東洋バス
テンプレート:Infobox 東洋バス株式会社(とうようバス)は、千葉県八千代市を中心に路線を展開する日本のバス会社。大手系列に属さない独立系の中堅事業者であり、京急グループの東洋観光(神奈川県)や、当社と読みが同じ東陽バス(沖縄県)とは無関係。
概説
本社は幕張駅近くにある。近年の規制緩和の影響もあって、比較的輸送密度の低い幕張周辺の路線を、新しく設立した子会社千葉シーサイドバスに委譲して経営の改善を図っている。なお、現時点ではPASMOへの加入予定は無い。
沿革
創立時(1948年〜)
東洋バスの設立は1948年である。設立された理由は2つあり、1つは岩戸地区の交通の利便性の向上である。当時(1945年頃)岩戸周辺には北の木下方面にバスが運行されていたが、南側に至る手段が無かった。岩戸の南側には京成の臼井駅があるが、その間に印旛沼がまたがっており、しかもこれを渡る道路橋(今の船戸大橋)も存在していなかったからである。このため、岩戸から臼井側に至るには徒歩で渡し船。このため、岩戸〜臼井間は実に4時間を費やしていた。これではたまらないということで印旛沼を避けて、西側の八千代(大和田)に抜けるバスを運行しようということになったわけである。
もう1つは長作地区の交通の利便性の向上である。長作地区は近くに京成実籾駅があったのだが、南側にバス路線を作れば省線(のち国電総武線)幕張駅に直結し、東京にも千葉市中心部にも容易に行けるようになるだろうということである。
これらを背景に、1948年に大和田〜岩戸間を開通したわけである。ルートは不明であるが、おそらく大和田駅〜下市場〜宮内〜米本(現・阿蘇小学校)〜神野(神野十字路のやや西)〜保品〜吉田〜岩戸と思われる。現在は下宿〜保品間を短絡的に結んでいるが、開通当時はこの道路がなく、逆水および神野を経由していた。
幕張側の路線も詳しいことは不明だが、おそらくほとんど間をおかずに大和田〜幕張で開通したのだろう。この当時は八千代台駅がなく(同駅の開業年は1956年)、実籾駅も非経由だったため長作側から高津入口までほぼ直進していたようである。
この頃の状況を示す資料は少ないが、インターネット上ではTHE 印旛村の印旛村と近在の、歴史の断片の吉田河岸と捷範橋(しょうはんばし)に、当初は大和田〜吉田で開業し、その後岩戸に延長されたことが記されている。ただし、他のどの資料を見ても岩戸まで開通したのが1948年となっているから、吉田で折り返していたのは初期のごくわずかな期間と考えられる。
八千代町の団地の通勤手段(1954年頃〜)
1954年1月、千葉郡大和田町と睦村が合併し八千代町となった。「八千代」の名前は、その時公募によって付けられた(瑞祥地名)。同年9月に印旛郡阿蘇村と合併し、現在の市にほぼ近い形となった。八千代町の市制施行日は1967年1月1日である。
この間に同市(町)は、1956年に八千代台駅が開業し、翌年には八千代台団地が完成(八千代台駅西側)した。これをきっかけに、八千代市の人口は急増し、その後の東洋バスの路線拡張の大きなきっかけとなった。当初は大和田駅(大和田営業所)を起点としていた東洋バスであったが、八千代台駅の開業によって一部の路線が同駅発着に変わる。
1962年には八千代工業団地が完成した。これに伴い、東洋バスは大和田駅および八千代台駅から工業団地に至る路線を開通させた。一部の便はさらに先の城橋、内宿、米本(現・阿蘇小学校)を通り、下高野まで至っていたようである(京成も津田沼発でここを通る路線を開通したようであるが、これを示す公開資料は今のところ見つかっていない)。
その後、1965年前後のようだが、東洋バスは八千代市内(町内)循環線を開通した。ルートは八千代台駅〜高津観音〜市役所入口〜大和田駅〜グランド前〜八千代台駅というものである。この循環線は後に大和田駅で分割運行される。
この他主要な路線の開通としては米本団地線と高津団地線の開通がある。米本団地は1970年、高津団地線は1971年にそれぞれ入居が始まり、この足として開通したものである。米本団地線については、のち八千代市北端の小池まで延長される。
