日米修好通商条約

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日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、英語:Treaty of Amity and Commerce)は、安政5年6月19日1858年7月29日)に日本アメリカ合衆国の間で結ばれた通商条約である。江戸幕府が日本を代表する政府として調印した条約であり、条約批准書原本には「源家茂」として当時の14代将軍徳川家茂の署名がなされている。Harris Treatyとも通称される。

概要

アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなかったことなどから、一般に不平等条約といわれる。しかし同条約の付則第七則で定められた関税率は、漁具、建材、食料などは5%の低率関税であったが、それ以外は20%であり、酒類は35%の高関税であった[1][注釈 1]1872年(明治5年)7月4日には条約を改正できる旨の第13条の条項が設けられていたが、ときの明治政府はまだ何ら組織が整っていなかったため、3年延期してもらうよう申し出た。結局、この不平等条約が解消したのは日本が日清戦争において清国に勝利した後のことであり、1899年明治32年)7月17日日米通商航海条約[注釈 2][注釈 3]が発効したことにより失効した。

幕府は同様の条約をイギリス・フランス・オランダロシアとも結んだ(安政五か国条約)。但し、日米修好通商条約の第二条は「日本國と欧羅巴中の或る國との間にもし障り起る時は日本政府の囑に應し合衆國の大統領和親の媒となりて扱ふへし」と規定されており、これは日本とヨーロッパ列強との間に揉め事が発生した場合、アメリカが仲介することを宣言したもので、他の四カ国との条約にはこの文言はなかった[2]

経緯

ファイル:Townsend Harris.jpg
タウンゼント・ハリス

日米和親条約により日本初の総領事として下田に赴任したタウンゼント・ハリスは当初から通商条約の締結を計画していたが、日本側は消極的態度に終始した。しかしハリスの強硬な主張により交渉担当者の間でアメリカとの自由通商はやむを得ないという雰囲気が醸成されると、江戸幕府老中であった堀田正睦下田奉行井上清直目付岩瀬忠震を全権として、条約の交渉を開始させた。その内容に関して合意を得た後、孝明天皇の勅許を得て世論を納得させた上での通商条約締結を企図する。

堀田は自ら岩瀬を伴って京都へ向かい条約勅許に尽力したが武家伝奏への取次ぎの際、中山忠能岩倉具視ら中級・下級公家88人が抗議の座り込みを行う(廷臣八十八卿列参事件)など攘夷派の少壮公家が抵抗した。また孝明天皇自身、和親条約に基づく恩恵的な薪水給与であれば「神国日本を汚すことにはならない」との考えであったが、対等な立場で異国との通商条約締結は従来の秩序に大きな変化をもたらすものであると考え、頑に勅許を拒否した。

一方ハリスも、アロー号事件をきっかけにと戦争中(1856年 - 1860年)のイギリスフランスが日本に侵略する可能性を指摘して、それを防ぐにはあらかじめ日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶほかないと説得した。幕閣の大勢はイギリスとフランスの艦隊が襲来する以前に一刻も早く米国と条約を締結すべきと判断した。

堀田は事態打開のために松平春嶽大老就任を画策したが、実際に大老に就任したのは井伊直弼であった。直弼は、条約調印当日の安政5年6月19日の閣議でも「天意(孝明天皇の意志)をこそ専らに御評定あり度候へ」と、最後まで勅許を優先させることを主張した。しかし開国・積極交易派の巨頭であった老中の松平忠固は「長袖(公卿)の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限りに取り計らハすしては、覇府の権もなく、時機を失ひ、天下の事を誤る」と即時条約調印を主張。幕閣の大勢は忠固に傾き、直弼は孤立した[3]。 直弼はなおも「勅許を得るまで調印を延期するよう努力せよ」と指示したが、交渉担当の井上清直が「やむを得ないさいは調印してもよいか」と質問、直弼は「そのさいはいたしかたもないが、なるたけ尽力せよ」と答えた[4]

