下市口駅
下市口駅(しもいちぐちえき)は、奈良県吉野郡大淀町下渕にある、近畿日本鉄道(近鉄)吉野線の駅。
駅名は吉野川(紀の川)を挟んだ下市町に由来する(詳しくは後述した#駅名由来を参照)。大淀町、下市町はもとより、その南に位置する黒滝村、天川村へのバスが発着し、公共交通機関における、黒滝・天川村への玄関口ともなっている。
駅構造
島式・単式の複合型2面3線の行違可能な地平駅。ホーム有効長は4両長。駅舎は南側(上り用の単式3番ホーム側)にあり、島式の下りホーム(1・2番ホーム)とは構内踏切で連絡している。便所は改札内および駅前に公衆便所がある。
自動改札機はなく、PiTaPa・ICOCAは専用の簡易改札機による対応である。
駅長が置かれ、吉野口駅 - 吉野駅間の各駅を管理している[1]。
のりば
1・2 | テンプレート:Color吉野線(下り) | 吉野方面 |
---|---|---|
3 | テンプレート:Color吉野線(上り) | 橿原神宮前・大阪阿部野橋方面 |
下り本線は2番線、上り本線は3番線である。待避線である1番線は滅多に使われていない。2010年3月19日ダイヤ変更より当駅始終着の定期列車が平日に1本あったが、2011年3月16日のダイヤ変更で廃止された。また、下市口駅 - 吉野駅間で保守点検による運休時には、当駅発着で運転される。この際、橿原方面から来た電車は1番線または2番線に入り降車を行ったあと一旦、橿原方面にバックで戻り、3番線に改めて入ってから乗車を行う。
利用状況
- 主として通学・通勤用に利用される。
- 下市口駅の利用状況の変遷は下表の通り。
- 輸送実績(乗車人員)の単位は人であり、年度での総計値を示す[2]。年度間の比較に適したデータである。
- 乗降人員調査結果は任意の1日における値(単位:人)である。調査日の天候・行事等の要因によって変動が大きいので年度間の比較には注意を要する。
- 表中、最高値を赤色で、最高値を記録した年度以降の最低値を青色で、最高値を記録した年度以前の最低値を緑色で表記している。
年 度 | 当駅分輸送実績(乗車人員):人/年度 | 乗降人員調査結果 人/日 |
特 記 事 項 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
通勤定期 | 通学定期 | 定期外 | 合 計 | 調査日 | 調査結果 | ||
1954年(昭和29年) | 493,140 | ←←←← | 486,543 | 979,983 | |||
1955年(昭和30年) | 515,640 | ←←←← | 497,604 | 1,013,244 | |||
1956年(昭和31年) | 561,180 | ←←←← | 488,755 | 1,049,935 | |||
1957年(昭和32年) | 611,700 | ←←←← | 526,134 | 1,137,834 | |||
1958年(昭和33年) | 641,340 | ←←←← | 550,938 | 1,192,278 | |||
1959年(昭和34年) | 666,330 | ←←←← | 528,851 | 1,195,181 | |||
1960年(昭和35年) | 761,760 | ←←←← | 557,212 | 1,318,972 | |||
1961年(昭和36年) | 789,600 | ←←←← | 575,088 | 1,364,688 | |||
1962年(昭和37年) | 879,000 | ←←←← | 609,343 | 1,488,343 | |||
1963年(昭和38年) | 924,120 | ←←←← | 570,414 | 1,494,534 | |||
1964年(昭和39年) | 1,022,940 | ←←←← | 596,903 | 1,619,843 | |||
1965年(昭和40年) | 954,030 | ←←←← | 553,176 | 1,507,206 | |||
1966年(昭和41年) | 1,160,730 | ←←←← | 519,078 | 1,679,808 | |||
1967年(昭和42年) | 1,119,840 | ←←←← | 510,141 | 1,629,981 | |||
1968年(昭和43年) | 1,096,830 | ←←←← | 454,995 | 1,551,825 | |||
1969年(昭和44年) | 1,061,850 | ←←←← | 465,325 | 1,527,175 | |||
