カール・ツァイス
カール・ツァイス(Carl Zeiss ) は、
- カール・ツァイス社の創立者であったドイツの機械技術者(いわゆるマイスター)カール・フリードリヒ・ツァイス(Carl Friedrich Zeiss 、1816年9月11日-1888年12月3日)。
- 1846年にイェーナで創業し1889年「カール・ツァイス財団」傘下に入ったドイツの光学機器製造会社カール・ツァイス社
- 1889年エルンスト・アッベにより設立され「カール・ツァイス社」を傘下としたカール・ツァイス財団(Carl Zeiss Stiftung )
- カール・ツァイス財団とその傘下企業を含んだカール・ツァイス・グループ
である。
目次
歴史
カール・ツァイス社の誕生~発展
カール・フリードリヒ・ツァイスはイェーナに顕微鏡製造のための工房を開設し、イェーナ大学の植物学者で細胞説で有名なマティアス・ヤコブ・シュライデンの激励を受けて大学の研究室で使われる光学機器を製作し、高い評価を受けるようになった。当時の志は一流顕微鏡の製造であり、そのために州庁に工場設立の申請を出したが許可はなかなか来ず、ツァイスは父から100タラーの融資を受けて業務を開始してしまった。幸い業務開始後まもない1846年11月19日付でザクセンワイマール大公国の州監督から許可通知書が発行された[1]。
ツァイスはさらにシュライデンの助言を受けて顕微鏡を改良し、チューリンゲン一般工業博覧会で1857年に銀賞、1861年には金賞を獲得、1866年には通算生産台数1000台を数え[2]、1850年代以降には顕微鏡の品質で一般から広く認められるようになった。
しかし成功にも関わらずツァイスは製品に満足していなかった。学問の発展に伴い研究用機器への要求はますます高度になりつつあった。改良の糸口を数学的計算に基づく設計に求め自力で公式を建てようと試みたが、ツァイスがすでに高齢になっていたこともあって思うような結果は得られなかった。専門的に光学を勉強したブレーンが会社にいないとさらなる発展は望めない状況になりつつあると判断し以前師匠のケルナーと働いていた数学者バアルフウスに助言を求めたが、この試みは無駄になった。1866年にイェーナ大学の講師エルンスト・アッベと学術実験用の機器製作を通じて知り合って助言を求め、アッベも実際の検証が伴わない理論など神学に毛の生えたようなものでどうしても高度な実験機材が必要だと考えていた。ここで一致した両者は共同で光学機器の性能向上技術を開発するようになった。当初は経験に公式を当てはめたような状態であったが1872年にはアッベの計算に基づいて設計された顕微鏡が出荷され、高く評価された。業績は著しく向上し、1875年にツァイスはアッベに共同経営に参画するよう働きかけ[3]、1876年からカール・ツァイス社はツァイスとアッベの共同経営となった[4]。
次に障害になったのは光学ガラスの素材であったが、1879年から[5]フリードリッヒ・オットー・ショットがガラス工学技術を提供することとなり、良質のガラスをレンズの材料とすることによって世界最高水準の光学機器会社としてさらに発展することとなった[6]。また1923年8月カール・ツァイスの技師ヴァルター・バウアースフェルト(Walther Bauersfeld )は世界初の近代的プラネタリウム「ツァイス1型」を製造した。このプラネタリウムは1923年10月21日にドイツ博物館にて公開され、現在も展示されている。
高い評価を聞きつけて優秀な人材が集まるようになり、例えば1886年にはすでに高名な数学者だったパウル・ルドルフを迎えている[7]。
カール・ツァイス財団の誕生
アッベはことあるごとにツァイスに対し工場経営の抜本的改革を申し入れていたが、実現しないままカール・フリードリヒ・ツァイスは死去した。アッベは自らが所有する会社の株はもとより、カール・ツァイスの息子で共同経営者だったローデリヒ・ツァイス(Roderich Zeiss )にも迫って株の譲渡を受け、1891年6月30日すべての株を財団所有とした。これによってカール・ツァイス社にはひとりの株主もいなくなり、財団によって運営される希有の企業形態となった[8]。アッベにより定められた財団の定款は財団の使命として次の項目を謳っている。
- 応用指向の研究を基本姿勢として、光学、ガラス技術、精密機械技術および電子工学の分野で高品質の製品を開発・製造する。
- 全従業員に対して長期的に社会的責務を果たす。
- 財団外においても、重要な科学技術分野の発展に資する。
- 公共的な使命の達成に協力する。
