小堀政一
小堀 政一(こぼり まさかず)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家。備中松山藩第2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。一般には小堀 遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られる(「遠州」は武家官位の遠江守に由来する)。幼名は作助、元服後は、正一、政一と改める。道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵がある。
生涯
天正7年(1579年)、小堀正次の長男として生まれる。父・正次は近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)の土豪で、縁戚であった浅井氏に仕えたが、浅井氏滅亡後は羽柴秀長の家臣となった。天正13年(1585年)、秀長は郡山城に移封されると、正次は家老となり、政一もともに郡山に移った。
この頃、秀長は山上宗二を招いたり、千利休に師事するなどし、郡山は京・堺・奈良と並んで茶の湯の盛んな土地となっていた。小姓だった政一は、秀長の兄・豊臣秀吉への給仕を務め、利休とも出会っている。また、父の勧めもあって大徳寺の春屋宗園に参禅した。秀長の死後を嗣いだ豊臣秀保もまもなく死去したため、文禄4年(1595年)に秀吉直参となって伏見に移ることになった。ここで政一は古田織部に茶道を学ぶことになる。
慶長3年(1598年)、秀吉が死去すると、正次・政一は徳川家康に仕えた。正次は関ヶ原の戦いでの功により備中松山城を賜り、慶長9年(1604年)の父の死後、政一はその遺領1万2,460石を継いだ。
慶長13年(1608年)には駿府城普請奉行となり、修築の功により従五位下遠江守に叙任された。以後この官名により、小堀遠州と呼ばれるようになる。
居所としては、正次の頃から伏見六地蔵の屋敷があったが、越後突抜町(三条)にも後陽成院御所造営に際して藤堂高虎から譲られた屋敷があった。また元和3年(1617年)に河内国奉行を兼任となり、大坂天満南木幡町に役宅を与えられた。
元和5年9月(1619年10月)、近江小室藩に移封され、さらに元和8年8月(1622年9月)に近江国奉行に任ぜられる。ここに陣屋を整備し茶室も設けたが、政一はほとんど使わなかったと考えられている。元和9年12月(1624年1月)にさらに伏見奉行に任ぜられ豊後橋(現:観月橋)北詰に新たに奉行屋敷を設け、その後ほとんどここを役宅として暮らしたからである。
晩年になり真偽は不明であるが公金1万両を流用したとする嫌疑がかかった。しかし、酒井忠勝・井伊直孝・細川三斎らの口添えにより不問とされた。その後も伏見奉行を務めながら茶の湯三昧に過ごし正保4年2月6日(1647年3月12日)、伏見奉行屋敷にて69歳で死去した。なお、子孫は松平定信により天明8年(1788年)に改易の憂き目に逢っているが、旗本として家名は存続した。
作事
政一の公儀作事に関する主な業績としては備中松山城の再建、駿府城修築、名古屋城天守、後陽成院御所造営等の宮中や幕府関係の作事奉行が挙げられる。
宮中造営の業績のほかに品川東海寺(徳川家の菩提寺兼別荘)、将軍上洛の際の休泊所である水口城(滋賀県甲賀市水口町水口)、伊庭御茶屋(滋賀県東近江市伊庭町)、大坂城内御茶屋などが知られている。また京都の寺では将軍の側近者崇伝長老の住坊である南禅寺金地院内東照宮や御祈祷殿(方丈)側の富貴の間、茶室および庭園、同寺本坊の方丈庭園など準公儀の作事に参画しているが、政一の書状の文面から推察できるように、彼は江戸にある幕府からの愛顧を気にしていた関係から公儀の作事(幕府の対皇室政策)以外は公家への出入りは極力避けていた。師・古田重然(古田織部)のような非業の死を避けるためとも思われる。
