ガマール・アブドゥル=ナーセル
ガマール・アブドゥル=ナーセル جمال عبد الناصر | |||||
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任期 | 1958年2月22日 – 1970年9月28日 | ||||
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任期 | 1956年6月25日 – 1958年2月22日 | ||||
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任期 | 1954年11月14日 – 1956年6月25日 | ||||
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任期 | 1958年2月22日 – 1962年9月29日 1967年6月19日 – 1970年9月28日 | ||||
元首 | アブドゥル=ナーセル大統領(兼務) | ||||
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任期 | 1954年2月25日 – 1954年3月8日 1954年4月18日 – 1958年2月22日 | ||||
元首 | ムハンマド・ナギーブ大統領 アブドゥル=ナーセル大統領(兼務) | ||||
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出生 | テンプレート:生年月日と年齢 テンプレート:EGY1882、アレクサンドリア | ||||
死去 | テンプレート:死亡年月日と没年齢 テンプレート:UAR(エジプト)、カイロ |
政党 | アラブ社会主義連合 | 配偶者 | タヒア・カーズィム |
ガマール・アブドゥル=ナーセル(テンプレート:Lang-ar, ラテン文字表記: Jamāl ‘Abd al-Nāsir, Gamal Abdel Nasser, 1918年1月15日 - 1970年9月28日)は、エジプトの軍人、政治家。第2代エジプト共和国大統領。汎アラブ主義を主張し、1958年、エジプトとシリアから成るアラブ連合共和国を建国してその初代大統領に就任した。
日本ではナセルという表記が一般的であるが、ナセル(ナーセル)は父の名アブドゥルナーセルの後ろ半分で、姓ではない(参考:イスラム圏の名前)。
経歴
反英運動への参加と自由将校団の結成
ナーセルは1918年、エジプト北部・地中海沿岸の都市アレクサンドリアにおいて、郵便局長の息子として生まれた。ナーセル出生時のエジプトはオスマン帝国から独立したものの、イギリスの保護国となっていた。ナーセルは成長するにつれ、エジプトの解放を目指す民族運動に関心を寄せていったといわれる。1935年11月12日には学生デモに参加、警察に捕らえられ、エジプト社会党(後のエジプト共産党)のメンバーとともに2日間拘留された[1]。
1939年、陸軍士官学校卒業後、ナーセルは英・エジプト共同領英埃領スーダンでの勤務を申し出て、同地に赴任した。第二次世界大戦が勃発すると、エジプト解放を目指したナーセルはアンワル・アッ=サーダートと共にイギリスの敵国であるイタリアの数人の諜報員と接触し、イタリア軍がエジプトに侵攻した時と同時に反英軍事クーデターを起こすことを計画した。だが、この計画は頓挫し、失敗に終わる。
1948年、イスラエルの建国を契機に第一次中東戦争が始まると、少佐としてアラブ連合軍に従軍する。しかし、アラブ連合軍はイスラエルに敗北し、ナーセルも負傷してエジプトに帰国した。その後、反英愛国の将校の組織である自由将校団を結成し、実質的指導者となる。自由将校団の勢力拡大を図るナーセルは、第一次中東戦争で活躍した将軍ムハンマド・ナギーブを自由将校団の首班として迎え、軍部での支持拡大を進めていった。
1952年7月23日、自由将校団はクーデターを起こして国王ファールーク1世を追放し、権力を掌握した。そして、翌年には王政を廃止し、共和政に移行した(エジプト革命)。ナーセルは副首相兼内務大臣に就任し、ナギーブを議長とする革命指導評議会の中心メンバーとして実権を握った。
大統領就任
だが革命後まもなく、大統領に就任したナギーブと将校団のリーダーであったナーセルとの対立が表面化する。1954年2月22日、革命指導評議会はナギーブの首相兼任を解き、ナーセルの首相就任を決定した。この一度目の首相就任は、ナギーブを支持する多くの市民たちの抵抗にあって約2週間で終わり、再びナギーブが首相を兼任した。だが、同年4月18日、ナーセルは改めて首相に任命された。その後、ナーセルはナギーブから実権を奪っていったが、ムスリム同胞団がナーセル暗殺未遂事件を起こすと、同年11月14日、ナーセルはナギーブ大統領を解任して革命指導評議会議長に就任し、ナギーブ派を追放して権力を掌握した。1956年6月25日、正式に大統領に就任する。
