イトムカ鉱山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox mine

イトムカ鉱山(イトムカこうざん)は、北海道網走支庁(現・オホーツク総合振興局)管内常呂郡留辺蘂町(現・北見市留辺蘂町)にあった鉱山のことである。良質な水銀が採掘できる鉱山であった。ちなみにイトムカとはアイヌ語で「光輝く水」の意味。

座標:イトムカ鉱山イトムカ区(元山)
テンプレート:ウィキ座標2段度分秒

座標:イトムカ鉱山大町区
テンプレート:ウィキ座標2段度分秒

歴史

1936年(昭和11年)の暴風雨の際、倒木の撤去作業中に、良質の辰砂を発見した。1941年(昭和16年)頃から、当時の野村財閥の資本にて本格的な採掘が始まる。主要鉱石自然水銀という世界的にも珍しい鉱山であり(他の水銀鉱山においては辰砂が中心)、採掘機器の熱によって無機水銀中毒を引き起こす恐れのある水銀蒸気が発生したために防毒マスクを着用して採掘した。ただし、重労働による疲労と熱気などから、マスクを外してしまい無機水銀中毒にかかる者も多かったという。また、一般的に辰砂が中心の水銀鉱山では、選鉱は手選鉱に留める事が多いのに対し、自然水銀が主体のイトムカ鉱山では製錬の前に浮遊選鉱による選鉱を必要とした(自然水銀の大半は選鉱過程で収集され、製錬を経ずに精製されて製品化された)。現在も保存されている選鉱場はこの名残である。

水銀が貴重な軍事物資だったこともあり、置戸町に支山を開発(終戦後に閉山)するなど増産を重ねて戦時中に生産量が最大となり、東洋一の規模を誇った。戦時中には水銀を使用した農薬の研究も行われ、戦後に旧野村鉱業から独立した北興化学工業の原型となった。

戦後の一時期は、野村財閥解体の余波や軍部が備蓄していた水銀ストックの市場放出による価格低迷などから、通常の水銀生産を中止して水銀系農薬を製造販売したり、食料対策用の農場で小豆を生産して羊羹を駅売りしたりするなど経営の混乱が見られた。しかし、1950年代以降は乾電池蛍光灯・船底塗料などの材料として再び増産を開始、採掘が続けられた。その後はアラスカ産など安い海外産の鉱石にシェアを奪われ、採掘部門の縮小(不足分をアラスカ産鉱石で補充)や精錬所の改良などでコスト削減につとめていた。しかし、水俣病問題を発端とする公害問題により、重要な顧客であったソーダ工業での水銀使用廃止(1973年)などによって、水銀の需要が低下。1970年には大規模な人員整理が行なわれ、鉱山の規模が数十人に縮小した。1974年(昭和49年)に採掘を中止した。

なお、閉山後の多くの坑内労働者は技術者として日本各地のトンネル工事現場に請われ、新着のスーツを着てヤマを降りていったという。

企業城下町

ファイル:Itomuka.jpg
国道沿いに立つ記念碑

気象条件の厳しい山間僻地であったが、鉱山の操業が本格化するにつれて企業城下町が形成、最盛期には人口5,000人を超え、多数の近代的な住宅施設や小・中学校の文教施設、映画館などの娯楽施設が建設された。イトムカの鉱山町は、山元といわれる採掘を行っていたイトムカ地区と、大町区と呼ばれる選鉱・精錬・事務を行っていた地区に二分されていた。戦後、イトムカ地区は経営合理化などから次第に縮小し、1970年代には山元の労働者は大町区からバスで通勤する事となり、イトムカ地区は消滅した。1974年(昭和49年)の閉山後は大町も事実上消滅(後述の野村興産イトムカ鉱業所の従業員は自動車等で他地区から通勤)して現在は廃墟となっているが、産業遺産として極めて重要とする声がある。

大町地区の野村興産イトムカ鉱業所内にある選鉱場は留辺蘂町(現:北見市)の登録文化財に指定されている。工場構内にあるため一般観光客の見学は不可能である。

国道39号線からイトムカ鉱山へと向かう道路の国道との分岐点の一角には、現在、「イトムカ鉱山発祥の地」の記念碑が建っている。

タコ部屋労働

軍事物資としての需要もあり、鉱山の開発は急ピッチで行われた。このため、一部では労働者を拘束して働かせるタコ部屋労働が採られた。終戦直後、労働条件の改善を求めて彼らが暴動を発生させたことから、事実上、タコ部屋制度による採掘は中止に追い込まれた。

現在のイトムカ

鉱山としての使命は終えたイトムカであるが、閉山直後から水銀含有廃棄物の処理事業が開始された。現在、日本で唯一の水銀含有廃棄物電池蛍光管等)の処理、リサイクル工場として事業所が操業を続けている。また、日本で唯一、水銀地金を生産している精錬所でもあり、生産された水銀は蛍光灯や測量機器向けに再利用される。

なお、採掘跡地や旧堆積場から出る排水処理も並行して行われている。

関連項目

外部リンク