山陽電気鉄道2300系電車

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:鉄道車両

山陽電気鉄道2300系電車(さんようでんきてつどう2300けいでんしゃ)は、かつて山陽電気鉄道(山陽)が保有していた通勤形電車。同社が吊り掛け駆動で足回りの老朽化が目立っていた2700系1976年から1977年にかけて機器更新し、高性能化した系列である。

山陽電気鉄道では車両の形式称号について書類上は「クモハ」や「モハ」などの車種を示す記号を用いているが、現車では車内を含め一切表記しておらず、また車両番号が重複しないよう同一数字を用いる形式では奇数・偶数で車種を分けて管理している。このため、本記事の以下の記述では、2300形について区分が必要な場合を除き、これらの記号を基本的に省略する。

製造の目的

1973年第一次オイルショックの影響で乗客が減少[1]し、1974年以降新車製造予算が確保できなくなっていたことが直接の原因である。

当時の山陽では、老朽化した上に地下線である神戸高速鉄道内での騒音が問題となっていた旧型車の置き換えを迫られており、安価で高性能な車両を手に入れるための苦肉の策として、比較的新しい車体を持つ2700系車体更新車[2]の車体に、当時の新型車であった3000系と同等の機器を搭載して3000系相当の車両を投入することとなった。これが2300系である。

形式称号は同社が2700系に「2000系の車体+700形の機器」という意味を持たせたのと同じルールで、「2700系の車体+3000系の機器」という意味で「2300系」と付番された。ただし、2700系には車両番号一の位が偶数の車両が主電動機付きの(電動車)、奇数の車両が主電動機を持たない(制御車)という区分を行っていた[3]が、本系列は3000系のルールに従って電動車を「クモハ2300形」および「モハ2300形」、制御車を「クハ2600形」と区分し、それぞれを製造順に付番するという方式に変更している。

形式・編成

2700系は2両編成が基本であったが、改造時には1両を増結して3両編成で運行されるようになっており、山陽全体においても2両編成での運用は消滅していた。このため、本系列も3両固定編成として改造された。さらに、新たに搭載される3000系用電装品は、同系列が電動車2両を1組として各種機器の集約分散搭載を図るユニット電動車方式で、電動車2両が不可分の構造となっていたため、それに合わせて編成内の2両の電動車が別々の形態に改造されている。

西代高速神戸

  • クモハ2300形(偶数番号車)
制御電動車(M'c)。電動発電機(MG)および電動空気圧縮機(CP)などの補機を搭載し、2300形奇数番号車とユニットを組んで使用された。
  • モハ2300形(奇数番号車)
中間電動車(M)。パンタグラフ主制御器抵抗器などを搭載し、2300形偶数番号車とユニットを組んで使用された。
  • クハ2600形
制御車(Tc)。主要機器は搭載していなかった。

姫路

以上の通り、ユニット電動車方式を採用したことと、運転台の設置車両の関係から、本系列は3両編成[4]が運用上の最小単位となっている。

旧番号との対照は以下の通り。←は中間に入った先頭車の運転台向き(2300系は撤去跡)を示す。

新番号 旧番号 改造年月日
クモハ2300形 モハ2300形 クハ2600形 モハ2700形 モハ2700形 クハ2700形  
2300 ←2301 2600 2712 ←2704 2705 1977/2/12
2302 ←2303 2601 2714 ←2706 2707 1976/10/13

改造内容

改造種車となった2700系の車体は、3000系の1世代前にあたる、2000系最終増備車(タイプVI=2507, 2508)に準じた普通鋼製19m級片側3扉の設計で、改造時点の一般的な水準に照らして冷房のないことを除けば質的に充分な接客設備を備えていた。そのため、主な改造点は、特に編成あたり2両連結されていたモハ2700形(Mc)に集中している。2両はそれまで機器構成が同一であったが、3000系のユニット式機器を搭載するにあたり、制御器とパンタグラフは2両目となったモハ2300形(奇数番号車)に、MG、CPは先頭車となったクモハ2300形(偶数番号車)に、それぞれ2基ずつ集中搭載され、クモハ2300形となったモハ2700形の屋根上機器は通風器を除き全て撤去された[5]。ここで制御器は1C4M制御[6]を行う日本国有鉄道(国鉄)制式の電動カム軸式制御器であるCS10と弱め界磁制御用のCS9界磁接触器のペアから、1C8M制御を行う富士電機製電動カム軸式制御器のKMC-201に交換され、主電動機国鉄モハ63形そのままのMT40S[7]から3000系と同一の三菱電機製MB-3020S[8]となり、主電動機重量の約半分がばね下重量となり振動が大きかった吊り掛け駆動方式から、主電動機重量が完全にばね上重量となり振動が低減されたカルダン駆動方式WNドライブ)に変更された。