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ポーハタン号

その閣議の後、井上・岩瀬の両名が神奈川沖・小柴(八景島周辺)のポーハタン号に赴き、直弼の意向を無視して条約調印に踏み切った。アメリカ側の全権はハリスであった。条約調印の4日後、堀田は老中を罷免された。井上、岩瀬もしばらくして左遷されている。

この後、日米修好通商条約の批准書を交換するために、万延元年(1860年)に正使新見正興、副使村垣範正、監察小栗忠順を代表とする万延元年遣米使節がポーハタン号で米国に派遣され、その護衛の名目で木村喜毅を副使として咸臨丸も派遣された。咸臨丸には勝海舟が艦長格として乗船し、木村の従者として福澤諭吉も渡米した。しかし条約締結は日本に大きな政争を引き起こし、勅許の無いまま締結したことと同時期に問題となっていた将軍継嗣問題などが絡まり、直弼は派閥抗争鎮定のため反対派の幕臣や志士、朝廷の公家衆を大量に処罰(安政の大獄)、堀田や忠固、井上・岩瀬など条約関係者を排除した。結果、政局は不穏となり使節団の米国訪問中に桜田門外の変が発生、直弼は暗殺され幕府の威信は低下した。

朝廷は直弼暗殺後も一向にこれらの条約を認めず、尊王攘夷運動においては条約の廃棄が要求された(破約攘夷論)。幕府も国内情勢の困難さから、開市・開港の延期(ロンドン覚書)や、再鎖港鎖港を求める外交交渉(横浜鎖港談判使節団)に尽力せざるを得なかった。しかし、米英仏蘭四カ国艦隊が兵庫沖に侵入して条約勅許を強硬に要求するに至り(兵庫開港要求事件を参照)、慶応元年9月16日(1865年11月4日)にこれを勅許した。この時、朝廷は兵庫開港は行わない旨の留保を付けたが、第15代将軍・徳川慶喜の圧力のもと慶応3年5月にはこれも勅許され、日本の開国体制への本格的な移行が確定した。

内容

ハリスとの交渉に先立ち、幕府はオランダとの間で日蘭追加条約を結び、貿易規制の緩和を認めていた。ロシアとの間にも同様の追加条約を結んでいた。幕府は米国との交渉もこれを基に行う考えであったが、ハリスの目的は自由貿易であり、日本側にイニシアチブを取られないよう、条約草案を作成・提出した[5]。この草案を基に15回の交渉が行われ、内容が妥結した[6]。日米修好通商条約の内容は以下の通りである[7]

第1条

  • 今後日本と米国は友好関係を維持する。
  • 日本政府はワシントンに外交官をおき、また各港に領事をおくことができる。外交官・領事は自由に米国内を旅行できる。
  • 合衆国大統領は、江戸に公使を派遣し、各貿易港に領事を任命する。公使・総領事が公務のために日本国内を旅行するための免許を与える。

第2条

  • 日本とヨーロッパの国の間に問題が生じたときは、米国大統領がこれを仲裁する。
  • 日本船に対し航海中の米国の軍艦はこれに便宜を図る。また米国領事が居住する貿易港に日本船が入港する場合は、その国の規定に応じてこれに便宜を図る。

第3条

  • 下田・箱館に加え、以下の港を開港・開市する[注釈 4]
  • これら開港地に、米国人は居留を許され、土地を借り、建物・倉庫を購入・建築可能である。但し、要害となるような建築物は許されない。このため、新築・改装の際には日本の役人がこれを検分できる。
  • 米国人が居留できる場所(外国人居留地)に関しては、領事と同地の役人がその決定を主なう。両者にて決定が困難な場合は、日本政府と公使の討議によって解決する。居留地の周囲に囲い等を作ることなく、出入りを自由とする。
  • 江戸・大坂には商取引のための滞在(逗留)は可能であるが、居留は認められない。
  • 両国の商人は自由に取引ができる。役人が介在することはない。
  • 日本人は米国製品を自由に売買し、かつ所持できる。
  • 軍需品は日本政府以外に売ってはならない。但し、日本国内において他の外国に軍需品を売ることは可能である。
  • 米・麦は船舶乗組員の食用としては販売するが、積荷として輸出することは許されない。
  • 日本産の銅は、余剰がある場合にのみ、日本政府入札品の支払代金として輸出可能である
  • 在留米国人は、日本人を雇用することができる。

