蘆名盛興

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テンプレート:基礎情報 武士 蘆名 盛興(あしな もりおき)は、戦国時代陸奥国戦国大名蘆名氏第17代当主。

生涯

天文16年(1547年)、第16代当主・蘆名盛氏嫡男として誕生。生年については異説もあるが、概ね1547年生で正しいとされる[1]。母親は盛氏の正室である伊達稙宗の娘。結婚後10年目にしてようやく授かった世継ぎであった[2]

父と同様に智勇に優れ、永禄4年(1561年)、14歳で家督を譲られ[3]て蘆名氏の勢力拡大に奔走した。しかし、この盛氏の隠居と家督相続には、働き盛りの盛氏がまだわずか15歳の盛興に家督を譲り隠居するなど考え難いと疑問を呈されている[4]。蘆名氏はこの時期内憂外患を抱え、また盛氏もこの後も蘆名家代表として精力的に活動していることから、「隠居」は「形式」だけの「口実」であったとも考えられる[5]。1566年(永禄9年)、父・盛氏が伊達輝宗に、輝宗の妹(伊達晴宗四女)を盛興の妻に迎え入れたいという起請文を提出している[6]。輝宗に受理され、盛興は輝宗の妹を妻として迎えた[7]。8年前の1558年(永禄元年)にもこの縁談は持ち上がっていたが、この時は結婚することはなかった。盛興が当時まだ12歳で若すぎた、などの理由があったと考えられる[8]

しかし盛興は跡継ぎに恵まれないまま天正2年(1574年[9]に病死した。「会津四家合考」「富田家年譜」によれば死因は酒毒とされている[10]。『会津旧事雑考』によれば、盛氏は1562年と1571年、2回に渡り領内における造酒を禁止している[11]。このことから、盛興は酒豪であり、また盛氏はその盛興の酒豪癖を懸念していたのではないかという推測がある[12]。ただし、一度目の造酒禁止をした1562年には、盛興はまだ16歳であったことからそこまで酒乱癖があったかについては疑問が呈されている[13]。ただし、死因を酒毒とした場合、『盛興の「病気」はかなり長期に渡っていた』とも推測される[14]。盛興の妻は伊達輝宗へ手紙を送っていたことがあるが、盛興が酒の毒の長年患っていた場合、彼女は盛興の代理として輝宗と手紙のやりとりをしていたと考えられる[15]

世継ぎには恵まれなかった盛興だが、正室との間には女子が一人生まれていた[16]。彼女は「れんみつ」と呼ばれていた[17]

盛興の死後、盛氏は二階堂家から蘆名盛隆を養子に迎え、蘆名氏の家督を継がせた。

脚注

  1. 林・46頁、113頁、七宮・214頁
  2. 林・46頁
  3. 七宮・199頁
  4. 林・78頁
  5. 林・78頁
  6. 林・90頁
  7. 林・90-91頁
  8. 林・91頁
  9. 「伊達輝宗日記」「塔寺八幡宮長帳」など。『大日本史料』10編22冊256頁。
  10. 林・113頁、七宮・214頁
  11. 七宮・214頁
  12. 七宮・214頁
  13. 林・113頁
  14. 林・113-114頁
  15. 林・113頁
  16. 林・114頁
  17. 林・114頁

参考文献

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