藤原定子
藤原 定子(ふじわら の ていし/さだこ[1]、貞元2年(977年) - 長保2年12月16日(1001年1月13日)[2])は、平安時代、第66代一条天皇の皇后(号は中宮、のち皇后宮)。脩子内親王・敦康親王・媄子内親王の生母。通称は一条院皇后宮。『枕草子』の作者清少納言が仕えた女性である。
目次
系譜
関白内大臣正二位藤原道隆の長女、母は式部大輔高階成忠の女・正三位貴子。正二位内大臣伊周、正二位中納言隆家は同母兄弟。
生涯
永祚元年(989年)父方の祖父である摂政兼家の腰結いで着裳、その時はじめて歴史の表舞台に登場する。正暦元年(990年)1月25日、数え14歳の春に、3歳年下の一条天皇に入内し[3]、まもなく従四位下に叙せられ、ついで女御となる。局は登華殿(一説に梅壺、または両方とも)。
同年10月5日[4]、皇后に冊立され「中宮」を号した。なお、定子は一条天皇の皇后として「中宮」を号したのであり、立后の詔にも「皇后」と明記された。正暦元年当時、律令が定める「三后」のうち、太皇太后は3代前の帝の正妻・昌子内親王、皇太后は当帝の生母・藤原詮子、中宮は先々代の帝の正妻・藤原遵子で全て占められていた。道隆はその中に割り込んで定子を立后させるために、本来皇后の別名である「中宮」の称号を皇后から分離させて定子に与え、また遵子に付属した「中宮職」を改めて「皇后宮職」とし、「中宮職」を定子のために新設した。その結果、「往古不聞事」である皇后四人の例を作り出して世人の反感を招いたという(『小右記』)。また、道隆は弟の藤原道長を中宮大夫に命じて定子を補佐させようとしたが、道長は父の喪中を理由に立后の儀式を欠席している。のちに道長が「皇后」と「中宮」の区別を利用して「一帝二后」を謀り、定子を窮地に追いやることになるのだが、その元を作ったのが定子の父道隆であることになる。同じ年の5月には、父・道隆が祖父兼家の亡き後を継いで摂政・氏長者に就任しており、道隆一族は栄華を謳歌する事となった。
定子の母貴子は円融朝に掌侍を勤めて高内侍と称された人で、女ながらに漢文を能くし、殿上の詩宴にもに招かれるほどであった。また、定子の父道隆は、「猿楽言」(冗談)を好み酒を愛した陽気な性格の人だという。こうした父母の血を享けて、定子は聡明な資質を持ち、和漢の才に通暁したばかりでなく、明朗快活な性格に育ったらしい。正暦4年頃から定子の死去まで彼女に仕えた女房・清少納言が著した随筆『枕草子』は、生き生きとした筆致で、彼女の外面的・人格的両面の類稀な魅力を今日に伝えている[5]。従弟にあたる夫・一条天皇との仲も良好で、機知を愛し風雅を重んじる一条朝の宮廷の風潮が見られた。
しかし、長徳元年(995年)4月10日、関白であった定子の父道隆が死去すると、政権は国母・東三条院詮子の介入により定子の叔父道兼、ついで道兼が急死するとその弟道長の手に渡り、有力な後盾を失った定子の立場は急変した。さらに、翌年4月には定子の兄・内大臣伊周、弟・中納言隆家らが花山院奉射事件を起こして左遷され(長徳の変)、当時懐妊中の定子も内裏を退出し里第二条宮に還御するが、目の前で邸に逃げ込んだ兄弟が検非違使に捕らえられることを見て、自ら鋏を取り落飾した。
中宮定子の突然の出家は5月1日のことで、この後、同年夏に二条宮が全焼し、10月には母・貴子も没するなどの不幸が相続く中、定子は長徳2年(996年)12月16日、第一子・脩子内親王を出産した(予定の出産に大幅に遅れ、この時、世の人は中宮が「懐妊十二月」と噂した)。
その後、長徳3年(997年)4月になって伊周らの罪は赦され、また一条天皇は誕生した第一皇女・脩子内親王との対面を望み、周囲の反対を押し退け、同年6月、再び定子を宮中に迎え入れた。これについて、『栄花物語』は天皇の心情を体した東三条院や道長の勧めがあったとし、また高二位(高階成忠、中宮外祖)が吉夢(皇子誕生の夢)を見たとしてためらう定子を駆き立てたという。中宮御所は清涼殿からほど遠い中宮職の御曹司と決められたが、そこは「内裏の外、大内裏の内」という厳密には「後宮」といえない処に位置し、その上母屋に鬼がいたという不気味な建物[6]で、中宮付き官人の事務所に使われることはあっても、后妃の寝殿に宛てがわれることは無かった。定子の中途半端な境遇が伺えたが、また再入内の当日、一条天皇は他所へ行幸し、夜中に還幸しているが、そこにも朝野の視線を定子入内から逸らそうとする苦心が見える。『栄花物語』に拠れば、職の御曹司では遠すぎるからと、一条天皇の配慮により近くに別殿が準備され、天皇自ら夜遅く通い、夜明け前に帰るという思いの深さであった。しかし、天皇が定子を内裏の中へ正式に入れず、人目を避けて密かに通わざるを得なかったことには、出家後の后の入内という異例中の異例への世間の風当たりの強さが現れている。貴族たちの顰蹙を反映して、藤原実資はその日記『小右記』長徳3年6月22日条に、「天下不甘心」の語を記している[7]。