第4条

  • 輸出入品は、全て日本の税関(運上所)を通すこと。
  • 荷主の申請に虚偽の疑いがある場合は、税関が適当な額を提示してその荷の買取を申し出ることができる。荷主はその値段で売るか、あるいは提示金額に該当する関税を支払う。
  • 米国海軍の装備品を神奈川・長崎・函館の倉庫に保管する場合は、荷揚げ時点で税金を支払う必要はない。但し、それらを売る場合には所定の関税を支払う。
  • 阿片の輸入は禁止する。もし米国商船が三斤以上を持ってきた場合は、超過分は没収する。
  • 一旦関税を支払った輸入品に関しては、日本国内の他の場所に移送した場合に追加の税金をかけてはいならない。
  • アメリカ人が輸入する荷物には、この条約で定められた以外の関税がかけられることはない。

第5条

  • 外国通貨と日本通貨は同種・同量での通用する。すなわち、金は金と、銀は銀と交換できる。
  • 取引は日本通貨、外国通貨どちらでも行うことができる。
  • 日本人が外国通貨になれていないため、開港後1年の間は原則として日本の通貨で取引を行う(従って両替を認める)
  • 日本貨幣は銅銭を除き輸出することができる。外国の通貨も輸出可能である。

第6条

  • 日本人に対し犯罪を犯した米国人は、領事裁判所にて米国法に従って裁かれる。アメリカ人に対して犯罪を犯した日本人は、日本の法律によって裁かれる。
  • 判決に不満がある場合、米国領事館は日本人の上告を、日本の役所は米国人の上告を受け付ける。
  • 両国の役人は商取引に介入しない。

第7条

  • 開港地において、米国人は以下の範囲で外出できる。
    • 神奈川:東は六郷川(多摩川)まで、その他は10里。
    • 箱館:おおむね十里四方。
    • 兵庫:京都から10里以内に入ってはならない。他の方向へは10里。かつ兵庫に来航する船舶の乗組員は、猪名川から湾までの川筋を越えてはならない。
    • 長崎:周辺の天領。
    • 新潟:後日決定。
  • 但し、罪を犯したものは居留地から1里以上離れてはならない。

第8条

  • アメリカ人は宗教の自由を認められ、居留地内に教会を作っても良い。
  • アメリカ人は日本の神社・仏閣等を毀損してはならない。
  • 宗教論争はおこなってはならない。
  • 長崎での踏み絵は廃止する。

第9条

  • 居留地を脱走したり、裁判から逃げたりした米国人に対し、米国領事は日本の役人にその逮捕・勾留を依頼することができる。また領事が逮捕した罪人を、日本の獄舎での勾留を求めることができる。
  • 米国領事は、居留・来航した米国人に対し、日本の法律を遵守させるように努める。
  • 日本の獄舎に米国人を勾留した場合は、その費用は領事館が支払う。

第10条

  • 日本政府は、軍艦、蒸気船、商船、捕鯨船、漁船、大砲、兵器の類を購入し、または作製を依頼するため、米国人を自由に雇用できる。学者、法律家、職人、船員の雇用も自由である。
  • 日本政府が米国へ注文した物品は、速やかに日本に送付する。
  • 米国の友好国と日本の間に戦争が起こった場合は、軍用品は輸出せずまた軍事顧問の雇用も認めない。