政一が奉行として参画したと思われる遺構は建築としては妙心寺麟祥院の春日局霊屋(慶長年間、うち溜りを移建)、氷室神社拝殿(慶長年間、内裏池亭を移建)、大覚寺宸殿(慶長年間の内裏の元和期増造の際に中宮宸殿となる)、金地院東照宮、同茶室、同方丈南庭(鶴亀庭)、南禅寺本坊方丈南庭、国宝の大徳寺龍光院密庵席(みったんせき)、孤篷庵表門前の石橋、同前庭、同忘筌席露地(建築は寛政年間に焼失後、旧様式を踏襲して復元された)、仙洞御所南池庭のいで島およびその東護岸の石積み部分などである。また加賀大聖寺藩長流亭も手がけていると言われる。
庭園の作風については政一は師である織部の作風を受け継ぎ発展させたとされるが、特徴は庭園に直線を導入したことである。屏風画に残る御所で実施した築地の庭(後には改修される)や桂離宮の輿寄の「真の飛石」が小堀好みと伝えられた所以とされるが、種々な形の切石を組み合わせた大きな畳石と正方形の切石を配置した空間構成は以前には見られないもので、特に松琴亭前の反りのない石橋は圧巻である。また樹木を大胆に刈り込み花壇を多く用い、芝生の庭園を作るなどの工夫は西洋の影響が指摘される。
茶の湯
政一の茶の湯は現在ではきれいさびと称され、遠州流(小堀遠州流)として続いている。
政一は和歌や藤原定家の書を学び、王朝文化の美意識を茶の湯に取り入れた。彼の選定した茶道具は和歌や歌枕の地名、伊勢物語や源氏物語といった古典から取った銘がつけられ、後世中興名物と呼ばれることとなった。茶室においては織部のものより窓を増やし明るくした。
政一は生涯で約400回茶会を開き、招いた客は述べ2,000人に及ぶと言われる。彼の門下としては松花堂昭乗、沢庵宗彭などがいる。
華道
小堀遠州がもたらした美意識は華道の世界にも反映され、それがひとつの流儀として確立、江戸時代の後期に特に栄えた。遠州の茶の流れを汲む春秋軒一葉は挿花の「天地人の三才」を確立し、茶の花から独自の花形へと展開していった。
その流儀は、正風流・日本橋流・浅草流の三大流派によってその規矩が確立された。時代が下って、昭和の初期にかけては既成の流派から独立した家元や宗家が多く生まれ、明治の末期をピークとして遠州の名を冠した流派は大幅に増えることになった。
これらの流派は一般に、花枝に大胆で大袈裟な曲をつける手法という共通した特徴がある。華道でこうした曲生けは、技術的に習得するのが至難な技法として知られている。
その他
八条宮智仁親王、近衛応山、木下長嘯子など当代一流の文化人たちとの交際が知られる。元和7年(1621年)と寛永19年(1642年)の江戸から上洛途次の歌入日記にもその文学趣味がよく現れている。
政一が着用したと伝えられる具足が東京国立博物館に所蔵されている。
図版本『小堀遠州 「綺麗さび」のこころ』(別冊太陽 日本のこころ、平凡社、2009年8月)に詳しい。
また松山(高梁)に居住していた時、備中国で多く作られていた柚子を使い独自のゆべしを考案、同所の銘菓となった。現在でも高梁市の銘菓として知られ、代表的な土産物となっている。
文献
- 森蘊 『小堀遠州』 吉川弘文館〈人物叢書〉 1967年、新装版 1988年)
- 小堀宗実ほか 『小堀遠州 綺麗さびの極み』 新潮社〈とんぼの本〉 2006年 ISBN 4-106-02144-7
- 深谷信子 『小堀遠州の茶会』 柏書房 2009年 ISBN 978-4-7601-3189-1
- 『小堀遠州 「綺麗さび」のこころ』 平凡社〈別冊太陽 日本のこころ〉 2009年 ISBN 4-582-92160-4
- 藤田恒春 『小堀遠江守正一発給文書の研究』 東京堂出版 2011年 ISBN 978-4-490-20813-9