小峰義親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年5月1日 (木) 12:57時点における英丸 (トーク)による版 (経歴)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

小峰 義親(こみね よしちか、天文10年(1541年) - 寛永3年2月16日1626年3月14日))は戦国時代から江戸時代初期にかけての大名、武将。白河結城氏13代当主。結城顕頼の子と言われているが、結城晴綱の子または弟であるという異説もある。別名に不説斎。奥羽永慶軍記では「不悦斎」とも記される。また、隆綱と同一人物とする説もある(後述)。上野介、左衛門佐。室は蘆名盛氏の娘。子に大関晴増室、藤巻正成。養子に義広、義綱。

出自

永正の変により断絶していた白河結城氏の庶流である小峰氏を継いでいた。宗家の結城晴綱の存命中はあまり政治の場に表れることはなかったが、晴綱が病により当主としての活動が困難となった永禄10年(1567年)頃から、家中の実権を握るようになる。天正元年(1573年)に晴綱が病死し幼少の結城義顕が家督を継ぐと、その後見人となって白河結城氏を取り仕切った。しかし、天正3年(1575年[1]に家老の和知美濃守と図って義顕を追放し、結城(白河)姓を名乗って自らが白河結城氏の当主となる(天正の変)。義親の謀反の原因は、自身の野望によるものとも、岳父の蘆名盛氏に唆されたからともいわれているが、真意の程は不明。また、最近は義親は晴綱の嫡男(または弟で養子になったとも)であり小峰氏は継いでおらず、家督簒奪ではないという説も出てきている。

なお、『白河市史』の編纂の過程で、晴綱の没後に結城白河氏の当主になったのは、系図上では存在を知られていなかった「結城隆綱」であることが明らかになったが、この人物について義親の初名である説が有力視される一方、晴綱と義顕の間に位置づけて義親の謀叛によって白河を追放された当主とみる説もある[2]

経歴

この頃の白河結城氏は後ろ盾としていた蘆名氏二階堂氏田村氏と争いを始め混乱を極めた。この混乱の中、蘆名盛興は死去している。白河結城氏は佐竹氏の侵攻に遭って衰退しており、義親は遂にその臣下として屈せざるを得なかった。しかし、天正5年(1577年)7月、蘆名氏・田村氏が佐竹氏が南方から北条氏政に攻められたのに乗じて白河城を攻め落とすと、義親が再び白河家の実権を掌握した。その後の講和条件によって天正7年(1579年)に佐竹義重の次男義広を養子に迎え、義親は入道し不説斎と号し佐竹氏に恭順の意を示して義広の後見人となり、白川(白河)の名跡は義広が継いだ。天正15年(1587年)に義広が蘆名氏を継いだため、再び義親が白河結城氏の当主となった(義親は佐竹氏侵攻以前より、婿の大関晴増を養子に迎えていたが、晴増はこの年に実家である大関氏に戻ってその家督を継いだ)。天正10年(1582年)には蘆名盛隆の斡旋で、追放した義顕が白河に帰参しているが、義広が蘆名氏を継いだ後は義親が白河結城氏の跡を継いでおり、義顕はその臣下という位置づけであった。

その後は佐竹氏に従って伊達氏としばしば争ったが、天正17年(1589年)に蘆名氏が滅ぼされると佐竹氏に見切りをつけ伊達氏に服属した。そして、天正18年(1590年)の小田原征伐において、伊達政宗に参陣を止められていたため、政宗に託して豊臣秀吉に貢物を贈ったが、参陣しなかったために許されず、所領を没収され改易された。(奥州仕置

その後義親は所領回復を願って会津の蒲生氏郷を頼り、願いはかなわず諸国を放浪していたが、慶長6年(1601年)、義親は伊達政宗に召し抱えられ、子孫はのち伊達一門に列せられ、仙台藩士となった。義親は嫡子がいなかったため、甥で弟小峰義名の子、白河義綱を養子にした。晩年は政宗に厚遇されたという。元和5年(1619年)、79歳で家督を義綱に譲り隠居した。

寛永3年(1626年)2月16日に86歳で没した。法名は月翁道雲照院。

牛切丸の逸話

那須野ヶ原で鷹狩を開いていたとき、突然一頭の牛が義親の前に出てきて一声鳴いたところ、義親の腕に居た鷹が驚いて逃げ去ってしまい、義親は怒って差していた太刀でその牛を一刀両断した。以後この太刀を「牛切丸」と号し、後に那須神社栃木県大田原市)に奉納された。鎌倉時代中期の備前国一文字派の作と推定され、県有形文化財に指定されている。

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:白河結城氏当主
  1. 天正2年(1576年)とする説もある。
  2. 市村高男「白河結城文書の形成と分散過程」(村井章介 編『中世東国武家文書の研究』(高志書院、2008年)所収)