クリスチャン・アルバース
クリスチャン・アルバース (Christijan Albers, 1979年4月16日 - )はオランダ・アイントホーフェン出身のレーシングドライバー。2014年7月2日から、ケータハムF1チーム代表。
父親のアンドレ・アルバースはラリークロスレースで活躍した人物で、1979年のオランダ国際ラリークロス選手権(GT部門)においてチャンピオンとなっている。
目次
経歴
初期の経歴
1997年にカートレーシングのオランダ国内選手権タイトルを獲得。同年にフォーミュラ・フォード(1800cc)においても、オランダ選手権、ベルギー選手権を同時に制覇したほか、ザントフォールトサーキットにおいてマールボロ・マスターズF3レースと併催されたルノー・メガーヌ・マールボロ・マスターズにも参加した。
1998年にはドイツF3選手権にステップアップし、初年度から2勝を含む表彰台5回を奪う活躍を見せ年間ランキング5位に着け、翌年は6勝、10ポールポジションを挙げてチャンピオンに輝いた。
2000年に国際F3000へと進み、当時ポール・ストッダートがオーナーを務めており、F1のアロウズチームのジュニアチームでもあったヨーロピアン・アロウズチームから参戦した。この年は得点することすら叶わず、これはチームメイトだったマーク・ウェバーが新人ながら一時的に選手権をリードし最終的に年間ランキング3位という結果を収めたのに対して大きく見劣りする形となった。しかしながら、この縁から翌年以降、ストッダートが買収したミナルディF1チームのテストドライバーとしてしばしばそのステアリングを握ることとなる。
DTM
2001年からはしばしフォーミュラレースを離れ、ドイツツーリングカー選手権(DTM)に参戦。プライベートチームからの参戦ながら初年度で予選3番手、決勝でも2位を記録するなどしばしば好走を見せ、AMGメルセデスワークスチームのドライバーであるウヴェ・アルツェンが去ったことを受けて、2003年からはその後任としてAMGワークスチームのドライバーとなった。
これを契機に一躍トップ争いに名を連ねるようになり、2003年にはチームメイトのベルント・シュナイダーとチャンピオン争いを展開し、最終戦までもつれた結果、ランキング2位に食い込んだ。チャンピオンこそ逃したものの、この年はDTM初優勝を遂げ、最終的にこのシーズンにおいて最多となる4勝を挙げた。2004年もしばしば選手権ランキングトップとなり、1勝を含め6度の表彰台を記録し、年間ランキングは3位に食い込む活躍を見せた。
F1
ミナルディ
フォーミュラカーから離れていた2001年以降も、DTMでの活躍の一方で、ジョーダンやミナルディで度々F1のテストドライブを経験し、2004年12月には、F3000時代のストッダードとの関係や、母国オランダのトラスト社等からの支援を受け、2005年のミナルディのレギュラーシートを獲得した。
最下位チームであることもあって見せ場には乏しかったが、ミシュランタイヤを装着する全チームが棄権したアメリカGPでは、この年ブリヂストンユーザーだったミナルディに在籍していた漁夫の利もあって5位に入賞し、F1における初ポイントを獲得した。テンプレート:-
MF1レーシング
2005年11月1日、レッドブル社によってミナルディが買収され、トロ・ロッソチームとなることが発表されたが、それに先立つ10月31日、アルバースはミッドランド社がジョーダンを買収して創設したMF1レーシングへ移籍し2006年シーズンに参戦することを発表した。
ジョーダン時代となる前年からチームに在籍し、デビュー年ながら高い完走率で注目されたティアゴ・モンテイロをシーズン序盤からリードし、以後は主にスーパーアグリの佐藤琢磨と激しく争うこととなる。
第4戦サンマリノGPではスタート直後にスーパーアグリの井出有治に追突され、自らのマシンは横転してクラッシュしリタイアとなった。この事故を引き金に井出はF1で走る水準に達していないとみなされ、ニキ・ラウダはじめベテランドライバーらから苦言を呈されたこともあって、後にスーパーライセンスを失ったが、当事者であるアルバースはFIAによるこの裁定について「新人ならば誰でも1度はミスをするものだ」と発言し井出を擁護した[1]。テンプレート:-
スパイカーF1
