コンスタンツェ・モーツァルト
テンプレート:Infobox Musician テンプレート:Portal クラシック音楽 コンスタンツェ・モーツァルト(Constanze Mozart、1762年1月5日 - 1842年3月6日)は、作曲家、モーツァルトの妻。作曲家カール・マリア・フォン・ヴェーバーの23歳上の従姉にもあたる。コンスタンツェ・ヴェーバーとしてテンプレート:仮リンクに生まれ、ソプラノ歌手であった。多くのモーツァルトの伝記において、コンスタンツェは、愛のない、不実な、不精な人物として描写されている。悪妻の一人とされているが、悪妻か否かについては後述する。モーツァルトの死後ゲオルク・ニコラウス・ニッセンと再婚した。ザルツブルクで没している。
生涯
両親はフランツ・フリードリン(1733年-1779年)とマリア・ツェツィーリア(旧姓シュタム、1727年-1793年)、姉はヨゼーファ(1757年-1819年)とアロイジア(1760年-1839年)、妹はゾフィー(1763年-1846年)。
モーツァルトとコンスタンツェは1777年にマンハイムで知り合った。モーツァルトが彼女の姉アロイジアに夢中になっていた時のことである。
モーツァルトが1781年にウィーンに引っ越した時、ヴェーバー家と再会した。アロイジアはその時には既に結婚していた。ウィーンでモーツァルトは、ヴェーバー夫人の「神の眼」館に部屋を借りて下宿した。その結果住居を移したことは世人の噂となったはずである。
モーツァルトは、コンスタンツェとの婚約を条件に、ヴェーバー夫人から交際を許された。その際、モーツァルトがサインさせられた約定書では、3年以内に結婚しない場合には違約金を支払うこととされていた。しかし、コンスタンツェ自身はその約定書を破り捨てた。
1782年8月4日に2人は結婚している。モーツァルトとの結婚生活の8年の間に6回妊娠し、その結果力を使い果たして寝たきりであったという。
- ライムント・レオポルト(1783年6月17日-8月21日)
- カール・トーマス(1784年9月21日-1858年10月31日)
- ヨハン・レオポルト(1786年10月18日-11月15日)
- テレジア(1787年12月29日-1788年6月29日)
- アンナ・マリア(モーツァルトの母と同名)(1789年11月16日)
- フランツ・クサーヴァー・ヴォルフガング(1791年7月26日-1844年7月29日)
これらの子供たちのうち、幼年期を生き延びることができたのはカール・トーマスとフランツ・クサーヴァー(モーツァルト2世)の2人だけであった。
モーツァルトの大ミサ曲 (K.427) は、コンスタンツェとの結婚の時期に作曲が始められた(1782年夏ごろから。未完成)。注文を受けたのではなく、モーツァルトが自発的に作曲したもので、ソプラノ独唱をコンスタンツェが歌うことを想定していたと言われる。「わたしのいとしいコンスタンツェのために (per la mia cara Constanza) 」と書かれたソルフェージュK.393が、この大ミサ曲と声楽技法的に関連性を持っているためである。実際に、この曲が1783年10月26日(または25日)に聖ペテロ教会で演奏されたときには、コンスタンツェがソプラノ独唱を行なった。
1789年、脚の病気にかかり、医師の勧めによって、以後毎年夏になるとバーデンに湯治に出かけた。モーツァルトは同行せず、妻に宛てた多くの手紙を書き、工面した費用を送金した。
モーツァルトの死亡した1791年、コンスタンツェは2人の子供の養育とモーツァルトの残した負債に独りで立ち向かうこととなった。家庭が大いに貧困に苦しんでいたのにもかかわらず、レクイエムの未完成の総譜を含む自筆譜をすぐには手放さず、1799年に音楽出版社ヨハン・アントン・アンドレに売却されたのが最初である。
さらにその10年後の1809年にコンスタンツェはデンマークの使節秘書・外交官であるゲオルク・ニコラウス・ニッセン(en)と再婚した。ニッセンと共にモーツァルトの最初の伝記を執筆した。1821年にこの夫婦はザルツブルクへ引っ越し、1826年にニッセンはそこで逝去している。
