蘆名盛隆
テンプレート:基礎情報 武士 蘆名 盛隆(あしな もりたか)は、戦国時代の陸奥の戦国大名。蘆名氏第18代当主。
生涯
永禄4年(1561年)、須賀川二階堂氏の第18代当主・二階堂盛義の長男として生まれる。永禄8年(1565年)に父が蘆名盛氏に敗れて降伏したとき、人質として会津の盛氏のもとに送られた。しかし天正3年(1575年)に蘆名氏第17代当主・盛興が継嗣を残さずに早世すると、盛興未亡人の彦姫(叔母にあたる)を自らの正室に迎えた上で、盛氏の養子となって第18代当主となり、天正8年(1580年)に盛氏が死去すると実権を掌握する。
最初、盛隆は上杉景勝と誼を通じ、度々連絡を交わしていた[1]。しかし、上杉を攻撃する織田信長が、景勝を挟撃するべく、景勝から離反した新発田重家及び東北の諸大名を懐柔しようとし始める[2]。信長は東北の諸勢力と交渉を始めた。既に早い段階から信長と交流していた安東愛季をはじめ、大宝寺義氏などが信長へ接近した。
天正9年(1581年)、盛隆は荒井万五郎を上洛させ信長と交渉を行った[3]。盛隆が家臣を上洛させて信長と誼を通じたことは、『信長公記』、『当代記』、『異本塔寺長帳』、『会津旧事雑考』『会津四家合考』など、複数の史料に言及があるが、史料ごとに差異が生じている[4]。盛隆と信長の接近については、盛隆から接近したとも、信長が、上杉景勝を挟撃する為に盛隆を誘ったとも言われる[5]。盛隆は織田信長に名馬3頭・蝋燭1000挺を献上した[6]。これに応えて信長は、盛隆が三浦介に補任されるよう朝廷へ斡旋した。三浦介はこの当時有名無実の地位であったが、蘆名氏は三浦介を名乗った三浦義明の末裔であり、蘆名氏の当主である盛隆にとって三浦一族代々の官途である三浦介を名乗ることは大変な名誉であった[7]。信長は三浦介に盛隆を補任させるよう朝廷に働きかけることで盛隆の心を掌握しようとしたと考えられる[8]。盛隆はその後金上盛備を上洛させている[9]。
信長と接近したことで、盛隆は上杉景勝との関係が微妙になった。その後も景勝からは援軍の要請などがあったが、盛隆はこれに対して曖昧な態度を取り続けることに終始している[10]。
蘆名氏当主となった盛隆は、父・盛義と共に蘆名氏の力を用いて衰退していた実家の二階堂氏の勢力回復に務めた。そのため、元は二階堂氏からの人質であった盛隆に反感を抱く家臣による反乱がたびたび起こった。例えば、天正12年(1584年)6月に盛隆が出羽三山の東光寺に参詣した隙を突かれて栗村盛胤・松本行輔らに黒川城を占拠されたが、盛隆はこれを素早く鎮圧し、7月には長沼城主新国貞通(栗村の実父)を攻めて降伏させた。
同年10月6日、黒川城内で寵臣であった大庭三左衛門に襲われて死亡した。享年23。家督は生後1ヶ月の息子・亀王丸が継ぎ、亀王丸の母・彦姫が隠居した兄・輝宗の後見を受けて蘆名氏をまとめることになった。しかし、輝宗の後を継いだ政宗は同盟関係を破棄して蘆名氏を攻め(関柴合戦)、亀王丸も天正14年(1586年)に疱瘡を患って夭逝するなどの不幸が重なり、蘆名家中は混迷した。若年ながら優れた武将であった盛隆の早すぎる死が、蘆名氏滅亡を早めた原因と言える。
逸話・人物評
- 『奥羽永慶軍記』は猛勇ではあったが、知恵や仁徳が無かったと伝えている。
- 『新編会津風土記』は、大庭三左衛門が盛隆を襲った理由について、男色のもつれが原因としている。
- 『武功雑記』などに、男色絡みの逸話がいくつか残されている。
系譜
脚注
- ↑ 七宮・222頁
- ↑ 七宮・222頁
- ↑ 七宮・222-223頁、林・157頁
- ↑ 林・157頁
- ↑ 林・157-158頁、七宮・222-223頁
- ↑ 七宮・223頁、『信長公記』に言及あり。
- ↑ 七宮・223頁、林・158頁
- ↑ 林・158頁
- ↑ 林・158頁
- ↑ 七宮・223頁