稲美町
テンプレート:Infobox 稲美町(いなみちょう)は、兵庫県中南部、加古郡の町。
目次
概要
兵庫県南部に位置しており、神戸都市圏に属している。兵庫県南部の加古川と明石川に挟まれた印南野台地に位置し、兵庫県東播磨県民局に区分されている。古代では印南野と呼ばれており、播磨国風土記では入波と呼ばれている。万葉集では稲日・稲見と呼ばれており、この本に登場している印南野は古くからの歌枕である。全体的に田園都市であるが、農業基盤の整備を強化しながら阪神地区のベッドタウンとして南部を中心に宅地開発が進められている。[1] [2] [3] [4] [5] [6]
地理
雨の少ない瀬戸内気候のうえ印南野台地と呼ばれる台地に位置しており、水資源に乏しく、長年手が付けられていなかったが、ため池が多く作られたことによって、土地の開墾を進めていった。また、県内最古と言われる天満大池、県内最大の加古大池など、約80箇所の池が有り、全てをあわせると約4km²の面積になる。同時にため池の整備をされている。標高の最高地点は相野の92.2mであり、最低地点は中一色の22.3mであり、東西にかけて緩やかな傾斜地である。また、阪神地域の都市近郊農村地帯になっており、農業が盛んである。さらに、1891年(明治24年)には、日本初のサイフォン式水路として淡河川疏水が神戸市北区の淡河川より引かれた。テンプレート:Main [7] [8][9] [10] [11] [5][12]
人口
- 当町誕生時の人口は加古村3,686人・母里村6,324人・天満村の8,837人を合併し、3村の合計の18,847人であった。その後は町の住民課の住民基本台帳の人口の調査によると1956年3月31日現在の18,943人であり、その後は東播磨の臨海地域や阪神地域のベッドタウンとして天満地区を中心にして住宅開発が行われ、右肩上がりに増加し、1969年3月31日現在で2万人を超え、1980年には県下の町では一番多くなった。1988年3月31日で3万人を超えたが、2002年3月31日・2006年3月31日現在は32,687人でピークを迎え、その後は微減しており、県下最大の町の人口が太子町に譲られ、現在は播磨町・猪名川町に続く4番目の人口に転落した。しかし、加古地区と母里地区は市街化調整区域であり、開発が進んでおらず、人口が減少している。[13][14][10] [1][2] [15] [16] [4]
- 平成22年国勢調査より前回調査からの人口増減をみると、2.84%減の31,036人であり、増減率は県下41市町中22位、49行政区域中30位。
面積
加古地域で全体の18%、母里・天満地域で全体の41%を占める。[17][15][16]
地区 | 面積 |
---|---|
加古地域 | 6.40 km² |
母里地域 | 14.15 km² |
天満地域 | 14.41 km² |
面積の変遷
- 1955年3月31日 - 加古村、母里村、天満村の新設合併により誕生し、面積は34.71 km²[14]
- 1957年10月1日 - 面積修正により、面積は35.18 km²
- 1988年10月1日 - 面積修正により、面積は34.96 km²
広袤(こうぼう)
テンプレート:Col-begin テンプレート:Col-break テンプレート:座標一覧 国土地理院地理情報によると稲美町の東西南北それぞれの端は以下の位置で、東西の長さは7.9km、南北の長さは6.5kmである。[7][8][9][14]
- 東端 : 東経134度58分09秒(上野谷)
- 西端 : 東経134度53分00秒(西和田)
- 南端 : 北緯34度44分43秒(相の山)
- 北端 : 北緯34度46分36秒(下草谷)
気候
隣接している自治体・行政区
通勤率は、加古川市へ17.4%、神戸市へ15.6%、明石市へ10.5%である(いずれも平成22年国勢調査)。 [11]
歴史
稲美町誕生前
稲美町誕生後
- 1955年(昭和30年)3月31日 - 行政業務の拡大のために町村合併促進法により、加古村、母里村、天満村が合併し、稲美町が発足。当初は近辺の自治体との合併を検討していたが、諸事情から3村で「三ヶ村合併促進協議会」を設置して3村とも満場一致で可決した。[18][14] [3] [4]
- 1956年(昭和31年)4月1日 - 「い」を図案化した町章を制定する。[19] [20][8]ref name="概要"/>[21]
- 1959年(昭和34年)- 町内の小中学校で給食が始まる。[8]
- 1963年(昭和38年) - 神戸市との合併問題が起こり、合併を断念する。[8]
- 1964年(昭和39年)- 財政再建準備団体に指定される。[8]
- 1975年(昭和50年)4月1日 - 稲美町立稲美中学校が開校する。[8][22]
- 1975年(昭和50年)- こばと学園が開園する。[8]
- 1979年(昭和54年)4月1日 - 兵庫県立稲美野養護学校(現:兵庫県立いなみ野特別支援学校)が開校する。[8]
- 1981年(昭和56年)4月3日 - 町花・町木・町民憲章を制定する。[23] [24][21]
- 1983年(昭和58年) - 稲美町立郷土資料館が開館する。[8]
- 1986年(昭和61年)4月1日 - 稲美町立稲美北中学校が開校する。[8][22]
- 1986年(昭和61年)8月17日 - いなみ音頭を制定する。 [25]
- 1988年(昭和63年) - 天満大池公園が開園する。[8]
- 1990年(平成2年) - 稲美町立憩いの館が完成する。[8][26]
- 1991年(平成3年)5月9日 - 幸竹で国内最大のミステリーサークルが出現する。[8][27][28]
- 1992年(平成4年)11月3日 - 稲美町立図書館が開館する。[29]