晩年のコンスタンツェはドームにほど近いミハエル広場に面した住居に暮らし、1841年にはモーツァルテウムの設立にも関与した。1842年3月6日にコンスタンツェは没するが、ミハエル広場には同年9月4日にミュンヘンの彫刻家ルートヴィッヒ・シュヴァンターラー(Ludwig Schwanthaler)作のモーツァルト記念像が立てられ、その後モーツァルト広場と命名された。
コンスタンツェの墓は、ザルツブルク新市街の聖セバスティアン教会にある。同じ墓にはモーツァルトの父であるレオポルト・モーツァルト、2番目の夫ニッセン、姉アロイジアも眠る。
悪妻説
- モーツァルトの伝記はコンスタンツェの視点から描かれており、自分に不都合な事実には触れていない。
- 浪費家であった。
- モーツァルトが死んだ時、別荘で遊んでいた。
- 自筆の楽譜や書簡を売却している。特に自分に不都合な書簡は破棄している。
- モーツァルトの葬儀をないがしろにした(ゆえにモーツァルトの墓がどこにあるかわからない。共同墓地に葬られたからである)。
- 再婚した(ゆえに不貞であるとされた)。
- 子供(父親は公式にはモーツァルト)に、モーツァルトの弟子ジュースマイヤーの名前をつけている(フランツ・クサーヴァー・モーツァルト、モーツァルト二世)。ゆえに生前から二人は関係があったのではないか?という憶測。
これらのうち幾つかは、生活のためにやむを得ず行った面もあるのだろうが、悪女として後世に語り継がれる彼女にも、以下のような側面も存在していたことも、 事実のひとつとして挙げておきたい。
- 周囲の人々の手紙などで残された人物評によれば教養が高く家事にも熱心な快活な娘であって、不精で愚かであるとする悪妻説の人物像は当てはまらない。何よりモーツァルト自身が妻への愛情に溢れた手紙を残している。
- モーツァルトは実際には晩年もかなりの収入があり、夫妻(モーツァルト自身もかなりの浪費家であった)とも収入に見合った出費をしていた。
- もともと病弱でモーツァルトの死の前にコンスタンツェも病に倒れており、モーツァルト自身が別荘での療養に行かせた。コンスタンツェは夫の死の前に帰宅しており、別荘で遊んでいたわけではない。
- 楽譜等を売却したのは、子供を抱えての夫の死後の生活を支えるためである。
- モーツァルトの葬儀が薄葬であり、埋葬も共同墓地であったのは皇帝ヨーゼフ2世の葬儀合理化政策と慣習に従ったものにすぎない。
- 再婚自体も生活を支えるためであり、夫ニッセンとともにモーツァルトの名を高めるために尽力している。
コンスタンツェは「思慮深く、経済観念も発達していて、夫の作品を守ったことは、多くの資料が証明している」(ミシェル・パルティ)とする意見もある。こうした意見を受けてか「アマデウス」では生活苦に陥っても夫の作品を誇りに思い、作品の屈辱的な扱いに憤慨するという一面が描かれた。
写真
死ぬ二年前の1840年、78歳のコンスタンツェと思われる人物が写っているダゲレオタイプ写真が残っている。写真はバイエルン州(バヴァリア)のアルトエッティング (Altötting)にて撮影されたといわれる。コンスタンツェは前列左に、バイエルンの作曲家マックス・ケラー(Max Keller)が前列中央、右手にはケラーの妻ジョセファが写っている。この複製は、2004年アルトエッティングの資料室で発見された。
ただし、1840年当時の写真技術ではこのような撮影は不可能だったという点[1]や、当時コンスタンツェは関節炎(リウマチ)に罹っていたためケラーのもとを訪れることはできなかったことなど[2]から、この写真がコンスタンツェのものではないとする研究者もいる。
脚注
参考文献
- 『モーツァルト―神に愛されしもの』(Mozart, aimé des dieux) ミシェル・パルティ (Michel Parouty) 著、海老沢敏監修、創元社
- モーツァルト:『大ミサ曲ハ短調K.427』のCDのライナーノート 渡辺学而、1985年、グラモフォン POCG-20020
- 『コンスタンツェ・モーツァルトの結婚 二度ともとても幸せでした』 ヴィゴー・ショークヴィスト (Viggo sjφqvist) 著、高藤直樹訳、音楽之友社
- 『コンスタンツェ・モーツァルトの物語』 レナーテ・ヴェルシュ、小岡礼子・小岡明裕訳、アルファベータ、2007年(小説)