以上の経緯により、東洋バスは現在の路線エリアの原型を形作っていった。
白井線の開通(1974年頃〜)
ここまでの路線は大和田〜岩戸、大和田〜幕張という2つの路線を母体にし、主に今の八千代市街を中心に発展してきた。しかし、昭和40年代末より路線が他の地域に拡がるようになってきた。それがこれから述べる白井線である。
白井線は1974年頃に開通したようである。正確な記録は見つかっていないが、「広報やちよ」および「印西町資料集(印西市立図書館にあり)」によれば同路線は1974年以降から大和田駅〜白井で運行されているという記録が残っている。それ以前については運行の記録がないため、おそらく1974年頃より運行されたということである。八千代市発行の広報やちよによれば、1969年11月下旬〜1970年10月下旬まで神尾橋が架け替えのために通行止めであった。ここが通行止めであれば、この路線は運行できないので、少なくとも1970年11月以前には運行していなかったと判断していいだろう。この路線の開通により、神尾橋より先、当時の印西町(現在は印西市)の船尾、武西地区および白井町(同、白井市)の谷田、神々廻、白井地区に至るようになった。
ところで、これらの地区は当時の京成電鉄(のち、この地域に関してはちばレインボーバスに移管)が既に路線を走らせていた。武西地区においても、京成電鉄が昭和40年代以前より神崎線の支線として船橋駅〜神崎〜武西という路線および草深線として木下駅〜天王前〜開拓事務所前(現・原青年館、と書いたが現存するのか不明)を運行していた。「草深三百年史(現在、同書は「千葉ニュータウン前史」になっている。)」によると、1970年に草深線が改変され、武西〜神崎〜船穂(船尾)車庫〜天王前〜開拓事務所前という路線になった。その後、1973年に開拓事務所は解散しているので、この路線はその時点で存在意義を失い、廃止になったらしい。
以上より、1973年または1974年頃に東洋バスが京成バスの廃止区間(神崎(=町田)〜武西)を引き継ぐ形で大和田駅〜白井を開通したようである。印西町資料集によれば、その当時は大和田駅〜白井便が2往復で、大和田〜船尾(=船尾小学校)便が3往復とのことである。なお、1979年には船尾便の全便が武西まで延長されている。なお、東洋バスはこの付近に武西という停留所と武西十字路という停留所(武西の一つ西)を設けていたが、京成の武西停留所がどこなのか等、詳しいことは不明である。
また、白井線の開通ののち、佐倉市への乗り入れも行われた。大和田駅〜下市場〜上志津入口〜志津駅線がそれである。これも詳しい時期こそ不明であるが、京成の志津線が上志津入口(国道296線上、志津駅付近より200mほど西)〜勝田台駅間を区間廃止し、それを受けて開通したと思われる。すなわち、京成の志津線が大和田駅〜国鉄佐倉駅間を走っていたものを勝田台駅までに短縮し、その後さらに上志津入口までに短縮した際に勝田台駅(栄町)〜上志津入口間の路線が無くなってしまうため、これを東洋バスが引き継いだようである。
小室への延伸、新山営業所の開設(1980年頃〜)
その後、東洋バスは北総開発鉄道線への乗り入れも開始した。すなわち、勝田台駅と国道16号線八千代市の北端である小池との間を運行していた米本団地線を、1982年4月8日に小室駅に延伸することとなったのである。米本団地〜小池間の延伸時期は不明であるが、1980年当時の千葉県バス協会によるバス路線図では小池までとなっているので、それ以前であることは間違いない。
また、小室駅への延伸と同時に、八千代台駅〜米本団地線を村上橋を渡るルートに変更している。これは、前年の1981年に同橋が架け替えられたことによるものである。さらに、1983年3月15日には、同じく村上橋を渡るルートで八千代台駅〜村上団地線を開通した。