1970年(昭和45年) | 1,029,390 | ←←←← | 451,836 | 1,481,226 | |||
1971年(昭和46年) | 972,690 | ←←←← | 433,202 | 1,405,892 | |||
1972年(昭和47年) | 960,090 | ←←←← | 435,039 | 1,395,129 | |||
1973年(昭和48年) | 963,540 | ←←←← | 475,692 | 1,439,232 | |||
1974年(昭和49年) | 1,014,840 | ←←←← | 499,279 | 1,514,119 | |||
1975年(昭和50年) | 999,360 | ←←←← | 506,878 | 1,508,238 | |||
1976年(昭和51年) | 977,940 | ←←←← | 490,281 | 1,468,221 | |||
1977年(昭和52年) | 932,880 | ←←←← | 494,503 | 1,427,383 | |||
1978年(昭和53年) | 967,590 | ←←←← | 492,646 | 1,460,236 | |||
1979年(昭和54年) | 982,500 | ←←←← | 488,712 | 1,471,212 | |||
1980年(昭和55年) | 976,170 | ←←←← | 485,290 | 1,461,460 | |||
1981年(昭和56年) | 963,360 | ←←←← | 466,732 | 1,430,092 | |||
1982年(昭和57年) | 921,990 | ←←←← | 450,531 | 1,372,521 | 11月16日 | 6,568 | |
1983年(昭和58年) | 919,800 | ←←←← | 458,248 | 1,378,048 | 11月8日 | 6,586 | |
1984年(昭和59年) | 900,900 | ←←←← | 427,514 | 1,328,414 | 11月6日 | 6,864 | |
1985年(昭和60年) | 893,730 | ←←←← | 410,603 | 1,304,333 | 11月12日 | 6,295 | |
1986年(昭和61年) | 890,100 | ←←←← | 407,408 | 1,297,508 | 11月11日 | 6,035 | |
1987年(昭和62年) | 900,480 | ←←←← | 387,154 | 1,287,634 | 11月10日 | 5,884 | |
1988年(昭和63年) | 871,230 | ←←←← | 372,720 | 1,243,950 | 11月8日 | 5,619 | |
1989年(平成元年) | 859,500 | ←←←← | 384,815 | 1,244,315 | 11月14日 | 6,005 | |
1990年(平成2年) | 847,590 | ←←←← | 379,661 | 1,227,251 | 11月6日 | 6,050 | |
1991年(平成3年) | 852,990 | ←←←← | 383,129 | 1,236,119 | |||
1992年(平成4年) | 818,820 | ←←←← | 368,542 | 1,187,362 | 11月10日 | 5,524 | |
1993年(平成5年) | 809,370 | ←←←← | 365,121 | 1,174,491 | |||
1994年(平成6年) | 807,810 | ←←←← | 356,765 | 1,164,575 | |||
1995年(平成7年) | 777,510 | ←←←← | 339,060 | 1,116,570 | 12月5日 | 4,897 | |
1996年(平成8年) | 733,680 | ←←←← | 325,437 | 1,059,117 | |||
1997年(平成9年) | 694,050 | ←←←← | 304,180 | 998,230 | |||
1998年(平成10年) | 701,760 | ←←←← | 288,538 | 990,298 | |||
1999年(平成11年) | 677,670 | ←←←← | 280,511 | 958,181 | |||
2000年(平成12年) | 677,310 | ←←←← | 266,689 | 943,999 | |||
