レインボー (バンド)
テンプレート:複数の問題 テンプレート:Infobox Musician レインボー(Rainbow)は、イギリスのハードロック・バンド。
目次
概要
ギタリストとして既に音楽的にも商業的にも世界的な成功を得ていたディープ・パープルのリッチー・ブラックモアが、同バンドから脱退して新たに結成したソロ・バンド。そのためデビュー・アルバム時はアルバム・タイトルと同じ「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」(Ritchie Blackmore's Rainbow)と表したが、セカンド・アルバム時は「ブラックモアズ・レインボー」(Blackmore's Rainbow)、最終的には「レインボー」(Rainbow)というバンド名で活動した。
イギリス人のリッチー・ブラックモアが中心となって結成されたため、一般的には「ブリティッシュ・ロック」に類するバンドとされるが、メンバーの多くがアメリカ北東部出身のミュージシャンである。
ブラックモア自体のステージングなどはディープ・パープル期に培ったブルース基調のハードロックにバロック音楽の構成を融合させたハードロックの代表的なギターリストとなり、バンド・サウンドは後に訪れる重要なギター・リフとビートのヘヴィメタルの時代の基礎を築き上げたとされている。
そのとき、そのときの商業音楽にあわせてアップデイトしていく音楽だったので、アルバム毎にドラマー、シンガー、キーボーディストを変えられている。
アメリカ北東部出身のミュージシャンである、"Straight Between The Eyes"から参加した、デイヴ・ローゼンサルと、"Bent Out of Shape"から参加したチャック・バージのふたりは1990年以来、Billy Joel Bandの一員として活躍している。
結成の経緯
そもそものきっかけは、1974年の8月に録音が開始されたディープ・パープルの『嵐の使者』の制作中に表面化した、他メンバーとの音楽的な対立とされている。
リッチー・ブラックモアは「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」(Black Sheep Of The Family)という曲の録音を希望したが、クォーターマスのカバー曲であるなどの理由で、ディープ・パープルのメンバーから拒否されていた。
だが、アルバムの録音後に予定されていたアメリカ・ツアーが中止となって時間的な余裕が生じたため、リッチー・ブラックモアはかねてより気に入っていたアメリカのバンド「エルフ」のボーカリストであるロニー・ジェイムス・ディオを起用して同曲を録音、さらにロニー・ジェイムズ・ディオとの共作である「16世紀のグリーン・スリーブス」(Sixteenth Century Greensleeves)も合わせて録音した。当初はこの2曲でソロ・シングルを制作する予定だったが、リッチー・ブラックモアはこの2曲の出来の良さを気に入り、エルフを吸収する形で新しいバンドを結成することを企図した。
1975年2月 - 3月、ミュンヘンのミュージックランド・スタジオにて、ギタリストを除くエルフのメンバー全員とアルバム用の曲を録音。4月7日のパリ公演を最後にリッチー・ブラックモアがディープ・パープルを脱退(ただし公式発表は6月)。8月10日、オイスター・レコードより、当時のバンド名と同名のアルバム『Ritchie Blackmore's Rainbow/邦題=銀嶺の覇者』をリリース、デビューに至る。
活動状況
RAINBOW#1(1975年5月 - 1975年9月)
RAINBOW#2(1975年9月 - 1977年2月)
