豊平橋
テンプレート:Ja Route Sign 豊平橋(とよひらばし、とよひらはし)は、石狩川の支流の豊平川にかかる橋である。国道36号を通す。北海道札幌市にある。札幌から千歳・苫小牧・室蘭方面に向かう要所にあり、札幌建設の2年後、1871年に豊平川最初の橋として架けられた。近代的設計の橋が幾度も架けられたが、度々洪水で流された。流失の歴史を終わりにしたのは1924年に架けられて1966年まであった三連アーチ橋で、当時の北海道で名橋とされた。
目次
地理
南西から北東に流れる豊平川に対し、北西から南東方向にかかる。2005年現在、付近には中層建築が建ち並び、事務所や住宅に利用されている。右岸南側にホテルがある。
歴史
札幌の渡船場
豊平の名は、アイヌ語のトイピラ、崩れた崖を意味し、豊平橋付近の地形を指す。また、現在の豊平川を古くはサッポロペツ、札幌川と呼んだ。1867年(安政4年)に、松浦武四郎が「札幌樋平の辺り」に将来の蝦夷地の府を置くべきだと具申した文書に、豊平の地名が現れる。「札幌樋平の辺り」とは、今の地名で「豊平川豊平橋の辺り」を指すものである。
現在は河川改修の結果整理されているが、昔の豊平川はあちこちに流れを分け、また合わせて広い流路を持っていた。分流も含めた川の幅が狭まる箇所、広がる場所がいくつかあり、「卵をいくつも呑みこんだ蛇」のような形をしていた。豊平橋付近は狭まる箇所にあたり、交通の要点となる適性を備えていた。
松浦の提案で蝦夷地に札幌越新道が建設されると、現在豊平橋がある場所に渡船場が置かれた。志村鐵一が渡し守となり、家族とともに居を構えた。和人最初の札幌定住者である。志村は信濃国出身の剣客で、北方探検に加わった経験があった。幕府が倒れ、札幌に本庁を建設するため開拓使がやってくると、志村は役目を解かれて去った。
豊平橋の歴史
最初の豊平橋は札幌開府直後の明治4年に架けられた。豊平川は大水、雪解け増水ですぐに洪水になり、度々橋を流したが、その都度次の橋が架けられた。はっきりとはわからないがその数は数十に及ぶ。
豊平川に架かる橋には他に下流の東橋があり、後に幌平橋や一条橋(一条大橋)が加わった。が、豊平橋はその位置と規模によってもっとも重要であった。第二次世界大戦後まで、札幌市は豊平川の左岸に市街を発達させ、右岸は豊平橋そばを除き長く農村地帯にとどまった。
市街は戦後に右岸にも広がるようになった。自動車交通の発達に対応するため、新しい豊平橋の建設が1964年に始まり、1966年に完成した。さらに、遠くない位置に次々と新しい橋ができると、豊平川はようやく交通障害として意識されなくなった。
1871年の橋
1871年(明治4年)、初めて豊平川に橋がかけられた。これが最初の豊平橋だが、1か月半で洪水により流された。新たに架け直された橋も年内に流された。以後豊平橋は何度も流され、その都度架け直された。
1875年の橋
1875年(明治8年)に、アメリカ人技師ホルトの設計によるハウトラス洋式橋が架けられた。近代的な橋ではあったが、1年半後の1877年に洪水で流された。
1898年の橋
1898年(明治31年)に、岡崎文吉の設計になるブラット式の橋(一部鉄橋)が架けられた。この橋は10年以上もちこたえたが、1919年(明治42年)の洪水で流された。
1924年の橋
1924年(大正13年)に鉄のアーチ三つを持つ橋が架けられた。設計建築は札幌電気軌道の技師の助川貞利が担当し、軌道が敷設され鉄道道路併用橋となった。この橋はこれまでのものと異なり長く持ちこたえただけでなく、三連アーチの姿が好まれ、旭川の旭橋、釧路の幣舞橋とともに北海道の三大名橋とされた。全長120メートル、幅18メートル。1966年に新しい橋が作られたときに廃された。
1966年の橋
1966年(昭和41年)10月1日に開通[1]。 戦後に自動車が普及すると、札幌では道路の拡張が実施されたが、橋の幅は広げようがなかった。そこで、総工費3億6千万円をかけて新しい桁橋に架け替えた。前の橋と異なり、存在を特別意識させないすっきりした形をしている。全長132メートル。幅27メートル。これが現在に至っている。
脚注
参考文献・外部リンク
- 札幌市教育委員会編『豊平川』、さっぽろ文庫4、北海道新聞社。
- 札幌市交通局『さっぽろの足』札幌市交通局、1977年、46-47頁 1924年の橋の建設工事中の写真が掲載
- 『温故写真帖』明治5年撮影の豊平橋(国会図書館近代デジタルライブラリー)
- 「豊平橋架設工事の概況」『土木建築工事画報第5巻9号』昭和4年(土木学会図書館)