孫亮

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テンプレート:基礎情報 中国君主 孫 亮(そん りょう)は、三国時代の第2代皇帝。廃立後は会稽王・候官侯。初代皇帝孫権(大帝)の子(第7男)。第3代皇帝孫休の異母弟。生母は潘氏。皇后全尚の娘。『三国志』「三嗣主伝」に伝がある。

生涯

幼帝として即位

赤烏4年(241年)に長兄の皇太子孫登が死去すると、赤烏5年(242年)に三兄の孫和が皇太子となった(『三国志』呉志「呉主伝」)。

孫権の娘である孫魯班は、孫和の生母である王氏と不仲であったため、孫和の廃立を目論み、孫権に王氏と孫和のことを讒言する一方で、四兄の孫覇を後継者にするよう運動した。こうして呉の群臣らが孫和派と孫覇派に分かれて闘争する二宮事件が勃発した。

赤烏6年(243年)、孫亮はこうした混乱の中で生を受けた。孫権の孫亮に対する寵愛は非常に強く、孫魯班はこの孫権の心の変化を察知し、保身のために夫の縁戚である全尚の娘を孫亮と親しくさせ、将来の妻の座に据えようと図ったという。

赤烏13年(250年)、後継者争いの混乱を収拾するため、孫権は孫和を廃立した。その代わりの皇太子として孫亮が擁立され、全尚の娘が妃となった。

太元元年(251年)夏、生母の潘氏が孫権の皇后となった。潘氏は孫権の死後に国政を牛耳ようと企んだが、人望がなかったため、孫権の看病疲れで寝込んでいた時に、宮中で暗殺されたという(『三国志』呉志「孫権潘夫人伝」)。

同年冬、病気が重くなった孫権は諸葛恪を呼び寄せて太子太傅に任じ、さらに滕胤太常に任命して孫亮の輔佐に当たらせた。太元2年(252年)4月、孫権が死去したため孫亮が皇帝に即位、大赦を実行し、建興改元した。

諸葛恪の驕慢

同年閏4月、諸葛恪が太傅になり、滕胤を衛将軍に任命して、尚書の職務を兼任させた。また呂岱大司馬に任命した。同時に文武百官の爵位を進めて恩賞を与え、等級も引き上げた。

同年冬10月、孫権の死に乗じてが南下を開始した。諸葛恪は巣湖に向かい魏の侵攻を押し止めて、東興を築城した上で、全端留略に各々西城・東城を守らせた。

魏の胡遵諸葛誕が、歩兵・騎兵7万を率いて東興を包囲した。さらに魏は同時に南郡・武昌にも攻撃を加えてきた。12月19日、諸葛恪は大軍を率いて魏軍の迎撃に向かい、12月23日、東興において魏軍を破り、韓綜桓嘉を斬った[1](東興の戦い)。

建興2年(253年)春正月1日、全氏を皇后に立て、大赦を実行した。同年正月5日、南郡と武昌を攻撃していた魏軍も東興での敗戦を知って撤退した。同年2月、東興から軍が帰還し、盛大に論功行賞を執り行った。

同年3月、諸葛恪は魏の討伐に向かい、夏4月に合肥新城を包囲したが、疫病で多くの兵が死去し失敗に終わった。

諸葛恪は元々驕慢な性格であったが、敗戦後、人事を専断するなどその専横振りが益々酷くなった(『三国志』呉志「諸葛恪伝」)。

同年冬10月、大饗の礼が催された。この時の宴席で孫峻クーデターを起こし、宮殿で諸葛恪を殺害し、専横を極めていた諸葛恪一派を一掃した。大赦が実行され、孫峻が丞相・富春侯に任命された。

孫峻の専横

諸葛恪の死後も、結局は孫峻が専横を極めただけで、多くの者が不満を懐いたという(『三国志』呉志「孫峻伝」)。

五鳳元年(254年)秋、孫英によって孫峻暗殺計画が立てられたが、この事件は未然に発覚し、孫英は自殺した。

五鳳2年(255年)春正月、魏の毋丘倹文欽淮南で反乱を起こし、軍勢を率いて西進して楽嘉で魏の司馬師と戦っていた。同年閏正月9日、孫峻は寿春の襲撃を図り、呂拠留賛を率いて北上したが、東興まで来たところで文欽らが敗れたという知らせが入った。同年閏正月19日、橐皋まで進んだところで、文欽が数万の敗残兵とともに降伏してきた。孫峻らは諸葛誕の軍が寿春を制圧したことを知ると、撤退を開始した。同年2月、高亭において魏の曹珍と遭遇したため、これを破った。一方で、病身のため先に撤退していた留賛は、菰陂において諸葛誕の将軍蒋班と遭遇し敗れ、将軍の孫楞・蒋脩らと共に殺害された。

同年3月、朱異に命じて安豊を攻撃させたが、陥落させる事はできなかった。同年秋7月、孫儀・張怡・林恂らが孫峻暗殺を計画したが発覚し、孫儀は自殺、林恂らは処刑された。

衛尉の馮朝に命じて広陵で築城させた。また、将軍の呉穰を広陵太守に、留略を東海太守に任命した。

同年12月、太廟(孫堅の廟)を建てた。

太平元年(256年)孫峻は文欽の策により、魏の征伐を実行する事を計画し、8月、先遣隊として文欽・呂拠・劉纂・朱異・唐咨の軍を動員し、江都から淮水・泗水の流域に侵攻させた。だが9月14日、孫峻は急死し、その従弟の孫綝侍中・武衛将軍・領中外諸軍事に任命された。