- オーディションにより9月末までにジェフ・ベック・グループにいたドラマーのコージー・パウエル、ベーシストのジミー・ベイン、アメリカ人のキーボーディストトニー・カレイの3名が新たにバンド・メンバーになり、同年11月、アメリカ、カナダと北東部のツアーをおこなう。1976年2月、ドイツを中心とする欧州ツアーを催行。ツアー終了後にミュージックランド・スタジオにてセカンドアルバムを録音する。同年4月『虹を翔る覇者』をリリース。アメリカ、イギリス、オーストラリア・ツアーを経て、12月には初来日ツアーを催行(この来日ツアーにドイツ公演の音源を合わせたライブ・アルバム『レインボー・オン・ステージ』)が1977年7月にリリースされた)。1977年2月にジミー・ベインを解雇。
RAINBOW#3(1977年5月 - 1977年7月)
RAINBOW#4(1977年7月 - 1978年11月)
- 結局オーストラリア出身のベーシストのボブ・デイズリーとカナダのシンフォニック・スラムというバンドのキーボーディスト、デヴィッド・ストーンがセッション・ミュージシャンとしてグループに加入。9月よりツアー開始。ウィーン公演で暴力行為に及んだとしてリッチー・ブラックモアが暴行罪容疑をかけられて逮捕され、2日間拘留される(釈放直後のミュンヘン公演がビデオ収録され、後年、DVDソフト『Live in Munich 1977』としてリリースされた)。1978年1月、2度目の来日ツアーが行われ、札幌公演の際ファンが圧死する事件が発生する。5月、アルバム『バビロンの城門』リリース。プロモーション・ツアーの後に、ロジャー・グローヴァーをプロデューサーに据えて走り出した次期レインボーには、ディヴィッド・ストーンは次の展開には関与せずグループを離れ、新しいアルバムのデモ・テープを聴いたロニー・ジェイムス・ディオは、「自分の唄いたいタイプの音楽ではない」という理由でグループを離れる。新しいベーシストをもとめて1978年末にジャック・グリーンを加入させたが、意に合わなかった。
- 1979年早々、コージー・パウエルの推薦によりコロシアムIIのドン・エイリーがキーボーディストとしてオファーされ、ブラックモアが担当するはずだったベースも、デモ用に録音したロジャー・グローヴァのベースが担当して、使用されて記録に残るようになった。グローヴァーはブラックモアに懇願されベーシストとして参加することになる。
出来上がったテープをもとに、フランスでレッコーディング中に、新しいヴォーカリストのオーディションが行なわれて、1960年代にマーブルズで異彩を放ったシンガーのグラハム・ボネットがヴォーカリストに決定する前には、マーク・ストラーチェが選考されていた。(マーク・ストラーチェはこのあとすぐに、クロークスのシンガーとなる。)ストラーチェが新しいラインに乗らないとみるや、ボネットが迎えられてレコーディングが行われた。同年7月(日本では9月)、アルバム『ダウン・トゥ・アース』をリリース。 9月からワールド・ツアーを催行した。日本では1980年5月に公演を行なった。既に「NME」紙上で脱退を表明したドラマーのコージー・パウエルの最後のコンサートが8月16日にロンドン郊外のドニントン・パークでの「モンスターズ・オブ・ロック(Monsters of Rock)で行われた。演奏された「Stargazer」は1980年11月にPolydorからライブ・アルバム『Monsters of Rock』としてリリースされている。
RAINBOW#6(1980年8月 - 1980年11月)
RAINBOW#7(1980年11月 - 1981年11月)
- ジョー・リン・ターナーが新しいヴォーカリストに推薦されレコーディングを敢行。1981年1月(日本では3月)、アルバム『アイ・サレンダー』をリリース。直後にアメリカ、欧州ツアーを経て8月に来日公演を催行。
RAINBOW#8(1981年11月 - 1983年6月)
- 10月末のオーディションによってデイブ・ローゼンタルが加入し、11月にカナダのスタジオで初のデジタル録音を使ったスタジオでの録音が行われる。1982年『闇からの一撃』をリリース。5月からアメリカ・ツアー。8月のテキサス州サン・アントニオ公演でのライヴが収録されて初ドキュメント・フイルム『Live Between The Eyes(VHS)』としてリリースされている。10月に来日ツアーを催行した。1983年5月からコペンハーゲンのスウィート・サイレンス・スタジオにて次作アルバムのリハーサルが開始された。