前述の通り、機器分散で電動車2両が不可分となるため、先頭に立つ可能性が完全になくなった[9]、編成中間のモハ2700形は運転台を撤去されて中間電動車のモハ2300形となり、灯具・乗務員扉は全て埋め込み改造された。ただし、車内運転室跡は座席が延長されずに立席スペースとされ、外観上も妻面に丸みが残り、乗務員扉跡に設置された窓は他よりも小さいという簡易的な改造に留まっている。一方で先頭車形態で残ったクモハ2300形、クハ2600形についても、左側の運転士席側妻窓について上下寸法が縮小されており、改造前とは若干異なる印象となった。

改造時、直前まで製造されていた3050系冷房装置空気ばね台車を装着していたため、本系列についても装着も検討された。しかし、冷房装置は搭載に車体の補強工事が、稼働にMGの増強がそれぞれ必要で、新車製作に匹敵する費用がかかることから見送られ、空気ばね台車も空気ばねへの空気圧供給にCPの強化が必要であったため、その必要のない川崎重工業製のウィングバネ式金属ばね台車[10]となり、それまでのDT13S軸ばね式台車と交換された。

車歴

1976年から1年に1本のスローペースで改造されたが、1977年に3050系の製造が再開されて改造の必要がなくなり、未改造の3両編成2本を残して改造は終了した。これは、その内の1本が2000系タイプIIに準じた片側2扉車(2700 - 2701)と3扉車の混結編成であったということも大きい。この2700系2本は1986年5000系投入による旧型車全廃時までに淘汰されているのに対し、本系列となった2本は主要機器が3000系と共通で走行性能や保守性に差がなかったことから整理対象とはならず、また車体の車齢も若かったことから継続使用が決定された。

1990年代に入ると2000番台の形式で唯一新塗装(クリームに黒と赤の帯[11])化や冷房化を受け使用され続けた。冷房方式は同時期の3000系と同じく、1両あたり車体中央に集中式冷房装置を1基搭載し、同時に通風器は全て撤去されて冷房機脇に小型のものが2つ新設されている。

しかし、5000系増備の過程で同系列の製造に必要となるMB-3020Sを確保する必要[12]から、普通以外の運用を持たない3両編成で、MB-3020Sほどの高出力でなくても事足りると判断された本系列の主電動機は、1991年に5000系新造投入で代替廃車された2000系タイプIおよびVに装架されていたMB-3037[13]およびその駆動装置と交換され、同じく2000系発生品の機器を搭載する3200系と同等の走行性能となった。

この後本線上での3両編成運用が減少し、3000系の中間に組み込まれていた2000系改造の3550形の老朽代替車確保、5000系追加増備に際してのMB-3020S確保[14]の必要性から、本系列は編成解消の上で付随車化が行われることが決まり、1997年から1998年にかけて全車が3000系のサハ3560形に改造されて形式消滅した。番号の対照は以下の通りで、元の形態順(クモハ2300形→モハ2300形→クハ2600形)に新番号が振られている。なお、3560形6両では当時残存していた3550形全てを代替できなかったため、以後も3550形は一部が残存した。

ファイル:山電3560形.jpg
右が3560形(元先頭車)。

3560形への改造にあたっては、本系列に改造された時と同様に費用圧縮のために工数が最小限に抑えられ、パンタグラフなどの電装品は撤去されたものの、元先頭車の運転台や灯具は乗務員室扉が施錠されたのみでほぼそのまま残置された。ただし、外部塗装は全車とも前面のクリーム1色化と側面乗務員扉への帯追加によって中間車としての塗り分けに変更されていた。

これで800形[15]から数えて3度の改造と4度の改番が行われたことになるが、3560形としての使用期間は短く、2003年1月に折からの不況と乗客減により、乗り入れ先である神戸高速、阪急電鉄阪神電気鉄道の各社から同意を得て3両編成運用が急増したことで、2000系列改造の3550形、3560形は全車とも運用から順次離脱した。この間に行われた改造は3560・3564の前照灯ケースが鉄板で塞がれたのみで、他の3000系各車に対して施工されていた、座席モケットの花柄への変更は最後まで実施されず、従来通りのモスグリーン地のモケットのままであった。