- 1996年(平成8年)12月- 印南で播州葡萄園の園舎遺跡が発見される。[8]
- 2005年(平成17年)3月31日 - 町制50周年を迎える。[8]
- 2005年(平成17年)4月24日 - 町制50周年記念事業で2004年2月から公募で集めたイメージキャラクターを決定する。[14]
- 2005年(平成17年)7月18日 - 中嶋信太郎が名誉町民に指定される。[30]
- 2006年(平成18年)1月26日 - 播州葡萄園跡が国指定の遺跡に指定される。[8][11]
- 2007年(平成19年)3月25日 - いなみ野ため池ミュージアム協議会を設立する。[31]
- 2007年(平成19年)11月30日 - 播州葡萄園跡が近代化産業遺産群に認定される。[32]
- 2009年(平成21年)12月19日 - 稲美町立稲美北中学校が第17回全国中学校駅伝大会で全国制覇する。[8][33] [34]
地域
大字名
加古地区
郵便番号 | 大字名[13] |
---|---|
675-1105 | 加古 |
- Kako district Inamitown Hyogopref range.JPG
加古地区の範囲
- Kako Inamitown Hyogopref No,3.JPG
加古地区の街並み
加古で撮影
母里地区
- 旧母里村であり、町の東部にあり、草谷川中流部周辺と台地上に位置している。三木市と神戸市に接している。丘陵地の農業地帯であり、ため池が多くある。中心部からは離れており、天満地区とは逆に人口が減少している。町内で占める山林面積の大半を占めており、特に草谷川沿いの北側に集中している。[16] [1][2][35][36][37][38][39][12]
郵便番号 | 大字名[13] |
---|---|
675-1101 | 下草谷 |
675-1102 | 草谷 |
675-1103 | 野谷 |
675-1104 | 野寺 |
675-1111 | 印南 |
675-1116 | 蛸草 |
- Mori district Inamitown Hyogopref range.JPG
母里地区の範囲
- Shimokusadani Inamitown Hyogopref background.JPG
母里地区の街並み
下草谷で撮影
天満地区
- 旧天満村であり、加古川市・明石市・神戸市と接しており、町の南西部に位置している。町内の人口の約6割が集中している。中心部・北部は市街化調整区域であるが、南部はJR山陽本線土山駅・第二神明道路明石西インターチェンジに近くかつ阪神地区のベッドタウンであるため工業施設・住宅施設が集中しており、人口が増加している。[16] [1][2] [40]
郵便番号 | 大字名[13] |
---|---|
675-1112 | 六分一 |
675-1113 | 岡 |
675-1114 | 国安 |
675-1115 | 国岡 |
675-1121 | 北山 |
675-1122 | 中村 |
675-1123 | 国北 |
675-1124 | 森安 |
675-1125 | 和田 |
675-1126 | 幸竹 |
675-1127 | 中一色 |
- Tenma district Inamitown Hyogopref range.JPG
天満地区の範囲
- Inamitown Rokubuichi Hyogopref Hyogoprefectural road 514 Shijimi Tsuchiyama line.JPG
天満地区の街並み
六分一で撮影
施設
町のインフラ整備を向上させるために公共施設の向上を進めていき、図書館などの公共施設を役場がある国岡を中心に整備した。[5]
役場
- 稲美町役場[41]
警察・消防
町内にはないが、加古川市にある加古川警察署・加古川市消防本部が管轄している。[21]
- 加古川警察署稲美交番
- 加古川警察署稲美東交番
- 加古川市消防本部稲美分署
- Kakogawacity fire station Inami branch.JPG
加古川市消防本部稲美分署
公共施設
- いなみ野体育センター
- いなみアクアプラザ
- Inamino P.E center.JPG
いなみ野体育センター
- Inami aqua plaza.JPG
いなみアクアプラザ
図書館
- 稲美町立図書館[29]
公園
- 稲美中央公園
- 天満大池公園
- いなみ野水辺の里公園
- さくらの森公園
病院
町内では中学3年生まで、入院時にかかる医療費が無料であり、子供の通院にかかる医療費を助成している。[42]
- 稲美中央病院
福祉
出産祝いに特産米引換券を贈与している。[42]
郵便局
- 稲美郵便局
- 母里郵便局
- 稲美和田簡易郵便局
- 稲美天満郵便局
その他の施設
- コスモホール
- ふれあい交流館
- いなみ野文化の森
- 稲美斎場(ひじり苑)
- 播州葡萄園歴史の館
- 稲美町立憩いの館
- 加古郡広域シルバー人材センター稲美支部
- 姫路駐屯地東播変電所
産業
産業種別人口
産業 | 比率[13] |
---|---|
第一次産業 | 4.9% |
第二次産業 | 36.3% |
第三次産業 | 55.0% |
※2000年10月1日現在
農業
農業人口は年々減少しておるが、農林水産省から支給される補助金で営農指導をし、米作を中心に栽培している。また、圃場整備を積極的に進めたが米が余ったために生産調整をしている。[5][44]
特産物
米作を中心としているが、野菜や果物も育てられている。[45]
商業
|
工業
本社を置く企業
拠点を置く企業
行政
歴代町長
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 |
