八郎潟
テンプレート:Infoboxテンプレート:ウィキプロジェクトリンク 八郎潟(はちろうがた)は、秋田県にある湖。かつては面積220km²と、日本の湖沼面積では琵琶湖に次ぐ第2位であったが、大部分の水域が干拓によって陸地化されたことで知られる。陸地化によって陸地部分が大潟村になった。現在では日本の湖沼において18位の面積である。八郎湖や、八郎潟残存湖といった別名でも呼ばれる。
狭義には、南東部の八郎潟調整池のことを指し、現在「八郎潟」のデータとして示されるものの多くはこの「八郎潟調整池」のものである(表にあるデータも八郎潟調節池のもの)。
広義には、干拓前の八郎潟の範囲を反映した八郎潟調整池、東部承水路、西部承水路の総称である。2007年12月、この範囲が「八郎湖」として湖沼水質保全特別措置法の指定湖沼となった。
地理
秋田県西部、男鹿半島の付け根に位置し、狭義の八郎潟(八郎潟調節池)は、男鹿市、潟上市、南秋田郡八郎潟町、井川町、五城目町、大潟村にまたがっている。
東部承水路と西部承水路は干拓前の湖の外周にあたる部分で、大潟村を囲むようにして存在しており、八郎潟調整池とあわせた広義の八郎潟の湛水面積は48.3km²に達する。
もともとは海と繋がった汽水湖であったが、八郎潟防潮水門によって締め切られており、淡水湖になっている。
歴史
琵琶湖に次いで日本で2番目の広さだった八郎潟では、戦後、食糧増産を目的として干拓工事が行われ、20年の歳月と約852億円の費用を投じて約17,000haの干拓地が造成された。工事は1957年(昭和32年)に着工して、1967年(昭和42年)から入植を開始した。全体の事業は1977年(昭和52年)に竣工した。
干拓工事によってできあがった土地に全国から公募された入植者が入植し、1964年(昭和39年)9月15日に「干拓式」と題する式典を吉武恵市自治大臣、赤城宗徳農林大臣、秋田県知事らを招いて開催したのち、10月1日に秋田県で69番目の自治体として大潟村が発足した。
最終的には、米の増産を目指していたが、減反政策によって失敗した計画という見解もある。特に環境の方面では、湿地の喪失を嘆く向きもある。
利用
かつては汽水湖だったため、シジミが多く採れていたが、近年は干拓とともに淡水化されたため、その収量は減少している。冬期間は凍った湖面上でワカサギ釣りがよく行われているが、ブラックバスなどの外来魚の流入で在来種の減少が確認され、その対策が行われている。
反面、ブラックバス等の増加で近年は県外の釣り愛好家から注目され、夏になると観光客が多数訪れている。
名前の由来
八郎潟の名称は、人から龍へと姿を変えられた八郎太郎という名の龍が、放浪の末に棲家として選んだという伝説に由来するとも言われる。ただし伝説においても、今や八郎太郎はこの湖には滅多に戻らないとされている(三湖伝説の項目を参照)。
また、戦後斎藤隆介によって、八郎潟の由来について独自の解釈にて描いた児童文学作品『八郎』を執筆し、小学校の国語科の教科書に採用されたことがある。
関連項目
外部リンク
- 八郎潟の干拓と大潟村の歴史
- 八郎潟基幹施設管理事務所(秋田県)
- 国土地理院地図閲覧サービス(湖口付近)
- 大規模な公有水面の埋立てに伴う村の設置に係る地方自治法等の特例に関する法律(昭和三十九年六月十八日法律第百六号)