菊池義武
テンプレート:基礎情報 武士 菊池 義武(きくち よしたけ)は、肥後国の名族菊池氏の最後(第26代)の当主。大友氏の出身だが、菊池氏一門の木野親則を曽祖父に持っており、菊池氏の血を引く人物でもある。
生涯
永正8年(1511年)に阿蘇氏出身の当主武経は内部の権力闘争に嫌気が差し、矢部に逃亡。永正10年(1513年)、実家阿蘇氏の家督を弟の惟豊から奪還した。
豊後の大友義鑑は肥後に勢力を拡大するため、肥後に大きな影響力を持つ菊池氏の乗っ取りを目論み、武経の跡をまずは詫摩氏出身の武包に継がせ、弟・重治の成長後に菊池氏の家督を継がせる密約を結んだ。
永正17年(1520年)に武包から家督を譲られて当主となった。しかし義武と改名した重治は天文3年(1534年)[1]に大内義隆や相良氏と同盟を結んで兄に反抗し、戦国大名として独立してしまう。兄と不仲だったのが原因なのか、それとも自身の野心のためか、滅び行く菊池氏再興を願った為か、明確な理由は不明であるが、義武が大友氏当主に未練があり、筑後領有という領土的野心もあったことが原因だと思われる。
しかし義鑑との争いに敗れ、肥前の高来に亡命し、結局姻戚の相良氏を頼って落ち延びた[1]。天文9年(1540年)に相良氏や宇土氏ら肥後南部衆の支援を得て木辺で大友方の国人衆と戦い勝利するも、隈本攻めで敗北した[1]。天文19年(1550年)に義鑑が二階崩れの変で横死すると、鹿子木氏や田島氏の支援を得て再び隈本城を奪還した[1]。さらに肥後南部・筑後南部の国人衆と連合して肥後全土の制圧を目指した[1]。しかし甥の大友義鎮の大軍によって隈本城は落城して島原に落ち延びた[1]。
天文23年(1554年)に落髪して日向か薩摩に亡命しようとするも果たせなかった[1]。そして宗麟の和平を口実にした帰国の誘いに乗り、豊後へ向かう途上の木原で義鎮の軍勢に包囲され、自害を余儀無くされた[1]。享年50[1]。義武の死により、肥後の名門菊池氏は名実ともに滅亡した。
人物
義武は兄に似ず凡庸な人物であったらしい。政治・軍事は家臣に任せきりで、権勢に驕り横暴な振る舞いが多かったとされる。重臣で自身の曽祖父にあたる木野親則はしばしば諫言をしたが、義武は聞き入れず逆に親則を殺してしまった。
脚注
注釈
引用元
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 1.9 引用エラー: 無効な
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