北畠晴具
テンプレート:基礎情報 公家 北畠 晴具(きたばたけ はるとも)は、戦国時代の大名。伊勢国国司北畠家の第7代当主[1]。
生涯
文亀3年(1503年)、第6代当主・北畠材親[1](具方)の嫡男として生まれる。永正8年(1511年)、父から家督を譲られて相続する。永正15年(1518年)には第12代将軍・足利義晴から一字を拝領して晴具と名乗った[1]。
晴具は文武両道の名将で、弓馬の達人で和歌をよくし、能書家でもあった。特に和歌は、大永元年(1521年)には細川高国らとともに歌合せを本拠地の多気御所で実施し、大永2年(1522年)には連歌師の宗長を多気御所に招き、逗留させて連歌の興行も行っている。また、高国が多気御所に造った庭園は、現在北畠氏館跡庭園と呼ばれ、国指定の名勝となっている。
享禄2年(1529年)、高国・足利義晴が三好元長・柳本賢治に敗北し、近江朽木谷へ逃亡した。高国は娘婿の晴具に援軍を要請するため伊勢へ下向し、享禄4年(1531年)に晴具の支援を受けた高国は再起を図り摂津まで侵攻し、細川晴元や三好元長と摂津天王寺で戦うも敗北し、大物浦で討死した。
天文年間に志摩の鳥羽城を攻撃し、支配下に収める。そして小浜氏ら国人を掌握して志摩国をほぼ制圧した。その後、大和にも進出して吉野を制圧し、支配下に収めている。しかしこの大和侵攻により、大和諸国人との対立が発生し、筒井氏・越智氏・十市氏・久世氏らと合戦に及んでいる。紀伊へも進出し、熊野地方から尾鷲・新宮方面までを領有化、十津川まで支配領域を広げた。晴具は伊勢国内でも長野氏と争い、天文12年(1543年)には伊勢国南部の領有をめぐり、長野藤定との対立が激化した。晴具は垂水鷺山に出陣、藤定も出陣し合戦となった。長野軍は細野氏・分部氏を主力に晴具を迎撃し、激しい戦闘の末、決着はつかずに双方退却することとなった。長野氏が降伏するのは次の具教の代である。
天文5年(1536年)には出家し、天祐と号した。天文22年(1553年)に隠居して家督を嫡男の具教に譲った。
脚注
注釈
引用元
- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 引用エラー: 無効な
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