アレクセイ・スルタノフ
テンプレート:Portal クラシック音楽 アレクセイ・ファイズルラエヴィチ・スルタノフ(Алексей Файзуллаевич Султанов, 1969年8月7日タシケント - 2005年6月30日フォートワース)は、旧ソ連出身のウズベク人ピアニスト。ラテン文字ではAlexei Sultanovなどと表記される。
出身
その姓からも察しがつくように、中央アジアの有力なムスリム首長の家系に生まれるが、両親はヨーロッパ文化になじんだプロの音楽家だった。4歳から地元でピアノを学び、後にモスクワで研鑚を積む。1985年チャイコフスキー・コンクールでは手の故障により、辞退を余儀なくされたが、1989年ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールでは優勝者となり、一躍その名を世界に知らしめた。1991年にモスクワ音楽院時代の同窓生と結婚、その後に渡米しテキサス州に移住。
コンクール
1995年ショパン・コンクールでは、圧倒的な演奏技巧と独創的な作品解釈によってワルシャワの聴衆に深い感銘を与え、地元紙の下馬評では優勝候補と目されたにもかかわらず、1位なしの2位をフィリップ・ジュジアーノと分かち合うという結果に終わった。スルタノフはこれに反発して授賞式への出席をボイコットしたが、テンプレート:要出典範囲しかしながら、当時のポーランド・ピアノ界の最長老ハリーナ・チェルニー=ステファンスカは、スルタノフの解釈と演奏の両方に対して、心からの賞賛を惜しまなかった。
晩年
2001年に脳卒中の発作に倒れ、硬膜下血腫除去のために緊急手術を受ける。しかし、左半身麻痺によって演奏家生命は断たれ、長いリハビリ生活を続けるも、ついに舞台復帰はかなわなかった。
芸術傾向
スルタノフはショパンやラフマニノフ、プロコフィエフを得意としたが、尊敬する作曲家はモーツァルトやシューベルトだった。スルタノフはピアニストとしてホロヴィッツに傾倒し、学生時代にその里帰りコンサートに駆けつけただけでなく、ラフマニノフの≪ピアノ・ソナタ第2番≫を録音するにあたっては、作曲者自身のエディションを用いずに、ホロヴィッツによる改訂版を用いたほどである。
演奏姿勢
スルタノフの演奏は、ピアノの透明感ある音色の美しさが特徴的だが、またその一方で、個性的な解釈によって、作曲家や作品について新たな魅力を掘り下げることも得意としていた。いずれにおいても、ホロヴィッツの演奏姿勢から深く学んだものだということができよう。