孫綝の暴虐

孫綝は、孫峻の権力を継承すると、呂拠らに帰還命令を出したが、呂拠は孫綝の権力継承に大きく不満を懐いた。呂拠・文欽・唐咨は上奏し、滕胤を丞相とするよう推薦したが、孫綝はこれを拒否、9月30日、孫綝は滕胤を大司馬に転任させて、呂岱の代わりに武昌に赴かせた。呂拠らは軍を戻し、帰還して孫綝を討とうとした。だが、孫綝は文欽と唐咨に詔書を送り、10月、孫憲(孫慮)・丁奉・施寛らを派遣し、水軍を率いさせ江都で呂拠を迎え撃たせた。また、滕胤に対しては将軍の劉丞を送って、歩兵騎兵を率いて攻撃させた。滕胤は敗れて一族皆殺しとなり、呂拠も新州で捕えられた。呂拠は謀反人となる事を恥じて自害し、一族は皆殺しとなった(『三国志』呉志「呂範伝附呂拠伝」)。

この年(太平元年)の11月、孫綝は大将軍に任命され、仮節・永寧侯となった。孫憲(孫慮)は将軍の王惇と図り孫綝の暗殺を謀ったが発覚し、王惇は殺害され、孫憲は自殺した。12月、五官中郎将の刁玄を使者として蜀漢に送り、反乱が鎮圧された事を報告した。

太平2年(257年)年夏4月、孫亮は正殿に出御し、大赦を実行して自ら政務を執ったが、孫綝の意見に孫亮が反対・反論する事が多くなった。また、15歳以上18歳以下の兵士の子弟を選抜し、近衛軍を作り、御苑の中で日々演習を行った。

同年5月、諸葛誕が魏に反乱を起こした。寿春に籠城すると共に、将軍の朱成を呉への臣従の使者として送り、援軍を申し出た上で、子の諸葛靚呉綱など側近の子弟らを人質に送ってきた。同年6月、孫綝は文欽・唐咨・全端らに命じて、歩兵・騎兵3万人を率いさせ諸葛誕の救援に向かわせた。一方で、朱異に命じて虎林より軍勢を率いて夏口を攻撃させると、孫壱は魏に亡命した。同年秋7月、孫綝は自ら軍勢を率いて寿春に赴き、鑊裡の地において夏口から来た朱異と合流した。孫綝は朱異を前部督に任命して、丁奉と共に兵士5万を率いて寿春の包囲陣を攻撃させた。

同年8月、会稽郡南部で反乱が起き、都尉が殺害された。鄱陽郡と新都郡で民衆が反乱を起こし、丁密鍾離牧・歩兵校尉の鄭冑がこれを討伐した。

朱異は魏軍の包囲陣を崩せないまま兵糧が尽き撤退した。孫綝は激怒し、同年9月朔日に朱異を鑊裡で殺害した。9月3日、孫綝は鑊裡より建業に帰還した。

同年11月、全緒の子全禕・全儀が母を連れて魏に亡命した。12月、寿春で孤立していた全端・全懌司馬昭に降伏した。

太平3年(258年)春正月、諸葛誕が文欽を殺害した。さらに3月、司馬昭が寿春を落城させ、諸葛誕らを滅ぼし、その部将や軍吏を降服させた。

廃立と死

太平3年(258年)秋7月、孫奮を章安侯に封じた。

孫亮は孫綝の専横に業を煮やし、全尚・孫魯班・将軍の劉承らと謀り、孫綝を誅殺しようと計画した。しかしこの計画は、孫亮側の動きを事前に察知した孫綝が、同年9月26日に先手を打ってクーデターを起こした事で失敗に終わった。孫恩によって蒼龍門の外で劉承が殺された他、全尚も屋敷で包囲され零陵に流罪、さらに孫魯班も豫章に流罪となった。クーデターに成功した孫綝は宮廷の門外に大臣を集めると、孫亮を廃位し会稽王に落とす事を宣言した。孫亮は16歳であった。

新たな皇帝には、孫綝によって孫亮の異母兄の孫休が擁立された。孫休はまもなく孫綝を打倒して親政を開始した。永安3年(260年)、会稽王である孫亮が、孫休の弟でかつ先帝であった事から、再び皇帝になるだろうという流言があった。また、孫亮が巫女に祈祷を行わせ、呪いの言葉を発しているという告発があった。孫休は孫亮を侯官侯に降格させ、任地に向かわせたが、孫亮は任地に赴く途中で自殺した。孫亮の死に関し孫休による毒殺であったという記録もある(『三国志』呉書孫休伝注引『呉録』)。

皇后であった全氏は、夫の死後も侯官に住み長寿を保ち、呉が平定された後に内地に戻り、永寧年間まで生きたという(『三国志』呉志「孫亮全夫人伝」及びそれが引く『呉録』)。

評価

『三国志』の編者の陳寿は、「孫亮は幼少であったのに、良い補佐役を得る事が出来なかった。彼が退位させられたのは当然の成り行きである。」と評している。

脚注

  1. 『三国志』呉志の諸伝によると、丁奉・留賛・呂拠らが従軍したとある。

参考資料

  • 『三国志』

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