運用離脱後、3550形とともに全車両が東二見車庫に留置されて休車扱いとなったが、4両は翌月に車籍抹消され、残る2両も約2年間保留車として車籍を保持したまま残された後、2004年12月に除籍手続きが行われ、6両全車の廃車が完了している。廃車後、KW-4台車は3000系1・2次車のOK-21C・-25B台車と交換[16]され、転用された主電動機とともに2011年現在も使用されている。

旧番号 新番号 組み込み先編成 改造年月日 廃車年月日
2300 3560 3022F 1998/5/8 2004/12/10
2301 3562 3024F 1998/3/26 2003/2/28
2600 3564 3026F 1998/6/4 2003/2/28
2302 3561 3030F 1997/11/28 2003/2/28
2303 3563 3032F 1997/9/11 2004/12/10
2601 3565 3028F 1998/1/13 2003/2/28

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

  • 山陽電鉄車両部・小川金治 『日本の私鉄 27 山陽電鉄』、保育社、1983年6月
  • 企画 飯島巌 解説 藤井信夫 写真 小川金治『私鉄の車両 7 山陽電気鉄道』、保育社、1985年8月
  • 『鉄道ピクトリアル』 No.528 1990年5月臨時増刊号 特集「山陽電気鉄道/神戸電鉄」、電気車研究会、1990年5月
  • 『鉄道ピクトリアル』 No.711 2001年12月臨時増刊号 特集「山陽電気鉄道/神戸電鉄」、電気車研究会、2001年12月

関連項目

テンプレート:山陽電気鉄道の車両
  1. 沿線に播磨臨海工業地帯を抱える山陽にとって、工業衰退による通勤利用の減少は大きな打撃となった。
  2. 同社が1956年1964年から1968年にかけて、2000系と同等の新造車体と1947年運輸省からの割り当てに従い導入した700形の機器とを組み合わせた車両。機器と車体の老朽化の進行に差があり、2700系の維持という面ではメリットがあった。
  3. 改造種車の700形がこの方式で、また、改造の時点では山陽では2両編成が主体だったために1編成ごとに連番(2700+2701、2702+2703…)となるため、このような付番が行われた。
  4. 主電動機の定格出力から、2600形と2300形奇数番号車との間に付随車を挿入することが可能であったがこれは実施されておらず、本系列は終始3両固定編成で運用された。
  5. このパンタグラフ撤去跡への通風器増設は実施されず、後の冷房化まで他の部分より設置間隔が広いままで外観上の特徴となっていた。
  6. 「制御器1基で1両分4基の主電動機(モーター)を制御する」という意味。後述の「1C8M制御」は同2両分8基。
  7. 端子電圧750V時定格出力140kW。
  8. 端子電圧340V時定格出力125kW。なお、時期により小改良が加えられて型番末尾のサフィックスが変化しており、本系列ではMB-3020S3・S4が使用された。
  9. 改造を受けた時点で、既に常時3両編成を組んでいたために営業運転では編成中間に入っていた。
  10. 2300形には動力台車のKW-1B形、2600形には付随台車のKW-4形が3000系2次車等に採用されているものに準じた仕様で製造された。
  11. 他形式では先頭車最前部扉の戸袋部にコーポレートマークが掲示されたが、戸袋に窓が設けられている本系列は掲示する場所がなかったことから、最後までなされなかった。
  12. この時期、MB-3020Sを含む三菱電機MB-3020系は原型となった1953年奈良電気鉄道デハボ1200形用MB-3020A以来40年以上の長きに渡って続けられた生産がすでに打ち切られており、社内で捻出するより他なかった。
  13. 端子電圧675V時定格出力110kW
  14. この時は「本系列から取り外したMB-3037を3000系に搭載して3200系化し、それによって発生したMB-3020Sを5000系に転用する」という2段階の改造が行われた。ただし、東二見工場での定期検査における予備部品プールの見直しにより、実際に3200系に改造された3000系は1編成 (3210F) に留まった。
  15. 700形は竣工時は省番号(モハ63形63800番台)との関連から「800形」と命名されていた。
  16. 古くて部品点数が多く、保守上問題となっていた。