フランシスコ・フランコ
フランシスコ・フランコ Francisco Franco y Bahamonde | |||||||
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任期 | 1939年4月1日 – 1975年11月20日 | ||||||
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任期 | 1938年1月30日 – 1973年6月8日 | ||||||
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出生 | 1892年12月4日 テンプレート:ESP1785 ラ・コルーニャ県 フェロル | ||||||
死去 | テンプレート:死亡年月日と没年齢 テンプレート:ESP1945 マドリード |
政党 | ファランヘ党 | 配偶者 | カルメン・ポロ | 署名 | 128px |
フランシスコ・フランコ・イ・バアモンデ(Francisco Franco y Bahamonde、1892年12月4日 - 1975年11月20日)は、スペインの軍人、政治家、独裁者(総統)。ガリシア出身。
一般には、フランシスコ・フランコ(Francisco Franco、IPA : [fɾan'θisko 'fɾaŋko])として知られる。称号は「カウディーリョ・デ・エスパーニャ(Caudillo de España)」。
目次
生涯
軍人として
フランコは、スペイン北西部ガリシア地方の造船と海軍基地の町フェロルの軍人の子として生まれた[1]。出生時の洗礼名はフランシスコ・パウリーノ・エルメネヒルド・テオドゥロ(Francisco Paulino Hermenegildo Teódulo)。1907年8月15歳の時トレドの陸軍士官学校に入学し、卒業は18歳で少尉となった。母を人生の師としていた。20歳の時、頑強な独立運動が展開されていたスペインの植民地モロッコに派遣され、この地で以後5年間、ベルベル人の独立を求める反乱(第三次リーフ戦争を参照)の鎮圧に当たった。フランコは現地のアフリカ人部隊を指揮して反乱軍と戦い、その功績で陸軍少佐に昇進した。帰国後は、サラゴサの陸軍士官学校の校長を務めた。
1931年、スペインではボルボン王朝が倒されて第二共和政が成立し、王族は国外へと追放された。フランコは、共和政府からラ・コルーニャとバレアレス諸島の軍政官に任じられ、その間に陸軍少将に昇進した。1934年10月、右翼の内閣が成立し、左翼政党がこれに抗議してゼネラル・ストライキを呼びかけると、フランコはアストゥリアス地方でゼネストに決起した鉱山労働者を武力で鎮圧した。この功績により翌1935年、陸軍参謀総長に任命された。
スペイン内戦
以前は「スペイン内乱」と呼ばれていたが、スペインを代表する正統な政権が転覆している事や、反乱軍を支持した派閥も多いことから、現在では「スペイン内戦」の呼称がより一般的である。
1936年2月の総選挙で、左翼勢力を中心とする人民戦線内閣が誕生すると、右派として知られたフランコは参謀総長を解任され、カナリア諸島総督に左遷された。人民戦線政府は社会主義的理念に基づく改革を実行、教会財産を没収し、ブルジョワを弾圧した。これは農民層に支持されたが、地主や資本家、カトリック教会などの保守勢力や知識層とは対立した。
同年7月にスペイン領モロッコと本土で軍隊が反乱を起こすと、フランコはモロッコに飛んで反乱軍を指揮し、本土に侵攻した。保守勢力が反乱軍を支援したため、この反乱はスペインを二分する大規模な内戦に発展した。反乱軍の中心人物は当初ホセ・サンフルホ将軍やエミリオ・モラ・ビダル将軍などであり、フランコは反乱側の一将軍でしかなかった。初戦に反乱軍は敗北を重ねるなど長期化の様相を見せ始めると、戦功のあるフランコと、戦前から人望が高かったモラが反乱側の人気を二分するようになる。その後モラが飛行機の墜落事故で死亡すると、フランコが反乱軍の指導者としての地位を固めた。
総統就任
1936年10月1日にブルゴスにおいて、反乱軍(ナショナリスト軍、国民戦線軍とも)の総司令官に指名され、国家元首に就任した。その際フランコは、軍総司令官としてヘネラリシモ(Generalísimo、総帥と訳される)、国家元首としてカウディーリョ(Caudillo、総統と訳される)の称号を用いた。