RAINBOW#9(1983年6月 - 1984年3月)
- ジョー・リン・ターナーと旧知の仲だったチャック・バーギ(元・ブランドX)が加入し、8月に『ストリート・オブ・ドリームス』をリリース。直後にイギリス/アメリカ・ツアーが催行される。このツアーの後、ディープ・パープル再結成のプランが進行し、3月の来日ツアー終了後にレインボーは活動を休止を発表。新日本フィルハーモニー交響楽団と共演した最終公演にあたる1984年3月14日の武道館はWOWOWによってヴィデオ収録プログラム放映された(一部はプロモーション・ヴィデオを編集した『The Final Cut』で見ることができる)。
RAINBOW#10-#12(1994年4月- 1997年5月)
- 再びディープ・パープルを脱退したリッチー・ブラックモアが1994年に結成。8月にアルバム『孤高のストレンジャー』をリリースしたが、日本では媒体がほとんど伝えずに1997年に解散。その後リッチー・ブラックモアはキャンディス・ナイトとともにブラックモアズ・ナイトを結成している。
活動状況における特記事項
新バンドの発足以降、リッチー・ブラックモアは音楽誌のインタビューなどで度々「自分はレインボーの1/5」であると主張していた。だが実際はデビュー時のバンド名とアルバム・タイトルにリッチー・ブラックモアの名前を冠したことから、周囲の人間や多くのファンはブラックモア中心のソロ・プロジェクトとして捉えた。バンドの音楽性もブラックモアの嗜好の変遷と共に方向を変え、そうした中でメンバーは次々と交代を繰り返していった。
しかし、バンド名をブラックモアズ・レインボーとしたセカンドアルバムにおいては、アメリカ人ボーカリストであるロニー・ジェイムス・ディオと、コージー・パウエルのパワフルなドラミングという強力なユニットの力を得、ブラックモアの当初の理想であった「中世様式美系ハードロック」がある程度完成したとされ、ワンマンバンドから3人の強力なメンバーを擁したバンドとして評価されるようになった。この三頭時代で発表したスタジオ・アルバム2枚、ライブ・アルバム1枚(加えて後年発表されたビデオ『Live in Munich 1977』)は、質的にも高いアルバム/ライヴ・パフォーマンスとして評価され、日本やヨーロッパでは高い人気を博した。
しかし、最大の市場であるアメリカでの売上は思うように伸びなかった。この状況を見たブラックモアは、アメリカのリスナーの嗜好にあうより現代的でストレートなハードロック路線への転換を主張し始め、同意できなかったロニー・ジェイムズ・ディオは脱退していった。そこで新たなボーカリストとして、ディオとはキャラクターも音楽性も異なるグラハム・ボネットが加入。元ディープ・パープルのベーシスト、ロジャー・グローヴァーもプロデュースや曲作りに参加(途中からベーシストとしても参加)し、ポップセンスを効かせた佳曲揃いのアルバム『ダウン・トゥ・アース』を発表した。このアルバムからはヒット曲も生まれ、以前よりアメリカでの人気がいくぶん盛り上がったが、その音楽性の変質に、今度はドラマーのコージー・パウエルが不満を抱き脱退。友人のパウエルの脱退に触発される形でボネットも脱退した(なお、ブラックモアは最後までボネットのショート・カットの髪とスーツ姿を気に入らず、彼の頭をギターで殴ったなどという伝説も残っている)。
アメリカのバンド、ファンダンゴ(Fandango)に在籍していたアメリカ人ボーカリスト、ジョー・リン・ターナーがボネットに代わって加入し、よりアメリカ市場を意識し、ポップセンスをさらに先鋭化させた『アイ・サレンダー』を発表。バンドの音楽性の変化は賛否両論あり、アメリカでの売上は期待された程伸びなかったが、日本では発売約半年後の来日時点で、発売元のポリドールがゴールドディスクに認定するなど、従来の高い人気を保っていた。アルバムツアー終了後、ドン・エイリーが方向性の相違から脱退。
