連合艦隊司令長官
連合艦隊司令長官(れんごうかんたいしれいちょうかん、旧字表記:聯合艦隊司令長官、英語名:Commander-in-Chief of the Combined Fleet)は、日本海軍の外戦部隊である連合艦隊の指揮官。略称はGF長官。
解説
親補職で、中将以上の艦隊司令長官か鎮守府長官から海軍大臣が推薦し、天皇が任命した。
連合艦隊は、日本海軍の花形の実戦部隊であり、連合艦隊司令長官には海軍大臣や軍令部総長以上の知名度と人気がある。士官が一度はなりたいものが(戦艦の)艦長と(連合艦隊)司令長官と言われたほどで、1937年(昭和12年)2か月余前に連合艦隊司令長官に親補されたばかりの米内光政が海軍大臣に請われた際も「大臣なんて俗吏だよ」と言って渋り、結局大臣を引き受けた後も「せっかく司令長官になったのに心中お察しする」という同期の高橋三吉の手紙に「僕の気持ちをわかってくれたのは貴様だけだ」と返事を書いていることからもそれは窺える。
連合艦隊司令長官は、当初は連合艦隊所属の各部隊のみを指揮できる立場だったが、1944年(昭和19年)より作戦に関して必要な場合に鎮守府その他の部隊も指揮できるようになる。しかし同年10月のレイテ沖海戦の敗北後連合艦隊は弱体化し、1945年(昭和20年)4月の戦艦「大和」以下第二艦隊による沖縄突入(海上特攻)で、連合艦隊は壊滅してしまう。生き残った海軍艦艇は特殊潜航艇や人間魚雷などの特攻兵器と海上護衛総司令部所属の護衛艦艇がほとんどであり、大型艦は燃料不足で活動できないので鎮守府の警備艦とされてしまった’。
1945年5月には海軍総隊司令部が設置されて連合艦隊司令長官は海軍総隊司令長官を兼任するように(すぐに逆、つまり海軍総隊司令長官が連合艦隊司令長官を兼任する、と改訂された)なったため、事実上海軍全部隊を指揮する権限を持つようになった。
歴代の連合艦隊司令長官
- 伊東祐亨中将(1894年(明治27年)7月19日 - 1895年5月11日)
- 有地品之允中将(1895年(明治28年)5月11日 - 1895年11月16日)
- 東郷平八郎中将(1903年(明治36年)12月28日 - 1905年6月14日)
- 東郷平八郎大将(1905年(明治38年)6月14日 - 1905年12月20日)
- 伊集院五郎中将(1908年(明治41年)10月8日 - 1908年11月20日)
- 吉松茂太郎中将(1915年(大正4年)11月1日 - 1915年12月13日)
- 吉松茂太郎中将(1916年(大正5年)9月1日 - 1916年10月14日)
- 吉松茂太郎大将(1917年(大正6年)10月1日 - 1917年10月22日)
- 山下源太郎大将(1918年(大正7年)9月1日 - 1918年10月15日)
- 山下源太郎大将(1919年(大正8年)6月1日 - 1919年10月28日)
- 山屋他人大将(1920年(大正9年)5月1日 - 1920年8月24日)
- 栃内曽次郎大将(1920年(大正9年)8月24日 - 1920年10月31日)
- 栃内曽次郎大将(1921年(大正10年)5月1日 - 1921年10月31日)
- 竹下勇中将(1922年(大正11年)12月1日 - 1924年1月27日)
- 鈴木貫太郎大将(1924年(大正13年)1月27日 - 1924年12月1日)
- 岡田啓介大将(1924年(大正13年)12月1日 - 1926年12月10日)
- 加藤寛治中将(1926年(大正15年)12月10日 - 1928年12月10日)
- 谷口尚真大将(1928年(昭和3年)12月10日 - 1929年11月11日)
- 山本英輔中将(1929年(昭和4年)11月11日 - 1931年12月1日)
- 小林躋造中将(1931年(昭和6年)12月1日 - 1933年11月15日)
- 末次信正中将(1933年(昭和8年)11月15日 - 1934年11月15日)
- 高橋三吉中将(1934年(昭和9年)11月15日 - 1936年12月1日)
- 米内光政中将(1936年(昭和11年)12月1日 - 1937年2月2日)
- 永野修身大将(1937年(昭和12年)2月2日 - 1937年12月1日)
- 吉田善吾中将(1937年(昭和12年)12月1日 - 1939年8月30日)
- 山本五十六中将(1939年(昭和14年)8月30日 - 1941年8月11日)
- 山本五十六大将(1941年(昭和16年)8月11日 - 1943年4月18日)
- 古賀峯一大将(1943年(昭和18年)4月21日 - 1944年3月31日)
- 豊田副武大将(1944年(昭和19年)5月3日 - 1945年5月1日)
- 豊田副武大将(1945年(昭和20年)5月1日 - 1945年5月29日)
- 小沢治三郎中将(1945年(昭和20年)5月29日 - 1945年10月10日)
- (1および2は常備艦隊司令長官兼任、4および6~26は第一艦隊司令長官兼任、5は第二艦隊司令長官兼任、30および31は海軍総隊司令長官兼任)
- 海軍甲事件により山本五十六長官が戦死した際には、近藤信竹第二艦隊司令長官が後任の古賀峯一長官着任まで連合艦隊の指揮を代行した。海軍乙事件で古賀峯一長官が殉職した際には、高須四郎南西方面艦隊司令長官が後任の豊田副武長官着任まで連合艦隊の指揮を代行した。