少弐資元
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少弐 資元(しょうに すけもと)は、室町時代から戦国時代にかけての大名。
生涯
少弐氏第十六代当主。1497年、父政資と兄高経が幕府からの追討令を得た周防国の大内氏に攻め滅ぼされ非業の死を遂げたのち、横岳資貞ら旧臣たちや豊後大友氏の後押しを受けて、少弐氏を再興する。1530年(享禄3年)、大内義隆の命を受けた筑前守護代の杉興連の侵攻を受けるが田手畷の戦いにて家臣の龍造寺家兼らの働きによりこれを撃退した。しかしこのため、龍造寺氏の力が台頭することにもなり、少弐氏の力は次第に衰退してゆく。また、資元も度重なる大内氏の侵攻に耐えられなり家兼の進言を受け義隆と和議を結ぶが、この和議は謀略で、1535年(天文4年)、資元は義隆に領地をすべて取り上げられてしまった。1536年(天文5年)、大宰大弐の官を得た義隆は陶興房に資元を攻撃させ、資元は自害して果てた。子の冬尚は蓮池城の小田資光(政光の祖父)の下に落ち延び、少弐氏の血脈を保った。
なお、資元最期の地となった梶峰城は、父政資が自決をした場所でもある。
偏諱を与えた人物