8枚目のアルバム『ストリート・オブ・ドリームス』の発売と1984年3月の日本公演を最後に活動を休止。これは、リッチー・ブラックモアとロジャー・グローヴァーがディープ・パープルの再結成に参加するためであった。
その後、約10年にわたりディープ・パープルで活動するが1993年に脱退し、ドゥギー・ホワイトなど新たなメンバーでバンドを結成。グループ名を「リッチー・ブラックモアズ・レインボー」と名乗った。しかし、このバンドはアルバムを1枚発表したのみで再び活動を停止し、事実上レインボーの歴史はここに幕を閉じた。
メンバー
ギタリストは全時期を通じてリッチー・ブラックモア。それ以外のメンバーは以下の様に変遷している。
時期 | ボーカル | ベース | キーボード | ドラムス |
---|---|---|---|---|
#1 1975/5-1975/9 | ロニー・ジェイムス・ディオ | クレイグ・グルーバー | ミッキー・リー・ソウル | ゲイリー・ドリスコール |
#2 1975/9-1977/2 | ↓ | ジミー・ベイン | トニー・ケアリー | コージー・パウエル |
#3 1977/5-1977/7 | ↓ | マーク・クラーク | ↓ | ↓ |
#4 1977/7-1978/11 | ↓ | ボブ・デイズリー | デヴィッド・ストーン | ↓ |
#5 1979/4-1980/8 | グラハム・ボネット | ロジャー・グローヴァー | ドン・エイリー | ↓ |
#6 1980/8-1980/11 | ↓ | ↓ | ↓ | ボブ・ロンディネリ |
#7 1980/11-1981/11 | ジョー・リン・ターナー | ↓ | ↓ | ↓ |
#8 1981/11-1983/6 | ↓ | ↓ | デイヴ・ローゼンタール | ↓ |
#9 1983/6-1984/3 | ↓ | ↓ | ↓ | チャック・バーギ |
解散 1984/4-1994/3 | ※ | ※ | ※ | ※ |
#10 1994/4-1995/9 | ドゥギー・ホワイト | グレッグ・スミス | ポール・モリス | ジョン・オライリィ |
#11 1995/9-1997/2 | ↓ | ↓ | ↓ | チャック・バーギ |
#12 1997/2-1997/5 | ↓ | ↓ | ↓ | ジョン・ミセリ |
主なメンバーの脱退後の活動
- リッチー・ブラックモアは、レインボー活動停止以降はキャンディス・ナイトと共に、アコースティック主体のブラックモアズ・ナイトを結成した。
- ロニー・ジェイムス・ディオは、脱退後はブラック・サバスに加入して更なる様式美を追求した名盤を生み出し、さらに自らのバンドディオを結成。ジミー・ベインがメンバーとして在籍した。アメリカ市場においては全米アリーナツアーを行うなど、商業的にレインボー以上の成功を収めている。2010年5月16日、胃癌により他界。
- ミッキー・リー・ソウルは脱退後、イアン・ギラン・バンドに加入。
- コージー・パウエルはソロやマイケル・シェンカー・グループ、エマーソン・レイク・アンド・パウエル、ホワイトスネイク、ブラック・サバス、イングヴェイ・マルムスティーンなどで活動したが、1998年に交通事故で他界した。
- グラハム・ボネットは脱退後すぐに秀逸なソロ・アルバムを残し、マイケル・シェンカー・グループでの活動を経て、自らのバンド「アルカトラス」を結成し、イングヴェイ・マルムスティーン、スティーヴ・ヴァイといった著名なギタリストを世に出すのに一役買っている。
- ドン・エイリーはオジー・オズボーンのバンドやホワイトスネイクに参加した後、ディープ・パープルに加入。
- ロジャー・グローヴァーはリッチー脱退後もディープ・パープルに在籍し続けている。
- ジョー・リン・ターナーはソロ主体で活動。チャック・バーギとも行動を供にしたが、一時期ディープ・パープルに在籍した。
