全尚

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全 尚(ぜん しょう、? - 258年?)は、中国三国時代政治家に仕えた。揚州呉郡銭塘県の人で、字は子真[1]全琮の族子。子に全紀(「孫綝伝」が引く『江表伝』)・全夫人(孫亮妻)。妻は孫綝の姉。『三国志』呉志に娘の伝がある。

生涯

娘(全夫人)が孫魯班(全公主)の寵愛を受け、孫魯班が孫権と対面する時は、娘が決まって伴われたという。孫魯班は皇太子の孫和母子と仲違いを起こしていたため、新たに孫権の寵愛を受けるようになっていた孫亮母子に取り入ろうとし、全尚の娘を孫亮の妻にするように孫権に勧めた。

孫亮が皇帝になると娘も皇后となり、全尚も城門校尉に任命され、都亭侯に封じられた。滕胤の後任として太常衛将軍に任命され、永平侯に進み、録尚書事となった。外戚の全氏一族からは5人の侯が出て、それぞれが兵馬の指揮権を持っていた。また、他の者も侍郎や騎都尉に任じられ、皇帝の側近や警護の役割をになっていた。これは呉でも前例のない事であったという。

257年諸葛誕が反乱を起こすと、全氏のほとんどがその援軍として派遣されたが、留守中に国内で所領争いが起こり、その結果11月から12月にかけて、全端全懌・全禕・全儀といった全氏の主要な人物のほとんどが魏に降伏するか、全煕のように誅殺される結果となった。こうして全氏一族は衰退したという。

258年、成長した孫亮は孫綝の専横を憎むようになり、孫綝の謀殺を計画するようになった。この時、全尚は孫魯班や将軍の劉丞らとともに、その暗殺計画に加わった(「三嗣主伝」)。しかし、孫綝は事前に計画を知ったため、軍勢を率いて宮城を占拠し劉丞を殺害、全尚の屋敷に夜襲をかけて捕虜とした。6月26日の事であった(「三嗣主伝」)。密告者は娘の全夫人だったとも(「孫綝伝」)、孫綝の姉である全尚の妻だったともいう(「孫綝伝」が引く『江表伝』)。[2]この時、子の全紀が黄門侍郎として孫亮の命令を全尚に伝えたが、全尚がよく考えずに機密を妻に知らせたため計画が失敗した。そのため全夫人とともに孫亮から罵倒され、責任を感じて自害したという(「孫綝伝」が引く『江表伝』)。

孫亮が廃位され会稽王から侯官侯になると、全夫人も共に侯官に配流となった。孫魯班は豫章に流される一方で、全尚の一族は零陵に流罪となったが(「孫綝伝」)、後に全尚らは殺害されたという。

全夫人は、孫休の時代に孫亮の自殺後も生き延び、引き続き侯官に在住していた。呉が滅亡すると、内地に戻ってきて永寧年間に死去したという(「全夫人伝」が引く『呉録』)。

小説『三国志演義』にも登場し、同様に孫亮の計画に参加し失敗する。計画が洩れる経緯については『江表伝』の記述が採用されている。

脚注

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  1. 《建康実録》
  2. この件に関して、孫盛は江表伝のほうが正しいと推測する説を記している。