---|---|---|---|
1-2 | 大西一雄 | 1955年5月19日 | 1963年2月20日 |
3 | 唐木重次 | 1963年2月28日 | 1967年2月27日 |
4-8 | 福田幸夫 | 1963年2月28日 | 1987年2月27日 |
9-12 | 井上芳和 | 1987年2月28日 | 2002年5月31日 |
13 | 赤松達夫 | 2002年6月1日 | 2006年5月31日 |
14- | 古谷博 | 2006年6月1日 | 現職(2期目) |
合併
- 1953年に制定された町村合併促進法によって合併を進め、当初は近隣の自治体との合併を進めてきたが、諸事情から断念し、加古村・母里村・天満村の3村で「三ヶ村合併促進協議会」を発足し、満場一致で可決されたことから1955年3月31日に当町が発足した。発足後、1958年に隣接する神戸市との合併を希望し、採択され、1962年に当時の神戸市長である原口忠次郎が当町との合併を賛成する意思表明をし、当町の行政も賛成したが、1963年に住民から反対の声が上がり、解散請求をし、受理されたため合併を断念した。[3][4][5][8]
紋章
教育
1959年(昭和34年)に町内の小中学校で給食が始まり、1975年には天満中学校・母里中学校の両中学校老朽化のために統合し、稲美中学校を新設したが、阪神地区のニュータウンのために天満地区を中心に人口が増加し、天満南小学校・天満東小学校・稲美北中学校を新設した。。[8][5]
幼稚園
町内の全幼稚園で国際理解教育を実施している。[42]
- 稲美町立加古幼稚園
- 稲美町立母里幼稚園
- 稲美町立天満幼稚園
- 稲美町立天満南幼稚園
- 稲美町立天満東幼稚園
小学校
中学校
高等学校
特別支援学校
その他の学校
- 土山自動車学院
廃止された学校
交通
野寺で撮影
町内には鉄道・高速道路・国道がない。南側の住民がjR山陽本線土山駅・東加古川駅を利用している。[10]最寄インターチェンジは山陽自動車道三木小野インターチェンジである。
路線バス
道路
主要地方道
一般県道
- 兵庫県道148号大久保稲美加古川線
- 兵庫県道377号野村明石線
- 兵庫県道378号六分一神出線
- 兵庫県道381号野谷平岡線
- 兵庫県道382号本荘平岡線
- 兵庫県道384号平荘大久保線
- 兵庫県道513号三木環状線(僅かながら通過する。)
- 兵庫県道514号志染土山線
市町村道
- 稲美町道百丁場出新田線
名所・旧跡
祭事・催事
- いなみ新春万葉マラソン大会 - 毎年1月に開催
- 稲美ふれあいまつり -毎年4月に開催
- いなみ大池まつり - 毎年8月に開催
人物
出身有名人
名誉町民
- 中嶋信太郎[30]
その他
1991年5月9日、幸竹の麦畑でミステリー・サークルが発見され、新聞にも取り上げられて話題になったことがある。早稲田大学の大槻義彦教授らによる調査も行われた。[8][27][28]
関連項目
参考文献
脚注
外部リンク
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 兵庫 難読 211
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 兵庫 難読 212
- ↑ 3.0 3.1 3.2 伊賀 p144
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 伊賀 p145
- ↑ 5.0 5.1 5.2 5.3 5.4 5.5 伊賀 p146
- ↑ 地名 歴史 p128
- ↑ 7.0 7.1 7.2 7.3 テンプレート:Cite web
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- ↑ 19.0 19.1 図典 日本の市町村章 p159
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- ↑ 22.0 22.1 22.2 22.3 テンプレート:Cite web
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- ↑ 26.0 26.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 27.0 27.1 神戸新聞 1991年5月14日付
- ↑ 28.0 28.1 広報 いなみ 1991年7月号 p10
- ↑ 29.0 29.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 30.0 30.1 テンプレート:Cite web
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- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 兵庫 難読 213
- ↑ 地名 歴史 Ⅱ p122
- ↑ 地名 歴史 Ⅱ p123
- ↑ 地名 歴史 Ⅱ p124
- ↑ 地名 歴史 Ⅱ p125
- ↑ 地名 歴史 p132
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- ↑ 42.0 42.1 42.2 テンプレート:Cite web
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- ↑ 伊賀 p147
- ↑ 45.0 45.1 45.2 45.3 伊賀 p148
- ↑ テンプレート:Cite webテンプレート:リンク切れ