- デイヴ・ローゼンタールはセッションを主体として活動。2006年のビリー・ジョエルの来日公演ではチャック・バーギとともにバック・ミュージシャンを務めている。また、再結成したプログレ・バンド、ハッピー・ザ・マンでメインのメンバーとして録音に参加したり、ブラックモアズ・ナイトにアレンジャーとして参加したり、現在でも幅広く活動している。
- トニー・ケアリーはレインボーから解雇された後、ソロ・シンガーやプラネットPプロジェクトとして活動していた時期もある。
- 2008年11月、リッチー・ブラックモアの長男、ギタリストのユルゲン・ブラックモア、元レインボーのキーボードトニー・カレイ、ドラムのボビー・ロンディネリ、ベースのグレッグ・スミスとヴォーカルのジョー・リン・ターナーが新バンド「オーヴァーザ・レインボー」(OVER THE RAINBOW)を結成[1]。
音楽性の変遷
1st.『銀嶺の覇者』 - RITCHIE BLACKMORE'S RAINBOW
- 実質、リッチー・ブラックモアがエルフというバンドをスタジオ・ミュージシャンとして使って制作したソロ・アルバム。リッチーは全ての曲を作っただけでなく、全てのパートをそれぞれのメンバーに教えその通りに演奏することを要求したとされる。実力と音楽志向の面でリッチーが求めていたのはボーカリストのロニー・ジェイムズ・ディオだけであり、他の3人はアルバムの完成直後に実質的に解雇されている。
- 当時のリッチーがやりたかった音楽を具現化したアルバムと言え、ディープ・パープル時代に比べると激しい曲は少なく、美しくクラシカルな楽曲「Catch The Rainbow」や「The Temple Of The King」が収録されている。
2nd.『虹を翔る覇者』 - RAINBOW RISING
- ロック・シーンで高い評価を得ていたドラマーのコージー・パウエルが加入。リッチー、ロニーに匹敵する腕利きのコージーが入ったことで、いわゆる「三頭」時代が始まる。ハードロック史上に残る傑作となり、レインボーの人気を確立させた。「Stargazer」と「A Light In The Black」が当時のレコードの裏面を2曲で占める大作(内容的には組曲である)であり、それに代表される長い演奏時間、音楽嗜好を「クラシカルなメロディとヘヴィなサウンドからなる様式美的ハードロック」に先鋭化した作品作りが特徴であり、ラジオの音楽番組で放送される事を前提にしていないことが伺われる。
3rd.『バビロンの城門』 - LONG LIVE ROCK'N'ROLL
- 基本的な路線には変化が無いが、それまでの大作主義が姿を消しシンプルなハードロックへのシフトが意識されている。明らかにアメリカ市場でのブレイクを狙い、ラジオ放送を意識したアルバムとなっている。
- スピーディなアルペジオが連続するキラー・チューン「Kill The King」は、リッチーの全キャリアの中でも重要な曲の一つである。他にも、後にグラハムとジョー・リン・ターナーにも歌い継がれる「Long Live Rock'n'Roll」や前作を踏襲した大作「Gates of Babylon」などが収録されている。
4th.『ダウン・トゥ・アース』 - DOWN TO EARTH
- バンドの音楽性に明確な変化が起こった。アメリカ市場での売上低迷状況を解決するためにポップさを前面に押し出し、ストレートで現代的なハードロック路線に大きく舵を切った。作曲とプロデュースにディープ・パープルでリッチーと一緒だったロジャー・グローヴァーを起用(後にベース・ギターも任せることになる)、ボーカルをストレートでハイテンションな声質のグラハム・ボネットに交代し音楽性を一新した。特にラス・バラード(Russ Ballard)のカバーであるシングル「シンス・ユー・ビーン・ゴーン」を巡ってはメンバー間でも収録の可否を巡って激論があった。
5th.『アイ・サレンダー』-DIFFICULT TO CURE
6th.『闇からの一撃』-STRAIGHT BETWEEN THE EYES
7th.『ストリート・オブ・ドリームス』-BENT OUT OF SHAPE
