タクシン・チナワット
テンプレート:政治家 タクシン・チナワット(テンプレート:Lang-th, テンプレート:Pronounced, テンプレート:Lang-en, 1949年7月26日 - ,本名:邱 達新)は、タイ王国華裔客家人、タイ王国出身の実業家、政治家。拓殖大学客員教授。イングランド・プレミアリーグのマンチェスター・シティFC元会長である。
首相(第31代)、下院議員を務めた。元警察官僚である。タイ北部のチエンマイの出身、チナワット家の出である。第36代首相のインラック・シナワトラは妹。
「タクシン」の綴りは (ทักษิณ) であり、トンブリー王朝の「タークシン (ตากสิน)」と異なる。あだ名はメーオ(モン族の意)。
目次
来歴
警察官時代
タクシンはタイ王国警察士官学校第26期を首席で卒業し、1973年内務省警察局(現在の首相府警察局)に警察少尉として任官する。当初は国境警備隊に所属していたが、半年後局内でアメリカ留学の機会を得て渡米。イースタン・ケンタッキー大学で刑事司法修士をわずか4ヶ月で終え帰国。1976年に警察中将の娘ポチャマーン・ダーマーポン(พจมาน ดามาพงศ์, Potjaman Damapong)と結婚し、同年再び渡米。1978年(タイ仏歴2521年)、サム・ヒューストン州立大学で刑事司法博士(doctor of criminal justice)を取得して首都警察参謀局政策企画副局代理顧問の地位に就いた。
警察官僚としての彼の最終的な階級は警察中佐(พ.ต.ท.)で、軍人や警察官は退役・退官しても終生その階級を名前に冠するタイの慣習に基づき、 首相在任時も現在もタイでの呼び名は「タクシン・チナワット警察中佐」である。タイの公務員、とくに警察官は非常に給料が低く、そのため彼は以前から副業を持っていたが、こういった例はそれほど珍しいものではない。
企業家時代
副業としてまずシルク販売を行った。この他、移動映画などの事業を行い、巨額の富を稼ぎ出した。しかし、この次は不動産会社を設立し、コンドミニアム販売に失敗。彼の企業は一挙に5000万バーツ(日本円で約1億5000万円)の負債を抱え込んだ。
事態打開のために今度は警察向けにコンピュータを貸し出すサービスを開始するが、バーツ切り下げによって、さらなる赤字を生み出し2億バーツ(日本円で6億円)とも言われる赤字を生み出した。その後タクシンは数々の企業に手を出すがどれも大した業績を上げることがなかった。
1986年4月24日(タイ仏歴2529年)、タクシンは携帯電話サービスの営業権を政府から獲得してAISという携帯電話会社を立ち上げた。この企業は成功を収め、タイでの携帯電話の普及に伴って黒字を拡大し、タイを代表するコミュニケーション会社となった。今ではチナワット家はタイ国一の富豪と言われる。この後、1987年(タイ仏歴2530年)、警察を辞職し、シナワトラ・コンピューター・アンド・コミュニケーションズ社(注:英語直訳、現シン・コーポレーション社)を設立し、警察時代のコネクションを生かして警察機関にコンピュータの貸し出しを行った。
政治家時代
タクシンは1994年(タイ仏歴2537年)パランタム党に入党し、政治活動を始めた。その後外務大臣に任命されるが、タイの憲法では大企業の株主は大臣になれないため辞職した。そのため、株の名義を妻や、自分の運転手名義に書き換え(後に所得隠しとの批判を受ける)、関連会社の名前に「チナワット」とあるのをすべて「シン」と書き変えた。しかし、パランタム党はこの後1997年(タイ仏歴2541年)内部崩壊したため、翌年タクシンは、タイ愛国党を創設し、2001年(タイ仏歴2544年)政権に就いた。
政治家時代は自己の出身地であるタイ北部の利権を拡大する政策をおこなっていたため、タイ中部及び南部貧困層の激しい反発を受け、後のクーデターにつながることになる。
辞任要求デモと退陣
2006年1月、タクシン一族はシン・コーポレーションをシンガポールの会社に733億バーツで売却した。この売却益に対する課税が節税工作により2500万バーツにすぎなかったため批判を浴びた。タクシンは国民の信を問うために2月24日に下院を解散した。3月になりバンコクで退陣を求めるデモが活発化した。4月2日に総選挙が行われたが野党はボイコットし、白票が相次いだ。与党が勝利したものの、400選挙区中39選挙区で有効票が規定に達しなかったため再選挙が決定した。