また企業戦略は次の原則に基づいて決定されるとした。
- 学術、技術および市場は三位一体となって発展する。
- 学術、技術および経済は人間に奉仕するものであって、この逆ではない。
- 企業は、従業員との特別な連携のもとに存在する。
- 決定過程への参加によって従業員の創造性が高揚される。
財団は、当時1日14時間労働から12時間労働に短縮するかどうかを議論していたドイツ産業界の労働慣行から見れば過激な8時間労働制、時間外勤務手当、年次有給休暇、年金制度など概念を導入、世界に先駆けて整備し、労働者の待遇改善に努めた。また技術的に価値の高い新規の発明については特許を取ることを禁じ、進んで公開するものとした(特許を取らない方針については、他社に特許を取得されてしまうために技術公開の目的が達成されず、やむを得ず特許を取得して公開する方針に切り替えられた)。他社が経営上の理由から二の足を踏む分野に対しても財団傘下の企業が積極的な技術開発を行い得たのは上記のような財団の経営方針によるものである。このような労働政策や企業理念がグループの労働者の労働意欲を大いに向上し生産性を飛躍的に高め、結果として19世紀末から軍事や医学その他の専門分野で世界中どこへ行っても最高の性能を備えた製品として使われた。これにより世代によってはカール・ツァイスの名に絶対的権威の象徴としての伝説的な響きを感じる人も多い[9]。
ツァイス財団の「人類の福祉に貢献する」という社是は、ナチスが台頭してくると「マルクス主義的」と見なされ、経営に容喙される原因になったといわれている。
東西分断
20世紀初頭から第二次世界大戦までの期間、カール・ツァイスは世界の最先端を走る光学機器会社として君臨した。しかし、第二次世界大戦におけるドイツ敗戦の影響は、カール・ツァイスにおいても多大な影響を及ぼした。
第二次世界大戦の敗戦直後、ドイツの東西分断により、ドイツ東部にあったイェーナはソ連占領統治下に置かれた。しかしアメリカ軍はカール・ツァイスの光学技術をソ連にそのまま渡すことを阻止するためソ連軍に先んじてイェーナに入り、1945年6月24日に125名の技術者とその家族を拉致、また8万枚の図面とともにイェーナを出発、オーバーコッヘンに移動させ、ツァイス・オプトンとして光学機器の生産を引き継いだ[10]。一方ソ連軍はイェーナの工場群を接収、残った技術者もソ連に送った。これによってカール・ツァイスは東西に分裂した。東側はイェーナに半官半民の「人民公社カール・ツァイス・イェーナ」を設立、このイェーナのカール・ツァイスは東ドイツの誇る光学機器メーカーとして存続した。その後1970年代になると東西のカール・ツァイスはどちらも有名な一流企業に復活し世界市場で競合するようになり、どちらも戦前からの商標を使用していたため紛争が生じた。このため東ドイツのカール・ツァイスの提案で会議が開かれ、
- 西側諸国では西側のカール・ツァイスが「カール・ツァイス」を、東側のカール・ツァイスが「カール・ツァイス・イエナ」を名乗る。
- 東側諸国では東側のカール・ツァイスが「カール・ツァイス」を、西側のカール・ツァイスが「カール・ツァイス・オプトン」を名乗る。
- アフリカ、アジア、中南米地域では双方が「カール・ツァイス」を使用する。
- 西側諸国のうちイギリスと日本は例外的に双方が「ツァイス」を使用する。
と決められた[11]。同様に戦前からの商標が使えない地域向けの商品には、ビオターがB[12]、ビオゴンがBi[13]、ビオメターがBm[12]、フレクトゴンがF[12]、プラナーがPl[13]、ゾナ−がS[12]またはSo[13]、テッサーがT[12]など略号で示されているものがある。
サッカークラブのFCカールツァイス・イェーナは1903年に創設され、東ドイツ(DDR)時代には国を代表する強豪チームであった。2009-2010シーズン現在、ブンデスリーガ3部に所属している。
東西統一~その後
1989年~1990年に渡って行われたドイツ再統一により、東西に分かれていたカール・ツァイスも統合の道を歩むことになる。イェーナにあったツァイスは経営に行き詰まっており、実質的にオーバーコッヘンのツァイスが吸収する形となった。現在もカール・ツァイス本社はオーバーコッヘンに置かれている。
近年では半導体露光機(ステッパー)を製造しているオランダのASMLに光学系を独占的に供給している。
また、光学系に光ファイバーを用いたプラネタリウム投影機の生産も行っている。
財団傘下の企業
以下を代表として数多い。