また、フランコは総統就任以来、仮政府としてブルゴスに「国家行政委員会」を設置していたが、1938年1月30日にこれを改組して正式に内閣制度を導入、フランコは国家元首兼首相となった。
スペイン統一
その後フランコは、ドイツやイタリアの支援を受けて人民戦線政府勢力と戦った。反乱は陸軍主体で行なわれ、空軍と海軍の大部分は共和国側についたため、モロッコ軍を本土に送れず、ドイツの輸送機が活躍した。また日本はドイツとイタリアに次いでフランコ政権を承認した列強であり、フランコ政権が満洲国を承認したのはその見返りであるとされている。
なおフランコに対する人民戦線政府は内部に共和主義者、共産主義者、無政府主義者を抱えていたため、統一性に欠けた。フランスが人民戦線を支援するも国内の反発で即座に中止、また人民戦線はソ連や国際旅団(イギリスやアメリカなど各国の義勇兵)の支援を受けるも、ドイツ軍やイタリア軍、そして政府からの強力な支援を受けるナショナリスト軍に対する劣勢は覆せなかった。
1938年7月25日に始まった共和国軍の大攻勢(エブロ川の戦い)が失敗に終わったことでナショナリスト軍の優位が決定的になり、翌1939年1月にはバルセロナが陥落、3月27日にマドリードが陥落したことにより人民戦線政府は崩壊、31日にはスペイン全土を制圧、4月1日にフランコは内戦終結宣言を発した。これにより数十年にわたるスペインの混乱は一応の終息を迎えたが、内戦による国土の荒廃は著しかった。フランコは統一されたスペインの国家元首(総統)となり、同年8月8日に公布された「国家元首法」によって緊急立法権が付与され、強大な権限を持って国家の再建に取り組むこととなる。
第二次世界大戦
枢軸国寄りの「中立」
スペイン内戦終結直前の1939年3月27日、フランコは日独伊防共協定に加入し、同年5月には国際連盟から脱退した[2]。一方、9月に第二次世界大戦が勃発すると、フランコは国家が内戦により荒廃したために国力が参戦に耐えられないと判断して中立を宣言した。しかし緒戦におけるドイツの勝利や優勢を見て、1940年6月10日イタリアの参戦直後に中立を放棄し、非交戦(en:Non-belligerent)を宣言した。これによって枢軸国側に近づき、情報提供などで便宜を図った。非交戦宣言より数日後には国際管理都市であったタンジールに侵攻し、11月これをスペイン・モロッコ領として併合した。並行してフランコは対英戦参戦の準備を行い、英国降伏直前の一週間にスペインが参戦することで、講和・戦後処理会議における発言権を確保しようと思考した。同時に独英休戦の仲介をすることで、ジブラルタルと北アフリカの領土要求をドイツに認めさせようとしたのだが、ドイツの反応は冷淡だった[3]。
ドイツがフランス全土を占領し、連合国がヨーロッパ大陸から追い出された直後の1940年10月、スペイン内戦時代からの盟友であるナチス指導者でドイツ総統アドルフ・ヒトラーと、ヴィシー政権が統治していたフランスとスペインとの国境のアンダイエで会談し、その蜜月関係を世界中に対し誇示した。ヒトラーはスペインの領土要求に対し、仏領北アフリカの大幅割譲はできないとしながら、対英戦後の英国植民地処理でスペインに代償が与えられるので領土調整は可能と述べた。フランコはこの時ヒトラーが要求した英領ジブラルタル攻略作戦(フェリックス作戦)のための地上ルート提供や、独伊鋼鉄同盟参加と将来的な日独伊三国同盟への参加を約束し、条件として軍事・経済の「莫大な戦略物資」を要求しつつ、参戦の意思を宣誓した[4]。しかし、英国本土航空戦や地中海戦線特にギリシャ戦線での英国有利な状況と経済的な英米との依存関係はフランコの参戦意欲を減退させ、翌年にフランコはこの合意を無効とし[5]、その後も参戦要求をかわし続けた。
一方でヒトラーがソ連侵攻作戦バルバロッサ作戦を発動すると、国中の熱狂的なファシスト一万人近くを集め青師団を創設し、義勇兵部隊として、ドイツに送り込んでいる(国内には、ドイツ・イタリアに共感する参戦推進派も存在し、それはフランコから見れば中立政策や国内の安定を危うくしかねない不穏分子とも言えた。その為、両国の好感を得、かつそうした反動分子を一掃する方法として、青の師団創設・派遣は一石二鳥であった[6]。)。さらに内戦の経緯もあって、ソ連を仇敵と見なす国内世論とこれまでの自身の言動を無視できない面や内戦期におけるドイツ援助への返礼的意味合いもあった。