日本時間2006年4月4日午後11時に国王に退陣を表明、次期首相が決まるまで休養に入った。当面の間、首相の職務はチッチャイ・ワンナサティット副首相が代行することとなった。しかし、実際には暫定首相としてタクシン首相が職務を行い国民からの反発を招き、2006年9月19日のクーデターに繋がった。
これ以降、タイではクーデターやデモ、暴動が相次ぎ、今日まで政治混乱が続くことになる。
事実上の亡命生活
2006年9月20日、滞在していたニューヨークからロンドンに移動したが、事実上の亡命とみられる。その後、2008年11月8日に英国政府がビザの停止を発表。NHKが2009年3月にドキュメンタリー「沸騰都市」で行った電話インタビューでは「所在を転々としている」と明かしていた。
2008年10月に自身の妻の土地取引に関する裁判が行われ、欠席裁判のまま有罪判決を受けている。ともに有罪判決を受けた妻とは同年11月に離婚している。元妻は2011年8月24日に無罪の判決を受けている。
帰国すれば収監されることになるので、現在もタイに戻れない状態が続いている。それでもタイに対して未練があるようで、2011年4月23日にタイ貢献党(新党プアタイ)が開催した党大会にテレビ電話で参加し、声を震わせながら「タイに帰りたい」と語っている。
2009年11月4日、カンボジアのフン・セン首相の経済顧問に就した。フン・センはもともと親タクシン派で、当時のアピシット民主党政権を挑発していたが、これもその一環と思われた。しかしタクシンが実際にカンボジアに滞在することはなく、「職務を遂行することが難しい」という理由で、翌年8月24日に辞任した。
2010年4月の報道では、南東欧モンテネグロの国籍を取得し、同国に滞在中と報じられている。また、その後の報道では中米ニカラグアやアフリカ東部ウガンダの国籍を取得したとも報じられている。2009年にタイ政府発行の一般旅券・外交旅券(パスポート)を剥奪されたので、3か国の旅券を使用しているとみられている。現在はドバイを中心に活動し、モンテネグロ・ニカラグア・ウガンダの旅券を使用して各国を移動しているとみられている。
2011年3月の報道では、反独裁民主戦線(UDD)が19日に行った反政府デモの最中に国際電話で「ヨーロッパの寒い国にいる」と話したと報じられている。その後も反独裁民主戦線(UDD)の反政府デモや抗議集会にテレビ電話やビデオメッセージなどで参加している。
2011年7月3日、母国タイで下院総選挙が行われ、自身の妹であるインラック・シナワトラが率いるタイ貢献党が過半数の議席を獲得した。これにより、インラックが首相となることが確実となった。インラックは兄の処遇という問題を抱えることになったが、これに関しては現在も明言を避けている。
2011年7月4日、NHKのニュース番組「ワールドWave」の中で、アラブ首長国連邦のドバイでインタビューを受けている様子が放送され、総選挙を控えたタイへの思いを語っている。
2011年8月15日、日本の枝野幸男官房長官(当時)は記者会見でタクシンに対して入国査証(ビザ)を発給したことを明らかにした。日本の出入国管理法では前科のある人間の入国を認めておらず、タクシンもその対象とされていたが、タイ政府と良好な関係を築きたい日本政府の配慮から、特例措置として入国が認められることになった。この訪日に対して、タイ国内の反タクシン派市民団体が日本大使館に対して抗議活動を行った。
2011年8月22日に予定通り日本に入国し、滞在中の2011年8月23日、東京都内のホテルで会見を行った。その中で、妹の政権運営に関与しない方針を明らかにしている。また、有罪判決を受けた先の裁判に関しては政治的な目的があったと主張している。また、自らの帰国問題に関しては国民の対立の火種になることを懸念し、帰国する考えがないことを明らかにしている。
その後、同月28日まで日本に滞在し、東日本大震災からの復興支援のため、東北地方の被災地訪問や村井嘉浩宮城県知事との対談などを行った。なお、この日本訪問に際してモンテネグロの旅券を使用したことをNHKのインタビューで明かしている。