- さらにボーカリストがジョー・リン・ターナーに変わったことでアメリカ市場向け路線が一層明確になった。なお、ジョー・リンは大学で文学を学んだインテリジェンスの高い人物で、格調の高さと分かり易さが込められている歌詞はバンドのポップ化に貢献し、アメリカでのラジオ・オン・エア回数が以前より多くなった。1984年には「Maybe Next Time」がグラミー賞ベスト・インストゥルメンタル部門にノミネートされた。
- レインボーで最大の魅力とされるリッチーのギタープレイはアルバムを追って控えめになり、かつてアマチュア・ギタリストを虜にしたような速弾きや特徴的なクラシカルなリフなどはあまり聴かれなくなっていく。「Death Alley Driver」のように往年の「Highway Star」にも負けないハイスピード・プレイもあれば、「Maybe Next Time」のようなギター・インストゥルメンタルもあるが、シングル・ヒットに結びついた「I Surrender」や「Street Of Dreams」などの楽曲においては、ギター・サウンド、ギター・ソロはあまり前面に出ていない。
1995年 『孤高のストレンジャー』-STRANGER IN US ALL
- リッチーはソロ・アルバムのつもりであったが、市場に出すに当たって「Ritchie Blackmore's Rainbow」名義を冠せられた。ドゥギー・ホワイトが器用に声色を使い分けて歌っていることもあり、荒削りなギター・プレイ、ギターの音色、練り込まれたアレンジ等において、リッチーのロック経歴の集大成的な楽曲が並ぶアルバムになっている。プロデュースはパット・リーガンとリッチー・ブラックモア。
- 音楽雑誌「BURRN!」の読者人気投票で、1995年度のベスト・グループとベスト・アルバムに選ばれている。
事故
1978年1月27日、彼らの2度目の来日公演の際、札幌中島スポーツセンターで行われたコンサートに於いて観客が死亡する事故が発生した。約5,000人の聴衆が詰め掛けていた同会場で、前座バンドの四人囃子の演奏が終わり約1時間後に本公演が始まると、時間の遅れにしびれを切らしていた聴衆はステージ前方に殺到し(当時は指定席でも演奏が始まると前方に駆け出したり詰めかけたりすることが許されていた)、その下敷きとなった当時19歳の女子大生が胸部圧迫のため死亡した。現場は大混乱となったが、警察からバンド側への演奏一時中止の要請は届かなかったという。この事故は当時大きくニュースで取り上げられ、その後の日本のロック・コンサート会場の警備体制を大きく変更する契機になった。後日、リーダーのリッチー・ブラックモアは遺族に対し500万円の見舞金を送っている。
特記
デビュー当時の彼らの呼び物の一つとして、「虹」をかたどった照明システムが挙げられる。元のアイデアはリッチーがディープ・パープルに在籍していた時からあったと言われる。たしかに1974年のカリフォルニア・ジャムでのコンサートでも、似たようなデザインが使われているのが映像でも確認できる(電飾は施されていない。ただしこの「虹」はエマーソン・レイク・アンド・パーマーの演奏の時にも設置されている(「Beyond The Beginning」で確認できる)。詳細は不明)。
レインボーでの「虹」は、約10万ドルの費用を掛けて作られた巨大なもので、高さ29ft(約9m)、幅40ft(約12m)で約3,000個の電球を使用し、輸送を考慮して4分割できるようになっていた。コンピュータによって光の流れ、色合いを制御しステージ演出に大きな効果を生んだ。
ただし、この「虹」は分割出来るとはいえその質量の多さからくる輸送費は勿論、コンピュータ制御するための技術者(オペレーター)の人件費などの経費は膨大な額に登り、1976年のRISINGツアー以前(アメリカを中心としたツアー)では赤字続きだったという。またギター、ベース、キーボード等の電子楽器の音にノイズが発生し易くなる等の悪影響もあったそうである。(トニー・カレイは使用しているメロトロンの音に大きなノイズが入ることを抗議し、メロトロンを使用する曲では「虹」への電力が抑えられていた)
