飯野藩
飯野藩(いいのはん)は、上総国周淮郡飯野(現在の千葉県富津市下飯野)の飯野陣屋に藩庁を置いた藩。江戸時代初期に保科氏が藩主となり、廃藩置県まで10代にわたって存続した。江戸時代の領地は上総国のほか、摂津国を中心とする関西地方に分散していた。
飯野陣屋は、徳山陣屋、敦賀陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられる。
藩史
テンプレート:See also 慶安元年6月26日(1648年8月14日)、7,000石を領していた保科正貞が大坂定番となって摂津国有馬郡・河辺郡・能勢郡・豊嶋郡などにおいて1万石を加増されたことから、1万7,000石の大名として諸侯に列し、ここに飯野藩を立藩した。正貞は初めは兄である保科正光の養子となっていたが、兄が将軍・徳川秀忠の落胤(後の保科正之)を秘かに養子として迎えることになったために一度は廃嫡された。だが、正之が秀忠の子として認められると、保科氏嫡流を存続させるために正貞が改めて同氏の家督を継ぐことになったのである。正貞は寛文元年11月1日(1661年12月22日)に死去し、後を保科正景が継いだ。このとき、正景は正貞の養子であった保科正英に2,000石を分与している。延宝5年7月7日(1677年8月5日)、正景は大坂定番になったことから、丹波国天田郡の内に5,000石を加増された。その後も歴代藩主の多くが大坂定番を務めた。特に最後の藩主・保科正益は大坂定番を務めた後の慶応2年5月26日(1866年7月8日)に若年寄にまで栄進し、第2次長州征伐では幕府軍の指揮を務めた。
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、正益は新政府側に与する代わりに徳川慶喜の助命を求めて入京しようとしたが、親戚に当たる会津藩が徹底抗戦の構えを取ったため、正益は連座によって謹慎処分となった。これに対して正益は幕府側に与した家臣を処刑したため、罪を許された。翌年、版籍奉還により藩知事となるが、明治4年7月(1871年8月)の廃藩置県で飯野藩は廃藩となった。その後、飯野県、木更津県を経て、千葉県に編入されたのである。
歴代藩主
保科家
- 保科正貞(まささだ)
- 保科正景(まさかげ)
- 保科正賢(まさかた)
- 保科正殷(まさたか)
- 保科正寿(まさひさ)
- 保科正富(まさとみ)
- 保科正率(まさのり)
- 保科正徳(まさよし)
- 保科正丕(まさもと)
- 保科正益(まさあり)
幕末の領地
江戸時代の飯野藩の領地は、飯野陣屋周辺よりも関西地方により多くあった。飯野藩は摂津国豊島郡浜村(現在の大阪府豊中市浜町)にも浜村陣屋を構えていた。
明治維新後に、周淮郡9村(旧前橋藩領6村、旧旗本領の旧安房上総知県事領4村)が加わり、上総国内の領地は大幅に入れ替わった。なお相給が存在するため、村数の合計は一致しない。
関連項目
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