2011年9月16日、カンボジアに入国した。カンボジアでは旧知の仲であるフン・セン首相(当時)と親交を深めた。同月には妹のインラックやタイ貢献党の下院議員、反独裁民主戦線(UDD)のメンバーも相次いでカンボジアを訪れている。両国間では世界遺産に登録されたプレアヴィヒア寺院をめぐって国境紛争が続いていたが、これらの動きによって紛争が解決する可能性が出てきた。
2011年9月21日、国際連合総会出席のためニューヨークに滞在中のユラポン外務大臣(当時)は一般旅券を再発給する考えを明らかにした。 2011年10月26日、タイ外務省はアラブ首長国連邦のアブダビで一般旅券を再発給した。
現在も各国を転々とし、事実上の亡命生活を続けている。タイには戻れない状況が続き、参政権も剥奪されているにもかかわらず、反独裁民主戦線(UDD)やインラックに対する関与報道が現在も絶えない。
2014年のタイ軍事クーデターについては、Twitterで「かなしい」と投稿している。2014年5月22日から数日間、私的に日本の東京都を訪れていることが報じられた[1]。クーデター中でも、タクシン元首相を支持する派閥がデモを繰り広げている[2]。特にタクシンの貧困対策に取り組んだことで、タクシンの強固な支持者がいるウドーンターニー県を始めとするイーサーン地域では、軍に対して武器使用も辞さないとする強硬派も居る[3]。
政策
主な政策
タクシンの政策は以下のように極めて特徴的で、自分の出身地タイ北部重視の政治を見せる一方で、経済政策は大胆である。
- 風俗店の取り締まりや、ナイト・スポットの深夜営業禁止政策
- 麻薬取り締まり強化
- 健康保険制度の整備や30バーツ医療
- 一村一製品運動
- 公的資金を大量に投入する経済政策タクシノミックス(Thaksinomics)
- 地方における建設やインフラストラクチャー(携帯電話などの情報通信を含む)を中心とした公共事業
- アメリカに対しては友好的な態度をとるが、アメリカの内政干渉的な言動に対しては断固抗議
このような政策は、全体的に特に華僑を中心に評価されている。タクシンの人気が高いのは、タイ北部の有力者や華僑の有力者を掌握しているためではある。タイ経済については現在混乱している。しかし、タイ南部の貧困層はさらにまずしくなっており、彼の掲げた政策が実際は、取り締まりは南部でのみ、公的資金投入は北部のみなどと、特定地域でのみ行われていることに南部では反発が多い。
外交では「全方位外交」を装いつつ、自身が華僑であることから中華人民共和国を重視していた。愛国党は北京に支部が開設できた。また、タクシン政権の閣僚や愛国党幹部には副首相やエネルギー大臣などを務めたプロミン・ルートスリデート、情報通信技術省大臣を務めたスラポン・スープウォンディー、側近で運輸省副大臣も務めたプームタム・ウェーチャヤチャイ、農業省副大臣を務めたプラパット・パンヤーチャートラック(通称、アイ・カーンヤーオ)などといった元タイ国共産党員が多く、反共色が濃かった歴代政権とは一線を画した。
タクシンは政治の基盤固めも着実で、反対勢力となりうる軍や警察の最高ポストに親族を配置し、強引にマスコミを統制している。このような手法はタクシンがシンガポールの華人リー・クワンユーのような親族を周辺に配置した開発独裁政治をまねしたからだと言われている。
以下に問題点を挙げる。
麻薬一掃作戦
タクシンは2003年(タイ仏暦2546年)に麻薬一掃作戦として、軍隊・警察を導入し、政府が作成したブラックリストを元に、リストアップされた人物を強制逮捕・処刑した。しかし、そのブラックリストには無罪の人物も含まれており、政府もこれを認めている。中には無罪証明をもらっているにもかかわらず狙撃され、一家は事実上社会的に追放されたというケースもあった。
しかしこれに対してなされた対策はほぼ皆無である。この作戦で死んだ人は公式発表では、民間人2,500人以上、軍あるいは警察の殉職者は25人。逮捕者は9万人に上った。この政策ではタイから輸出される麻薬に頭を悩ませていたアメリカ政府の支持を大いに得たが、逆にその他の国々からの評価は人権的観点から下がった。一部マスメディアでは「アメリカの歓心を買う人権侵害」や「タクシンおよびブラックリスト作成者の反対勢力一掃作戦」と批判された。ちなみに、逮捕者のうち、大物人物が相次いで無罪釈放されている。
不正献金・所得隠し疑惑