この再入内で定子は実質的に還俗し、長保元年(999年)11月7日、一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産。天皇の喜びは大きかったが、先に長女彰子を入内させていた道長はこのことで焦慮し、彰子の立后を謀るようになる。東三条院詮子の支持もあって、長保2年(1000年)2月25日、女御彰子が新たに皇后に冊立され「中宮」を号し、先に「中宮」を号していた皇后定子は「皇后宮」を号させられ、史上はじめての「一帝二后」となった。同年の暮れ、定子は第二皇女・媄子内親王を出産した直後に崩御し、生前の希望から鳥辺野の南のあたりに土葬された。陵墓は京都市東山区今熊野泉山町にある鳥辺野陵(とりべののみささぎ)とされている。
崩御に臨んで定子が書き残した遺詠「夜もすがら契りし事を忘れずは こひむ涙の色ぞゆかしき」は、『後拾遺和歌集』に哀傷巻頭歌として収められ、また、鎌倉時代初めに編まれた小倉百人一首の原撰本「百人秀歌」にも採られている。
定子の崩御後、中関白家(父と弟の間にあって関白になった道隆家の呼称)は没落の一途をたどった。敦康親王が、后腹の第一皇子でありながら即位できなかったのも、それゆえである。定子が儲けた3人の子は、はじめ東三条院詮子が媄子内親王を、定子の末妹御匣殿が脩子内親王・敦康親王を養育した。女院・御匣殿が相次いで死去した後、敦康親王は父帝の政治的配慮で継母彰子に[8]、両内親王は母后の実家にそれぞれ別れて引き取られたという[9]。このうち媄子内親王は生来病弱で9歳にして夭折、敦康親王はたびたび立太子の話題に上りながらその都度に有力な外戚のいないことを口実に退けられ、ついに「世の中をおぼし嘆きて失せ給ひにき」(『大鏡』)。脩子内親王のみ54歳の長寿(当時としては)を全うしたが、生涯独身であった。定子の後裔は敦康親王の一人娘嫄子女王が後朱雀天皇との間に生んだ2人の皇女(ともに未婚)を最後に絶える事となった。
定子が登場する現代の作品
小説
定子が主人公の小説
- 円地文子 『なまみこ物語』 新潮文庫・講談社文芸文庫ほか
- 安西篤子 『悲愁中宮』 読売新聞社・集英社文庫ほか
- 河原撫子 『雪のささやき』 彩図社ぶんりき文庫
- 石丸晶子 「藤原定子」(『歴史に咲いた女たち―平安の花』の一章) 廣済堂出版
清少納言が主人公の小説
その他の小説
漫画
- 田中雅子 『藤原定子』(ロマン・コミックス 人物日本の女性史9) 世界文化社
- 河村恵利 『枕草子』 秋田書店
- くずしろ 『姫のためなら死ねる』 竹書房
- かかし朝浩『暴れん坊少納言』(ガムコミックス・プラス) ワニブックス
脚注
参考文献
- 倉本一宏 『一条天皇』 吉川弘文館〈人物叢書〉。
- 倉本一宏 『三条天皇』 ミネルヴァ書房〈日本評伝選〉。
- 斎藤雅子 『たまゆらの宴~王朝サロンの女王藤原定子~』 文藝春秋。
- 下玉利百合子 『枕草子幻想 定子皇后』 思文閣出版。
- 下玉利百合子 『枕草子周辺論』 笠間書院。
- 下玉利百合子 『枕草子周辺論 続編』 笠間書院。
- 目加田さくを・百田みち子 『東西女流文芸サロン - 中宮定子とランブイエ侯爵夫人』 笠間選書。
- 目加田さくを 『平安朝サロン文芸史論』 風間書房。
- ↑ 『平安時代史事典』
- ↑ 享年は同時代の公卿藤原行成の日記『権記』による(『大鏡裏書』『一代要記』は入内の時14歳とするため『権記』の記す享年24と符合する)。『日本紀略』『扶桑略記』『栄花物語』は25とする。
- ↑ 一条天皇の元服は同年正月5日。貴人の元服の夜には添臥とよばれる女性が参上し、そのまま正妻となることが多かった。定子も添臥であった可能性が高い。
- ↑ 『栄花物語』は定子の立后を6月1日とし、それが彼女の祖父兼家の病中であったにもかかわらず、外戚の高階氏が道隆を唆して立后を強行させたため、世の非難を浴びたという。だが、実際には定子立后は10月5日で兼家の死後数カ月経っている。
- ↑ 『栄花物語』も、一条天皇の言葉として「心ばへのおとなおとなしうあはれなる方は誰かまさらむ」(思慮分別があってしみじみと情け深い点では、彼女に勝る人はいるのだろうか)の定子評を伝えている。
- ↑ 『枕草子』
- ↑ 大江匡衡は、長保元年(999年)6月14日の内裏焼亡後、「白馬寺の尼、宮に入りて唐祚亡びし由あり、皇后の入内を思ふに、内の火の事は旧事を引けるか」と藤原行成に語り、中宮定子を唐を滅亡させた高宗の悪妻則天武后になぞらえ、彼女が出家の身で後宮に入ったから内裏が焼けたのだとして痛烈に非難した(『権記』長保元年8月18日条)。また藤原実資は、皇子出産に際し中宮定子を「横川の皮仙」、すなわち「出家らしからぬ出家」と皮肉っている(『小右記』長保元年11月7日条)。
- ↑ 『権記』『御堂関白記』その他
- ↑ しかし、『大日本史』が載せる一条天皇の詔には、脩子内親王が宮中で育ったと書かれ、『栄花物語』にもそのように思える節があるため、再考が必要。