この間、1952年に実施された農地改革を皮切りに、主力産業や銀行を国有化するなど、いわゆるアラブ社会主義政策を推進した。外交では汎アラブ主義政策を取り、イラクなどの中東諸国が結んだバグダード条約機構に反対する一方、アラブ諸国間の団結を唱えて主導権を握った。また、非同盟主義を唱えて第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)に出席、第三世界における指導者の一人となった。
1956年1月、パレスチナ・ガザ地区の難民の対処について、イスラエルとの間接的な極秘会談を行う。仲介したのはアメリカ合衆国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領によって指名されたロバート・バーナード・アンダーソンで、イスラエル側でこの話し合いの内容を知っていたのはダヴィド・ベン=グリオン首相やモシェ・シャレットらごく一部のみだった。ナーセルはこの会談でイスラエルとの和解に積極的だったが、エジプトに難民を住まわせる提案に対しては拒否したという[2]。
スエズ戦争後
1952年にエジプト政府はアスワン・ハイ・ダムの建設計画を立てた。このダムはイギリスが建設を主導する予定であったが、エジプト革命で建設が中止されていた。ナーセルはアスワン・ハイ・ダムの建設を再開し、建設費用獲得のために 1956年7月26日、スエズ運河の国有化を宣言した。これにはイギリスやフランスが反発し、スエズ戦争(第二次中東戦争)が勃発したが、ナーセルは英仏軍を退け、国有化承認を勝ち取る。
スエズ戦争の勝利によって国際的威信を高めたナーセルは、アラブの大同団結を目指す。1958年2月、エジプトとシリアを合邦してアラブ連合共和国を建国し、初代大統領に就任した。また同年、ソビエト連邦がアスワン・ハイ・ダムの建設援助を申し出てきたことを契機に、ナーセルはソ連邦英雄、レーニン勲章を受章するほどの親ソ路線に傾斜していく。
しかし1962年、アラブ連合共和国はシリアの脱退によって事実上崩壊した。ナーセルは引き続きエジプトの国号を「アラブ連合共和国」としたが、連合が復活することはついになかった。この頃からナーセルの威信に揺らぎが見え始める。特に1967年、エジプトはイスラエルとの第三次中東戦争(六日戦争)で惨敗し、国土の東部を占めるシナイ半島がイスラエルに占領される事態となり、ナーセルは責任を取って辞任を宣言するまでに追い込まれた。しかし、国民が辞任を受け入れず、大統領の地位に留まることを求めたためにナーセルは失脚を免れた。その後もイスラエルに対して強硬策を続け、「承認しない」・「交渉しない」・「和平しない」・「パレスチナ人の権利回復」の原則を求めつづける。
一方で、「反イスラエル」の立場から逃亡中のナチス戦犯を多数匿ったとされる。その大半がエジプト軍・治安機関の養成や反ユダヤ主義プロパガンダの作成に当たった。例えば、エジプト情報省で反イスラエル宣伝を担当した元ナチ党の宣伝活動家ヨハン・フォン・レールス(Johann von Leers 1965年に死去)、エジプト国家治安局で働いたゲシュタポ幹部のレオポルド・グライム(Leopold Gleim)がいる。1960年代、イスラエル政府はエジプトがドイツ国防軍の科学技術を手に入れて、弾道ミサイルを開発することを恐れ、元ナチスの科学者のふりをしたスパイを送りこむほどだった。 しかし、ナーセルがナチスの不倶戴天の敵、ソヴィエト連邦と深い関係にあったため、エジプト政府による元ナチに対する支援は下火になっていった。
政権末期と死
1967年の政権危機を乗り越えたナーセルは内閣改造を行い、1962年以来の首相兼任によって政権の求心力を高めようとした。第三次中東戦争の敗北によって壊滅状態となった軍の再建を進め、機能不全と化していた官僚機構の是正に務めた。
ソ連、中華人民共和国、チェコスロヴァキアといった東側諸国の協力を得て、1970年にアスワン・ハイ・ダムの完成をみたが、国内ではスエズ運河の収入が無くなり、インフレが進行した。同年、ヨルダン内戦の仲裁や北イエメン内戦への軍事介入を行うなど多忙を極める最中、ナーセルは心臓発作により、52歳の若さで急死した。
後任として士官学校以来のナーセルの盟友で副大統領のサーダートが就任し、ナーセル体制にかわる経済の自由化を進めることになる。なおナーセルの死後、著書『革命の哲学』が日本でも訳された(角川文庫ほか、1971年)。
脚注
関連項目
- ナセル主義(en:Nasserism)
- 汎アラブ主義
- アラブ・ナショナリズム(en:Arab nationalism)
- アラブ社会主義
- PFLP旅客機同時ハイジャック事件
- オデッサ・ファイル
- ナセル湖
外部リンク
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テンプレート:エジプト大統領テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA
- ↑ テンプレート:Harvnb
- ↑ マーティン・ギルバート『イスラエル全史』下巻(千本健一郎訳、朝日新聞出版、2009年)ISBN 978-4-02-250495-1