武田元明
武田 元明(たけだ もとあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。若狭武田氏の第9代(最後)当主。
生涯
永禄5年(1562年)、若狭武田氏の当主・武田義統(義元)の子として生まれる。父より「元」の1字を受けて元明と名乗る。
永禄年間に父・義統と争うが、永禄10年(1567年)に父が死去したため、家督を継いで当主となった。しかし、逸見昌経などの家臣の謀反により、かつて応仁の乱で副将を務めた若狭武田氏も元明が継いだころには衰弱しており、領地であった丹後国加佐郡も丹波守護代・内藤氏の侵攻を受ける事態となっていた。
永禄11年(1568年)、親族にあたる越前国の戦国大名・朝倉義景によって元明は身柄を拘束され、一乗谷朝倉館に強制移住されることとなった。朝倉氏は元明を傀儡として若狭国を間接支配したので、実質上若狭国は朝倉氏の支配下に入ったともいえる。武田氏の旧臣の多くは、表向き朝倉氏に臣従しながら武田家再興の機会を待ったが、それとは全く別に、早くに武田氏に謀反し独立していた逸見氏などは織田氏の勢力が近江国の湖西地域におよぶと逸早く織田信長に通じ、のちに若狭衆とよばれることとなる家臣団として織田氏に仕えた。
その後、織田信長の朝倉攻めに協力した武田氏の重臣の武藤氏・粟屋氏らにより元明は開放されたが、朝倉氏滅亡後、若狭国の支配は織田氏の重臣の丹羽長秀に任されることとなり、丹後国加佐郡の支配は長岡藤孝に任されることとなった。天正8年(1580年)に信長の命令で遠敷郡神宮寺の桜本坊に蟄居させられるが、大飯郡の高浜城8,000石の城主・逸見昌経が死去すると遺領のうち大飯郡佐分利の石山城3,000石(若狭武田氏の重臣武藤友益旧領)が与えられることとなった。3,000石の領主であったが、当初は若狭国の名目上の旗頭として信長に大いに利用され、次第に実権は丹羽長秀へと奪われていった。
天正10年(1582年)6月の本能寺の変の際、この期に若狭守護としての勢力の回復を計った元明は、若狭各地にいた旧臣を集め明智光秀と通じ丹羽長秀の本城・佐和山城を陥落させた。しかし山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗死すると、元明は丹羽長秀によって近江国海津に召還され、7月19日に海津の法雲寺で謀殺された(自害ともいわれる)。享年21。
子孫
武田元明の継嗣である義勝は、武田姓をはばかり津川姓を称し、親族である京極高次に仕えた。のちに京極高次が関ヶ原の戦いの功により若狭一国の主となると大飯郡高浜城5,000石を与えられ、また佐々木姓を称することが許され、京極家重臣に列した。江戸時代の丸亀藩家老の佐々家はこの末裔といわれている。
なお、木下勝俊と木下利房が、武田元明と正室・京極竜子との間に生まれた男子とする説があるが、元明の永禄5年(1562年)生誕説に従うと、勝俊や利房の父親の可能性もほとんど無いものと思われる。