有馬義貞
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有馬 義貞(ありま よしさだ、大永元年(1521年) - 天正4年12月27日(1577年1月15日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての肥前国の大名。有馬晴純の嫡男で、弟に大村純忠、千々石直員、松浦盛、志岐諸経がいる。子に義純、晴信、波多鎮、純実、純忠。義直(よしなお)とも名乗る。官位は修理大夫。日野江城主。
生涯
大永元年(1521年)、肥前国島原半島を治めた大名の有馬晴純の嫡男として誕生する。
天文21年(1552年)、父・晴純から肥前有馬氏の家督を譲られると同時に室町幕府の相伴衆ともなった。しかし、キリスト教に対する姿勢の違いから来る父との確執や、隣国の大友宗麟や龍造寺隆信の圧迫、父の時代には服従していた西郷氏の西郷純堯(義貞の義兄)などの台頭を受けて次第に勢力を失い、高来郡一郡を支配する小勢力にまで転落した。
一方で南蛮貿易で大きな利益を築き上げ、ドン・アンデレという洗礼名を持つキリシタン大名ともなった(入信は天正3年(1576年))。家臣団の中にも義貞の影響を受けてキリシタンになった者が多かったといわれている。ルイス・フロイスは「詩歌に造詣深く、書道に巧みで、為政者としては老練慎重かつ賢明である」と『フロイス日本史』に記している。
元亀元年(1570年)に嫡男の義純に家督を譲ったが、翌元亀2年(1571年)に義純が急死したため、次男の鎮純(晴信)を当主とした。
天正4年(1577年)、死去。