また、時期が不明(米本団地線が小室駅まで至る前の話)であるが、下高野まで運行していた八千代工業団地線を工団第三までに短縮したようである。短縮前から多くの便が工団第三止まりであったと考えられるが、詳しいことは不明である。その後、1983年に農業会館が営業を始めたのを受け、同年5月2日に工団第三〜農業会館間を延長している。
以上のように、路線エリアが北へと拡大し、大和田を通らない路線が徐々に増え始めたことから、このころ国道16号沿いに新山営業所を新設している。これを受け、1984年4月13日に八千代台駅、および岩戸から新山車庫に至る系統ができた。
それでも、この時代の東洋バスはかなりの路線が大和田営業所発着であった。この頃はまだ上高野工業団地を経由する路線がなく、岩戸線も学校下・宮内経由であった。ただし、神野付近は下宿〜保品間をショートカットするようになった。このために、旧ルートを通る神野十字路折返線が新設された。同線は、八千代台→グランド→大和田→下市場→辺田前→宮内→米本→下宿→逆水→神野(神野十字路停留所の200mほど西)→神野十字路を経由してそこから広い道路を通って戻るというものであった。
東洋バスの高津団地停留所付近の営業所には、当時のバス路線図が現在(2011年4月1日現在)も残っている。その路線図を基に、この時代の路線をまとめると以下のようになる。
</table> 岩戸線の短縮その後、1984年に新川大橋が開通し、1987年にはゆりのき台団地への入居が始まり、萱田地区が新しい住宅地として生まれ変わってきた。これを受け、東洋バスも新川大橋を通る路線が新設されていった。具体的には、幕張〜八千代台線の勝田台への延長(八千代中学校、市民会館経由)、勝田台駅〜市民会館〜ゆりのき台(現・八千代中央駅)〜農業会館〜睦台運動広場(睦小学校と睦中学校の中間付近)線の開通が挙げられる。同時に、京成萱田線(当時は草野車庫〜八千代西高校)のゆりのき台経由便の新設も行われた。 一方で、大和田駅〜国道296線〜下市場〜勝田台駅間については、鉄道への平行度が高いからということからか、減便されることとなり、岩戸線は勝田台駅北口発着となり、上高野工業団地(1968年〜)内を通過するように路線を改められた。これと同時に上高野工業団地、上高野、大師前を循環する上高野循環線が新設された(一部は循環せずに村上車庫を発着)。 この時点では、まだ大和田営業所が存在し、白井、志津、農業会館、八千代台の4方面にバスが至っていた。八千代台行きはグランド経由と高津入口経由の2経路があった。以上のうち、白井、志津、農業会館行については、営業所近傍のポールから発着し、グランド前を経由するバスについては踏切の西側(今の大和田駅入口停留所とほぼ同じ)を発着していた。 これらにより、東洋バスのほとんどの路線は八千代台駅または勝田台駅から利用することができるようになり、大和田駅での鉄道との乗り継ぎの意義はかなり薄くなってきた。 ゆりのき台営業所の新設その後、大和田営業所を萱田側に移転することとなり、1989年にゆりのき台営業所が開設された。移転により車庫面積は拡張され、回送状況の向上になった。これに伴い下表に示す路線改変が実施され、大和田営業所は閉鎖となった。ただし、この時点では大和田駅〜農業会館線や八千代台駅〜グランド前〜大和田駅線が存続していたため、敷地は折返場として残された。 表 ゆりのき台営業所開設に伴う路線の改変
この結果、路線は下表の通りとなった。 表 ゆりのき台営業所開設直後の全路線
東葉高速鉄道の開通1996年4月27日には東葉高速鉄道が開通した。これにより、八千代市には八千代緑が丘、八千代中央、村上、東葉勝田台駅の4駅が開業した。これを受け、東洋バスは京成の各駅に加え、同4駅に接続するよう、下表のように路線を改めた。この変更により、大和田駅を通るバスは大幅に削減され、その後の数度の路線改変を経て、現在はなくなってしまった。大和田駅付近に関しては、八千代市公共施設循環バス(ぐるっと号)がその役目を担っている。
表 東葉高速鉄道開通時の全路線
|