1982年頃からのライヴでは「虹」に変わり『Straight Between The Eyes』のジャケットアートをイメージした様な、闇に浮かぶ巨大な電光の眼が使われるようになった。
ライヴのオープニングでは映画『オズの魔法使い』のセリフ(「We must be over the rainbow」)のリフレインと共にリッチーが同映画の主題歌「虹の彼方に」のフレーズを弾いて始まるのが定番となっていた。(グラハム・ボネット在籍時のRAINBOW#5(1979年4月 - 1980年8月)では「虹の彼方に」のイントロは演奏されなかった。)
1979年1月27日放送の向田邦子原作脚本のNHKのドラマ「阿修羅のごとく」第4話で、Gates Of Babylon が挿入曲として使用されている。
ディスコグラフィ
スタジオアルバム
- 1975年 - 1. 銀嶺の覇者 Ritchie Blackmore's Rainbow - 11位(UK) / 30位(US)
- 1976年 - 2. 虹を翔る覇者 Rising - 11位(UK) / 48位(US)
- 1978年 - 3. バビロンの城門 Long Live Rock 'n' Roll - 7位(UK) / 89位(US)
- 1979年 - 4. ダウン・トゥ・アース Down To Earth - 6位(UK) / 66位(US)
- 1981年 - 5. アイ・サレンダー Difficult To Cure - 3位 (UK) / 50位(US)
- 1982年 - 6. 闇からの一撃 Straight Between The Eyes - 5位(UK) / 30位(US)
- 1983年 - 7. ストリート・オブ・ドリームス Bent Out Of Shape - 11位(UK) / 34位(US)
- 1995年 - 8. 孤高のストレンジャー Stranger in Us All - 7位(JP)
ベストアルバム
- 1981年 - レインボー・ベスト The Best of Rainbow - 14位(UK)
- 2003年 - 虹をつかもう ~レインボー・アンソロジー~ Catch the Rainbow: The Anthology
ライヴアルバム
- 1977年 - オン・ステージ On Stage - 7位(UK) / 65位(US)
- 1986年 - ファイナル・ヴァイナル Finyl Vinyl - 31位(UK) / 87位(US)
- 1990年 - 虹色魔宴 (ライヴ・イン・ジャーマニー1976) Live in Germany 1976
- 2006年 - ライヴ・イン・ミュンヘン1977 Live in Munich 1977 (2005年に発売されたDVDのリマスター盤)
- 2006年 - ライブ・イン・ジャーマニー1976 30周年記念BOX Live in Germany 1976 (30th Anniversary Ed. Box)
LD・DVD
- 1982年 - レインボー・ライヴ'82 Live Between The Eyes (1982年8月18日 アメリカ、サンアントニオ公演)
- 1984年 - レインボー・ジャパン・ツアー'84 Japan Tour '84 (1984年3月14日 日本、東京公演) ※絶盤
- 1986年 - ファイナル・カット The Final Cut (PV集。ジャパン・ツアー'84の一部も収録)
- 2005年 - ライヴ・イン・ミュンヘン Live in Munich 1977 (1977年10月20日 ドイツ、ミュンヘン公演)
- 2013年 - ブラック・マスカレード ~ロックパラスト1995~ Black Masquerade (1995年10月9日 ドイツ、デュッセルドルフ公演)
参考文献
- シンコー・ミュージック刊(リッチー・ブラックモア・レインボー編 ISBN 4-401-61202-7)
脚注
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