黄権
黄 権(こう けん、生年不詳 - 240年4月[1])は、中国後漢末期から三国時代の人物。字は公衡。益州巴西郡閬中県[2]の出身。子は黄邕・黄崇。 蜀漢・魏の両王朝に仕えた。陳寿の『三国志』では蜀書に伝が立てられている。
生涯
最初は郡吏であったが、劉璋から召し出されて主簿となった。
211年、張松が荊州の劉備を漢中の張魯に対する援軍として呼び寄せる事を劉璋に献策した際、黄権は「左将軍(劉備)を武将として扱えば(劉備が)不満に思うでしょうし、賓客として扱えば一国に二人の君主がいることになってしまいます」と反対した[3]。しかし、劉璋はこの進言を聞き入れず、使者を出して劉備を迎え入れた。黄権は州治の成都から広漢[4]県長に転出した。
212年、劉備が益州攻略を開始した。周辺の郡県の長が劉備に降伏する中、黄権は堅く門を閉ざして防備を怠らず、劉備に屈しなかった。214年、成都が包囲されると劉璋は降伏した。黄権はそれを聞いた上ではじめて劉備に降伏した。劉備は黄権を偏将軍に任命した。
215年、張魯が曹操に敗れたと聞くと、黄権は劉備に「漢中を失うことは益州の危機につながる」と進言した。そこで劉備は黄権を護軍に任じ、巴にいる張魯を迎えに行かせたが、既に張魯が曹操に降伏した後であり、漢中も曹操の支配下になっていた。
黄権は、曹操から任命された巴東郡太守朴胡・巴西郡太守杜濩・巴郡太守袁約を撃破した。[5]
その後、劉備は219年に曹操軍の夏侯淵を討ち取り漢中を占領したが、それらは黄権が元々立てた計略に沿ったものであった。 劉備は漢中王になったが、益州の牧も兼任していたため、黄権を治中従事に任命した。
222年、劉備は関羽の敵討ちと失地奪還を計画し、呉軍との開戦と荊州侵攻を決定した。この時に黄権は「長江の流れに乗って攻める時は良いですが、退却するときが難しくなります。私が先陣を務めますので、陛下は後からお越しください」と述べた。しかし劉備は聞かず、黄権を鎮北将軍に任命し江北の諸軍を指揮させ、魏に対する守りとした[6]。やがて夷陵の戦いで劉備が陸遜に大敗すると、黄権は退路を断たれてしまい益州に戻ることが出来なくなった。進退窮まった黄権はやむをえず魏に亡命した。[7]蜀において、魏に降った黄権の家族を捕えるべし、という意見が上がったが、劉備は「黄権が私を裏切ったのではない。私が黄権を裏切ったのだ」と述べ、黄権の家族を今まで通りに遇した(黄崇の項目も参照のこと)。
魏に降った黄権に対し、文帝(曹丕)が「君は逆(蜀)を捨て順(魏)にならった。陳平・韓信に倣おうとしたのか」と聞くと、黄権は「私は漢中王から過分な厚遇を受けていました。私が魏に降ったのは単に死を免れようとしただけで、故人に倣おうなどとは思っていません」と答えた。文帝はこの返答が気に入り、黄権を鎮南将軍・育陽侯・侍中とした。
魏に降伏した蜀人の中では、黄権の妻子が処刑されたと言い出す者がいたが、黄権の方でもこれを信じることはなかった(『漢魏春秋』によると、文帝が喪を発表するよう命じたが、黄権は劉備や諸葛亮とは心が通じ合っていたため、彼らが自分の心中を分かっているだろうと思い、真偽の判明を待つのだと弁明した)。
223年、劉備が病没した際、魏の臣下達が文帝に祝賀を述べに来たが、黄権だけはこれに参加しなかった。文帝は何とか黄権を驚かせようとし、何度も使者を出して黄権を呼びに行かせた。臣下達が皆顔面蒼白となったが、黄権本人はいつも泰然自若としていた。
『蜀記』によると、文帝が崩御した後、明帝(曹叡)が黄権に対し、魏・呉・蜀の三国の正統性について尋ねたところ、黄権は「天文によって決定すべきです」と発言したという。
後に益州刺史とされ河南郡に鎮し、更に239年10月、車騎将軍・儀同三司へ昇進した。
240年死去。景侯と諡された。
評
- 『三国志』蜀書黄権伝に見える黄権評
- 陳寿の評
- 度量が広く、思慮深かった。
- 司馬懿の評
- 司馬懿は黄権を「快男児」と高く評価しており、亡命後の黄権と親交を結んでいた事が、諸葛亮への手紙に記されている。
一族
黄権の爵位は黄邕が継いだ。しかし黄邕には子がいなかったため、爵位は断絶した。一方の黄崇は成長し蜀の尚書郎となった。
脚注
参考文献
- 陳寿著、裴松之 注、「正史 三国志」1巻(魏書I)、今鷹真・井波律子 訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1992年02月、288頁。ISBN 4-480-08041-4
- 陳寿著、裴松之 注、「正史 三国志」5巻、井波律子訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1993年04月、201-203、383-387、487頁。ISBN 4-480-08045-7
- 陳寿著、裴松之 注、「正史 三国志」8巻、小南一郎 訳、筑摩書房(ちくま学芸文庫)、1993年07月、231-235頁。ISBN 4-480-08089-9