第11条

  • 附則である貿易章程も、本条約同様に両国民が遵守しなければならない。

第12条

  • 日米和親条約および下田協約の内容で、この条約の内容と異なる部分に関しては、この条約によって置き換えられる。

第13条

  • 条約内容は1872年7月4日に必要に応じて見なおす。その場合には1年前に通達を行う。

第14条

  • 本条約は1859年7月4日より有効である。
  • 条約批准のために日本使節団がワシントンを訪問するが、何らかの理由で批准が遅れた場合でも、条約は指定日から有効となる。
  • 条約文は、日本語、英語、オランダ語にて作成し、その内容は同一であるが、オランダ語を原文とみなす。
  • 本条約を1858年7月29日に江戸にて調印する。


自由貿易

自由貿易は第3条で定められているが、ハリスにとっては最重要の項目であった。草案では専売制度や倹約令の撤廃も求めていた(何れも内政干渉に近いとされたためか、条約には含まれなかった)。幕府は急激な貿易の拡大は国内の混乱を招くとして、日蘭追加条約に準じた内容を希望したが、ハリスはこれを拒否し、最終的には幕府も自由貿易を認めた。幕府側からの希望で、軍需品は幕府にのみ販売すること、日本からの米・麦の輸出は行わないこと、銅は余剰がある場合に幕府の支払いとしてのみ輸出できることが加えられた。第4条では阿片の禁輸が定められているが、これはハリスの方から申し入れたものである[8]

開港場

草案では、候補地として、箱館、大坂、長崎、平戸、京都、江戸、品川、日本海側の2港、九州の炭鉱付近に1港となっていた。これに対し、幕府全権の岩瀬忠震は横浜の開港を主張し、大坂の開港に反対した。大坂が開港すると経済の中心が完全に大坂に移り、江戸の経済的地位が低下するというのが理由であった。ハリスは品川は遠浅で貿易港に適しないことを理解し、横浜開港に同意した。しかし、江戸・大坂の大都市を開港することを強く要求したため、商取引のための滞在のみを許すということで同意された。大坂の外港として兵庫が開かれることとなった。平戸は小さすぎ、また長崎近郊に炭鉱が発見されていたため、九州の開港場は長崎のみとなった。日本海側はとりあえず新潟が選ばれた。但し、幕府は新潟、兵庫、江戸、大坂は後に開くことを主張し、認められた[9]

なお、幕府側の開港予定地は横浜であったが、交渉の過程で神奈川・横浜となり、条約には神奈川のみが記載された[10]。実際に開港したのは横浜[注釈 5]のみであったため、条約を結んだ各国から批判もされたが、幕府は横浜を神奈川の一部と主張した。結局幕府は領事館を神奈川に設置することを認めたが、実務上は横浜の方が有利であり、早いうちに各国領事館は横浜に移動した。また兵庫ではなく神戸が開港している。

居留地

草案では、米国人は日本人と雑居できることとなっていた。しかし幕府側は外国人の居留を一箇所にまとめることを主張し、ハリスは「出島のようにならないこと」を条件に居留地の設定を了承した。草案では1年以上日本に滞在した米国人は、領事の許可があれば商取引のために日本国内を自由に旅行できるとなっていたが、幕府はこれを拒否した[11]。第7条で「遊歩規定」が設けられ、一般人が日本国内を自由に旅行することや居留地外で商取引をすることが禁じられた[12]

宗教

第8条の宗教に関する規定は、ハリスの草案のまま決定された[13]

領事裁判権

第6条の領事裁判権に関しては下田協約ですでに幕府が認めており、これもあっさりと合意した[14]

関税率

関税率は本文ではなく附則である貿易章程で決められている。当時日本側に関税自主権という概念がなかったため、関税率の設定だけが問題となった。幕府側は輸出税・輸入税を12.5%とすることを提案し、ハリスは輸出税は無し、輸入税は20%(一部商品は例外として、0%、10%、35%)を提案した。最終的に、輸出税を5%とし、一部輸入税を10%から5%とすることで合意した。但し、ハリスは輸出税を認める代わりに草案にあった双務的な最恵国待遇を撤回した[15]