2001年(平成13年) | 645,540 | ←←←← | 259,936 | 905,476 | |||
2002年(平成14年) | 627,600 | ←←←← | 242,941 | 870,541 | |||
2003年(平成15年) | 612,180 | ←←←← | 229,268 | 841,448 | |||
2004年(平成16年) | 608,760 | ←←←← | 209,369 | 818,129 | |||
2005年(平成17年) | 598,500 | ←←←← | 199,079 | 797,579 | 11月8日 | 3,989 | |
2006年(平成18年) | 587,010 | ←←←← | 182,316 | 769,326 | |||
2007年(平成19年) | 582,450 | ←←←← | 176,923 | 759,373 | |||
2008年(平成20年) | 561,090 | ←←←← | 173,064 | 734,154 | 11月18日 | 3,493 | |
2009年(平成21年) | 535,110 | ←←←← | 159,730 | 694,840 | |||
2010年(平成22年) | 518,280 | ←←←← | 155,037 | 673,317 | 11月9日 | 3,203 | |
2011年(平成23年) | 521,730 | ←←←← | 148,273 | 670,003 | |||
2012年(平成24年) | ←←←← | 11月13日 | 3,177 |
駅周辺
駅前
周辺
- 厚生労働省大淀労働基準監督署
- 農林水産省近畿農政局南近畿土地改良調査事務所
- 奈良家庭裁判所吉野出張所
- 吉野簡易裁判所
- 奈良県立大淀高等学校
- 奈良県警察吉野警察署
- 町立大淀病院
- 大淀町文化会館(あらかしホール・町立図書館)
- 大淀町役場
- 大淀町中央公民館
- 大淀町平畑運動公園
- 南都銀行大淀支店
- エルトピア南和(南和労働会館)
- 近畿労働金庫吉野出張所
バス
最寄停留所は、駅前および駅前を通る道路を挟んだ反対側にある下市口駅となる。以下の路線が乗り入れ奈良交通により運行されている。
- 駅前乗り場
- [急行]:洞川温泉行
- [2]:洞川温泉行
- [7]:中庵住行
- [4]:笠木行
- 東側乗り場
- このほかに大淀町ふれあいバスが大淀町役場や大淀町西部に向けて運行されている。
歴史
- 1912年(大正元年)10月25日 - 吉野軽便鉄道吉野口 - 吉野(現・六田)間開通時に開業。
- 1913年(大正2年)5月31日 - 社名変更により吉野鉄道の駅となる。
- 1929年(昭和4年)8月1日 - 大阪電気軌道が吉野鉄道を合併。大阪電気軌道吉野線の駅となる。
- 1941年(昭和16年)3月15日 - 大阪電気軌道と参宮急行電鉄の合併により、新発足した関西急行鉄道の駅となる。
- 1944年(昭和19年)6月1日 - 戦時統合により関西急行鉄道が南海鉄道(現在の南海電気鉄道の前身。後に再独立)と合併。近畿日本鉄道吉野線の駅となる。
- 2003年(平成15年)3月6日 - 当駅始終着の定期列車が一旦消滅。
- 2007年(平成19年)4月1日 - PiTaPa使用開始。
- 2010年(平成22年)3月19日 - 当駅始終着列車が復活。
駅名由来
駅名は吉野川(紀の川)をはさんで南の対岸に位置する下市町に由来する。下市は古くから奥吉野への入口として商業が発達しており、吉野における商業の中心地でもあった。現在、当駅と下市町とを結ぶ千石橋は、江戸時代から木造の橋が架けられ、一日千石ともいわれる物資が行き交っていた(千石橋の由来)。明治時代には堅牢なトラス鉄橋が架けられていた。一方で、当駅のある大淀町は当時は村で、鉄道が通るまで農業が主体であった。駅が開設されると当駅から千石橋にかけて、今の下渕商店街が形成され大いに賑わい、下市をも凌ぐようになった。その後、林業の衰退などで下市町の人口が減少の一途を辿ったのに対して、大淀町内では住宅開発が行われ人口が増加し、今日では大淀町の方が規模が大きくなっている。一方で、下渕商店街は、自動車の普及と、また大型店舗が大淀町内でも駅より離れた場所に作られるなどして衰退している。なお、今のところ駅名変更の運動などはない。
隣の駅
- 近畿日本鉄道
- 吉野線
脚注
- ↑ 『HAND BOOK 2010』、近畿日本鉄道総合企画部編、2010年9月
- ↑ 奈良県統計年鑑
- ↑ 近畿日本鉄道 駅別乗降人員
- ↑ 近畿日本鉄道 駅別乗降人員