タクシンは彼の会社から不正献金を受け取ったとされる話があり、すでに最高裁判所で無罪判決が出ているが、今でも外国のメディアでは騒がれている。また、パランタム党時代に憲法違反を指摘され外相を退いたとき、政界復帰するため株の名義を妻のポッチャマーンなどに名義変更したが、閣僚資産報告書や、証券取引所には届け出がなく、NNNC(汚職防止委員会)から訴えられるが、「所得隠しが意図的かどうかが不明」として憲法裁判所では退けられた。この後、ポッチャマーンは証券取引所から「名義変更届けをださなかった」とのかどで630万バーツ(日本円で約1890万円)を罰金として支払った。
南北対立問題
タクシン政権樹立後、今まで息をひそめていた深南部三県の反政府活動が活発化した。タクシンはそれまで、開発を行って深南部三県へタイへの同化を迫り、また、アルカーイダやジェマ・イスラミアのメンバーを拘束したり、と強権的な政策により、アメリカの支持を得た一方で地元マレー系住民(ムスリム)からの反発も大きい。2004年(タイ仏暦2547年)4月には警察との武力対立も発生し、100人以上の「武装勢力」が死んだ。
しかし、タクシンの娘の裏入学疑惑が取りざたされた時、タクシンが「娘が泣いていた。彼女は何も知らない。娘を傷つけないでくれ」と語り報道陣に涙を見せた数日後の出来事だっただけに、大半の国内マスメディアが批判した。
マスコミ統制
また、強力なマスコミ統制も内外の批判を浴びた。反政府系新聞ネーション・マルチメディア・グループの社長の自宅が家宅捜索され、タクシンと王室の関係をスキャンダラスに書いた香港の新聞社と記者をタイ国から永久追放した。唯一非政府系のチャンネルと言われていたiTVもタクシンのシン・コーポレーション・グループの子会社とするなどした。これらにより国際的なマスコミ格付け機関から、「報道の自由な国」から「報道の不自由な国」に格を下げられた。
非常事態宣言(2005年7月)
2005年7月19日、タイ政府は、反政府活動が続いたタイ南部のナラティワート、ヤラ、パッターニ3県全域とソンクラー県の4地区に対し、タクシンが非常事態を宣言することを承認。同日、非常事態宣言を発令した。
これを受け、タクシンは「逮捕状なしの身柄拘束や出頭命令」、「武器の取引制限や没収」、「混乱につながる集会の禁止や電話などの通信傍受」、「治安に影響を与える報道の禁止」、「問題がある外国人の国外退去命令」などを治安当局に命じる非常大権を手にし、強硬姿勢で治安対策に当たることが可能となった。ただし、これらの措置が基本的人権の制約を伴うため、マスメディアやジャーナリスト協会、人権団体から批判が続出した。
非常事態宣言(2006年9月)
2006年9月19日午後10時(タイ時刻)、国連総会出席のためアメリカのニューヨークに滞在中に非常事態宣言を出した。ソンティを筆頭とする陸軍に、クーデターの動きがあったことを察知したと見られている。この非常事態宣言の直後、軍事クーデターが起こった。
ソンティ司令官側のスポークスマンは、タクシンによる非常事態宣言は無効にし、戒厳令、憲法を無効にすること等の布告・声明を発表し、後に2006年9月20日夕刻に、プミポン国王がソンティ司令官の行政改革団の暫定首班就任を承認したことにより、タクシン政権の崩壊と非常事態宣言の無効が確定した。
「タイ航空機炎上事件」
2001年3月3日[4]に、タイ王国のバンコクのドンムアン国際空港に駐機していたタイ国際航空のボーイング737-400型機が出発前に突如炎上し、出発の準備をしていた客室乗務員ら8人が死傷した。当初は機材の故障による事故と考えられていたが、タクシン首相が搭乗予定であったこともありテロの可能性も疑われていた。しかし、最終的には原因は特定されていない。
脚注
関連項目
外部リンク
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|style="width:30%"|先代:
チュワン・リークパイ
|style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon タイ王国首相
第31代:2001年 - 2006年
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ソンティ・ブンヤラットカリン
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