金銀等価交換

第5条で、両国貨幣の金銀等価交換が認められている。当時の日本の銀貨である一分銀は貴金属としての価値を基にしたものではなく、幕府の信用による表記貨幣であった。このため、日本の金銀比価1に対し4.65であり諸外国の相場(金1対銀15.3)に比べて銀の価値が高かった。幕府は下田協約の交渉過程で金貨基準の貨幣の交換を主張したが、ハリスは当時のアジア貿易で一般的であった銀貨基準(洋銀)の交換を主張して押し切っていた。但し、草案には日本通貨の輸出禁止が含まれていた。しかしながら、幕府は洋銀と一分銀の交換を嫌い、交渉の過程で外国通貨の国内流通を提案した。ハリスもこれには同意したものの、日本商人が外国通貨に慣れるまでの1年間は日本通貨との交換を認めるように要求した。幕府はこれに合意し、かつ日本通貨の輸出を認めた[16]。結果として金の流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなった(幕末の通貨問題)。幕府は貿易専用通貨である安政二朱銀の発行により金の流出を回避する予定であったが、条約違反と非難され安政二朱銀の通用は僅か22日間で停止されている。この問題は万延小判が発行され、国内の金銀比価が国際水準となるまで約1年間続いた。

片務的最恵国待遇

日米和親条約で定められたアメリカに対する片務的最恵国待遇は、第12条によってそのまま継続された。上述のようにハリスは双務的な最恵国待遇を提案したものの、輸出税を認める代わりに撤回している。また鎖国政策をできるだけ維持し一般の日本人に対しては自由な海外渡航を認める考えがなかった幕府側から断ったとする説もある[17]

影響

この条約により、日本は、アメリカ人はじめ国内在住の欧米人に対して主権がおよばず、外国人居留地制度が設けられ、自国産業を充分に保護することもできず、また関税収入によって国庫を潤すこともできなかった。とくに慶応2年5月(1866年6月)の改税約書以降は、輸入品は低関税で日本に流入するのに対し、日本品の輸出は開港場に居留する外国商人の手によっておこなわれ、外国商人は日本の法律の外にありながら日本の貿易を左右することができたのであり[18]、そのうえ、こうした不平等な条項を撤廃するためには一国との交渉だけではなく、最恵国待遇を承認した他の国々すべての同意を必要とした[19]

本条約の不平等的な性格は日本の主権を侵害し、経済的にも国内産業の保護育成の大きな障害となった。裏返せば、自由貿易により外国の物品を安く購入することが可能となり、明治の近代化に寄与したとも考えられる。明治維新後、新政府は条約改正を外交上の最優先課題として外国との交渉を進めるいっぽう、国内法制の整備、秩序の安定化、軍備の強化等に取り組んだ[20]

脚注

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注釈

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出典

参考文献

関連項目

外部リンク

  • 渡辺(2011)
  • 渡辺(2011)
  • 中根『昨夢紀事 4』p.192-193
  • 石井『日本開国史』p.339
  • 石井『日本開国史』p.259
  • 石井『日本開国史』p.260
  • 日米修好通商条約(小さな資料室)
  • 石井『日本開国史』p.261-265
  • 石井『日本開国史』p.265-268
  • 石井『日本開国史』p.268-270
  • 石井『日本開国史』p.271-275
  • 公文書で探究「条約改正」-『ぶん蔵』.国立公文書館
  • 石井『日本開国史』p.275
  • 石井『日本開国史』p.230、P.276
  • 石井『日本開国史』p.275-280
  • 石井『日本開国史』p.280-282
  • 川島・外務省『条約改正経過概要』(1950)p.35
  • 入江(1966)pp.17-18
  • 藤村(1989)pp.82-83
  • 伊藤(2001)p.129

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