MF1レーシングがオランダの自動車メーカーであるスパイカー・カーズ社に買収されスパイカーF1チームとなる中、アルバースは2007年シーズンに向けエースドライバーとして残留することに成功する。スパイカー社の大株主であるミッシェル・モルは元々Lost Boysなどの名義でアルバースを支援しており、チームとしてはアルバースのパーソナルスポンサーであるトラスト社の支援も見込め、加えて、オランダ国籍となることを大きなセールスポイントとするスパイカーとしてはオランダ人ドライバーの起用は望ましいことでもあることから、この人事は至極当然とみなされていた。
しかし、個人スポンサーによるチームへの支払い滞納、チームメイトであるエイドリアン・スーティルと比較しても結果が劣る状況が続く。そしてフランスGPで給油ホースを引きちぎってピットロードを激走するという一歩間違えば大惨事ともなる大失態を演じ、イギリスGP後の7月10日、チームは公式に「今後このチームでレースすることはない」と正式解雇を発表した。その後は再びDTMに参戦している。2009年からはル・マン24時間レースにも出場した(2010年まで)。
レース戦績
DTM
年 | 所属チーム | 使用車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2001 | パーソン・モータースポーツ | メルセデス・ベンツ CLK-DTM | HOC QR 13 |
HOC CR 13 |
NÜR QR 13 |
NÜR CR 12 |
OSC QR 11 |
OSC CR 11 |
SAC QR 16 |
SAC CR 2 |
NOR QR 13 |
NOR CR 16 |
LAU QR 12 |
LAU CR 16 |
NÜR QR 8 |
NÜR CR 9 |
A1R QR 11 |
A1R CR Ret |
ZAN QR 8 |
ZAN CR Ret |
HOC QR 14 |
HOC CR 9 |
14位 | 24 |
2002 | チーム・ロズベルグ | メルセデス・ベンツ CLK-DTM | HOC QR Ret |
HOC CR Ret |
ZOL QR 13 |
ZOL CR 6 |
DON QR 11 |
DON CR 4 |
SAC QR 13 |
SAC CR 8 |
NOR QR 10 |
NOR CR 6 |
LAU QR 20 |
LAU CR 14 |
NÜR QR 18 |
NÜR CR 17 |
A1R QR 19 |
A1R CR 13 |
ZAN QR Ret |
ZAN CR 12 |
HOC QR 11 |
HOC CR 9 |
12位 | 245 |
2003 | HWAチーム | メルセデス・ベンツ CLK-DTM | HOC 5 |
ADR 1 |
NÜR 1 |
LAU 7 |
NOR 1 |
DON 5 |
NÜR 2 |
A1R 3 |
ZAN 1 |
HOC 12 |
2位 | 64 | ||||||||||
2004 | HWAチーム | メルセデス・ベンツ C-クラス 2004 | HOC 2 |
EST 1 |
ADR 2 |
LAU 2 |
NOR 2 |
NÜR 16 |
OSC 12 |
ZAN 3 |
BRN Ret |
HOC 7 |
3位 | 50 | ||||||||||
2008 | フューチャーコムTME | アウディ・A4 DTM 2006 | HOC Ret |
OSC 16 |
MUG 13 |
LAU 14 |
NOR Ret |
ZAN Ret |
NÜR 11 |
BRH 14 |
CAT 10 |
BUG 13 |
HOC Ret |
17位 | 0 |
F1
年 | 所属チーム | # | ランキング | 獲得ポイント | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 | 予選最高位・回数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
2005年 | ミナルディ | 21 | 19位 | 4 | 5位・1回 | 0回 | 13位・1回 |
2006年 | MF1レーシング | 19 | 21位 | 0 | 10位・1回 | 0回 | 14位・1回 |
2007年 | スパイカー | 21 | 24位 | 0 | 14位・2回 | 0回 | 20位・2回 |
外部リンク
- クリスチャン・アルバース公式サイト
- CHRISTIJAN ALBERS ON THE SPOT - itv.com/f1によるインタビュー記事(2006年10月)