- カール・ツァイス - 天体望遠鏡や顕微鏡、眼鏡、光学照準器などを製造。
- ツァイス・イコン - ドイツの主要なカメラメーカーの大同団結的合併により誕生し、カール・ツァイス財団の傘下でイコンタ、イコフレックス、コンタックス、コンタレックス等のカメラを開発製造した。
- ショット - 光学ガラス、医療・理化学用ガラス、その他特殊ガラス材料、およびそれらを用いた製品の開発、製造、販売。
製品
この他艦砲用光学測距儀、潜水艦の潜望鏡、銃器用の照準器など軍用の光学機器も作っている。
カール・ツァイスの人物
所属した設計者
関係のある人物
- カール・デーニッツ - 父エミル・デーニッツはカール・ツァイス社の技師だった。
提携企業(過去も含む)
製品利用の歴史
- ロベルト・コッホ - 1876年、カール・ツァイス製の顕微鏡を使って炭疽菌を発見。細菌が感染症の病原体であることを証明した。
- 現在世界最大の映画用レンズメーカーである。(映画用カメラの最大手であるドイツのアーノルド&リヒターとの提携)
- 東郷平八郎 - 5倍と10倍兼用の双眼鏡が発売されて間もない1904年(明治37年)、小西本店(現コニカミノルタホールディングス)が輸入したものを購入愛用し、日本海海戦でも戦艦三笠艦上で敵の沈没状況や降伏信号の確認等に使用した。
- 旭川市科学館 サイパル - 2005年の移転新築に合わせ、プラネタリウムに「ZMPスターマスター」を導入している。移転前もカール・ツァイス製の投影機「ツァイス・イエナZKP-1型」を使用していた。
- 名古屋市科学館 - 1962年の開館時、プラネタリウムに当時カール・ツァイスの最新型であった「カール・ツァイス4型」を導入、使用されてきたが、2010年8月末に投影を終了し、2011年3月から新たなプラネタリウム、愛称ブラザーアース(brother earth )の開館により「ユニバーサリウム9型」(type UNIVERSARIUM Model IX )を採用した。しかし、オープン直前にしての故障により初日の投影が不能となり、その後は回数を減らしてスタートした。現在は予定通りの回数で運営されている。
- 京都大学 - 飛騨天文台に1972年65cm屈折望遠鏡、1979年60cmグレゴリー式反射望遠鏡[14]を導入している。
- 明石市立天文科学館 - 1960年の開館時、プラネタリウムに「ツァイス・イエナユニバーサル23/3型」を導入し、現在も使用されている。なお、現在稼動しているプラネタリウム投影機の中では、日本で一番古いものである。
脚注
- ↑ 『カール・ツァイス 創業・分断・統合の歴史』p.18。
- ↑ 『カール・ツァイス 創業・分断・統合の歴史』p.44。
- ↑ 『カール・ツァイス 創業・分断・統合の歴史』p.20。
- ↑ 『カール・ツァイス 創業・分断・統合の歴史』p.25。
- ↑ 『カール・ツァイス 創業・分断・統合の歴史』p.28。
- ↑ 『クラシックカメラ専科No.12、ミノルタカメラのすべて』p.127
- ↑ 『カール・ツァイス 創業・分断・統合の歴史』p.28。
- ↑ 『クラシックカメラ専科No.12、ミノルタカメラのすべて』p.128。
- ↑ 『クラシックカメラ専科No.12、ミノルタカメラのすべて』p.127。
- ↑ 『ツァイス・イコン物語』p.93。
- ↑ 『カール・ツァイス 創業・分断・統合の歴史』p.124。
- ↑ 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 『クラシックカメラ専科No.38、プラクチカマウント』p.51。
- ↑ 13.0 13.1 13.2 『銘機礼賛2』p.187。
- ↑ ドームレス型真空式塔太陽望遠鏡。
参考文献
- アーミン・ヘルマン(著)、中野不二男(訳)、『ツァイス 激動の100年』、新潮社、1995年、ISBN 4-10-531401-7
- 小林孝久(著)、『カール・ツァイス 創業・分断・統合の歴史』、朝日新聞社、1991年、ISBN 4-02-258480-7
- 佐貫亦男(著)、『ドイツカメラのスタイリング』、グリーンアロー出版社、1996年、ISBN 4-7663-3189-3
- 竹田正一郎『ツァイス・イコン物語』光人社 ISBN978-4-7698-1455-9
- 田中長徳『銘機礼賛2』日本カメラ ISBN4-8179-0006-7
- 『クラシックカメラ専科No.12、ミノルタカメラのすべて』朝日ソノラマ
- 『クラシックカメラ専科No.38、プラクチカマウント』朝日ソノラマ