラを西部低地個体群(亜種ニシローランドゴリラ)と東部低地個体群(亜種ヒガシローランドゴリラG. g. graueri)の2亜種に分割し3亜種に分けられた[1][2]。ミトコンドリアDNAの塩基配列による分子系統学的解析では、西部個体群と東部個体群(亜種ヒガシローランドゴリラと亜種マウンテンゴリラ)との遺伝的距離が大きいとして2種に分ける説もある[3][4]。ミトコンドリアDNAの解析からニシゴリラとヒガシゴリラが分化したのは2,500,000年前と推定されている[3]。
ミトコンドリアDNAの全塩基配列による分子系統学的解析では656万年前±26万年にヒト属へと続く系統からゴリラ属が分かれたとされている[5]。
生態
多湿林に生息する[2]。地表棲[2]。昼行性で、夜間になると地表に日ごとに違う寝床を作り休む[2]。10-50平方キロメートルの行動圏内で生活し、1日あたり0.5-2キロメートルを移動する[2]。1頭のオスと複数頭のメスからなる約10頭の群れを形成する[2]。
食性は植物食傾向の強い雑食で、果実、植物の葉、昆虫などを食べる[2]。亜種マウンテンゴリラは季節によって果実なども食べ、乾季に食物が少なくなると植物の葉、芽、樹皮、根などの繊維質植物を食べる[2]。
繁殖形態は胎生。妊娠期間は平均256日[2]。出産間隔は3-4年[2]。寿命は40-50年で、53年の飼育記録がある[2]。
テンプレート:出典の明記 前肢を握り拳の状態にして地面を突くナックルウォーキングと呼ばれる四足歩行をする。
発見以来、長年に渡って凶暴な動物であると誤解されてきたが[脚注 1]、研究が進むと、交尾の時期を除けば実は温和で繊細な性質を持っていることが明らかになった。海外の動物園で、ゴリラの檻に誤って小さな子供が落ちた際、失神した子供をメスのゴリラが抱きかかえ、他のオスのゴリラを近づけないように飼育員に引き渡した姿がテレビで紹介されたこともある。自分から攻撃を仕掛けることはほとんど無いとされ、人間の姿を見て興奮した群れのオスゴリラをシルバーバックが諌めるという行動も確認されている[脚注 2]。群れの間では多様な音声を用いたコミュニケーションを行い、餌を食べる時などに鼻歌のような声を出しているのが確認されている。
ゴリラは警戒心が強く、神経性の下痢にかかりやすい、心臓の負担から死にいたるなど、ストレスに非常に弱いことも明らかになっている。特に交尾の時期には、オスがメスを殺すことがあり、動物園での繁殖には細心の注意が必要とされる[脚注 3]
マウンテンゴリラでは、息子が成長しても群れに残って複雄群となることもある。群れ同士は敵対的だが、縄張りを持たず、お互い避け合うことが知られている。交尾は一年を通じて行われ、発情期による「交尾の季節」は存在しない。ゴリラのメスには、チンパンジーに見られるような性皮の腫脹がないため、外見では発情しているかどうかは分からない。外敵を威嚇する際には、二足で立ち上がって両手で胸を叩き、ポコポコポコと高く響く音を立てるドラミングと呼ばれる行動[脚注 4]をとる。落ちている枝を折って見せるのも威嚇の一種だと考えられている。
自然界での脅威は人間による密猟や環境破壊の他、分布域が重なるヒョウに捕食されることも確認されている[脚注 5]。ガギスバーグは、ゴリラを襲おうとしたヒョウが逆に殺されたという現地人による観察例を報告しているが、ゴリラの研究者として有名なシャラーは、シルバーバック1例を含む(その他は全て雌と子供)ゴリラがヒョウに捕食された実例を報告している。動物学者の小原秀雄は、ゴリラを含む類人猿は知能が高いので恐怖や痛みに極めて敏感であり、ヒョウなどの捕食動物には不得手であると述べている[脚注 6]。
人間との関係
開発による生息地の破壊、乱獲、内戦の影響などにより生息数は減少している[2]。またコンゴやガボンではエボラ出血熱によっても生息数が減少し、疥癬(1996年、2000年ウガンダ)やはしか(1988年ルワンダ)の感染・死亡例もある[6]。生息地は保護区に指定されている地域もあるが、密猟されることもある[2]。
コロンバス動物園が世界で初めて飼育下繁殖に成功した[4]。日本では1954年に初めて輸入されて以降、2005年現在ではニシゴリラの基亜種のみ飼育されている[4]。1961年に亜種マウンテンゴリラが2頭輸入されているが、2頭とも数日で死亡している[4]。日本では1970年に京都市動物園が初めて飼育下繁殖に成功した[4]。1988年に「ゴリラ繁殖検討委員会」が設置され、1994年から各地の飼育施設で分散飼育されていた個体を1か所に集めて群れを形成し飼育下繁殖させる試み(ブリーディングローン)が恩賜上野動物園で進められている[4]。
テンプレート:出典の明記 カルタゴの航海者ハンノは紀元前480年頃に西アフリカ[7]へ遠征した際、とある島の湖の中に在る島に上陸した。そこで、通訳のリクシット人[8]から「ゴリライ(ギリシア語訳では女性複数形の「γοριλλας」と綴る)」と呼ばれている毛深くて女ばかりの部族と接触した。ハンノ一行が部族を捕らえようとした所、ゴリライの男達は茂みに逃げたが女達は踏み止まっていた。3人の女を捕まえると噛み付き引っ掻きして抵抗してきたのでハンノ一行は女達を殺して皮を剥ぎ、死体を持ってカルタゴへ帰還した。 ハンノの冒険譚はカルタゴ語で記録された後、カルタゴを侵略したローマのスキピオ・アエミリアヌスに由ってギリシア語とラテン語に訳され、カルタゴ語版とラテン語訳が失われた結果ギリシア語訳で広まっていった[脚注 7]。
ハンノ一行がゴリライに接触してから約2300年後の1836年、アメリカ合衆国の植民地リベリア連邦(ハンノ一行が上陸したと思われるシエラレオネの隣国)にて、宣教目的で赴いていたアメリカ人の医者兼宣教師のThomas Staughton Savageが未知の類人猿の物と思われる頭蓋骨と幾つかの骨を発見する。1847年8月18日、博物学者兼解剖学者のJeffries Wymanが新種の生物だと確認したニシローランドゴリラに対し、ハンノの逸話に因んで「Troglodytes gorilla(穴居人+「gorillai」の単数形)」という学名を付ける。これに由ってゴリラの存在が科学的に認知された。実際の生態とは違い「Troglodytes」と名付けられたのは、ヨーロッパで信じられていた穴居人(Troglodytes)という人間に似た怪物の正体とされたチンパンジーと、新発見されたゴリラとが仲間であると推測された為である。
欧米では19世紀半ばに発見されるまでゴリラはチンパンジーと同一種とされていたか、或いは情報が乏しく知られていない動物だった。頭骨標本がヨーロッパに送られた以降も、生息地が欧米の研究者の探索し難い密林の奥深くであった為中々正確な生態は掴めず、長い間人間を襲う凶暴な動物だと誤解されていた[脚注 8]。
画像
- Susa group, mountain gorilla.jpg
ヒガシゴリラ
G. beringei
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
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