1941年の真珠湾攻撃後には日本に祝電を送り、アメリカの不興を買った[7]。一方でスペインの旧植民地で権益が存在したフィリピンに日本軍が進攻すると、かつての植民地であるフィリピンに残る利権の扱いを巡り両国間で軋轢が生まれた[8]。
連合国への傾斜
しかし、1943年頃よりヨーロッパおよびアフリカ戦線において完全に連合国が優勢になると、再び中立を固持するという日和見な姿勢に終始した。1944年頃になると、青師団について連合国側各国から批判が集まり、対してフランコは撤兵を約束、国内に対して反対する者は厳罰に処する、と声明した。さらにアジア太平洋戦線においても日本軍が完全に劣勢となった1945年に起きたマニラの戦いにおいては、現地スペイン人の損害問題を理由に日本と断交した[9]。
フランコは第二次世界大戦を次のように見ていた。『世界では全く別の二つの戦争が戦われている。第一にヨーロッパではソ連に対する戦争であり、第二に太平洋では日本に対する戦争である』とし、ドイツ、アメリカ、イギリスを含む「全キリスト教世界」は、野蛮で東洋的・共産主義的なロシアを共通の敵として戦うべきであるとした。フランコはこの考えにそって連合国とドイツの講和調停を行った[10]。
なおこの工作において「アジアにおけるヨーロッパの権益は完全に回復するべきものである」としており、非キリスト教国である日本の要求は考慮に入れていなかった[11]。また、ヨーロッパ及びアフリカ戦線においてドイツやイタリアの劣勢が決定的となり、またアジア太平洋戦線においても日本軍が劣勢の色を見せ始めていた1943年7月28日にアメリカに和平調停を申し出たが、その際には駐スペインのアメリカ大使ヘイズ(en:Carlton J. H. Hayes)に対して「彼ら(日本人)は基本的に蛮族である。彼らは最悪の帝国主義者であり、中国および極東全域の支配をもくろんでいる。フィリピンに独立を保証するという彼らの最近の約束は全く信頼できない。スペインは日本に何らのシンパシーを抱いておらず、もし軍事的に弱体でなければ太平洋戦争において喜んでアメリカと協力したいところである」と述べている[12]。しかし連合国もドイツもスペインの調停には耳を貸さなかった[13][14]。
結果としてスペインは、第二次世界大戦中において「中立国」として振る舞うことにより、自国及び植民地の戦禍を完全に免れたが、その風見鶏的な態度は連合国、特にアメリカに不信感を植え付けることとなった[15]。
独裁者フランコ
フランコ政権は、彼が内乱中に組織したファランヘ党の一党独裁の政権であり、その成立時からドイツとイタリアの支援を受け、軍隊とグアルディア・シビルによる厳しい支配を行った。そのため、第二次世界大戦終結後に成立した国際連合は、1946年12月の国連総会で、ファシズムの影響下にあるスペインを国連から排除する決議を採択した。
しかし、第二次世界大戦後の東西冷戦の激化により、イギリスやアメリカをはじめとする西側諸国は、反共産主義という共通点と、スペインが地中海の入り口という地政学的にも戦略的にも重要な位置にあり、さらにイギリス領ジブラルタルの地位を尊重しているという理由で、フランコ率いるスペインとの関係の修復を模索し始めた。
1953年9月に、アメリカはスペインと米西防衛協定を締結した。この協定によるアメリカの軍事援助と、国際的孤立から抜け出したことによる観光収入の増大で、スペインの国際収支は黒字に転じ、遅れていた主要産業も発展し始めた。こうして、スペイン史上初めて中産階級と呼べる層が出現した。フランコは、中産階級をバックに高まる自由主義運動を厳しく抑圧する一方、亡命者のメキシコやスイスなどからの帰国を認めた(1958年)。
また、1959年12月にはアメリカ合衆国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領と会見する。第二次世界大戦時には「中立国の指導者」という立場ながら、枢軸国が劣勢になる1944年ころまでは一貫して親ドイツの立場を保っていたフランコと、そのドイツを敵に連合国軍の司令官として戦っていたアイゼンハワーの会見は、序盤こそぎこちなかったものの、お互い軍人出身という出自や、上記のようなアメリカ側の事情もあり、最終的には2人とも打ち解け、別れの際に抱擁をかわした程だった。これにより、アメリカとの関係は飛躍的に改善される。
その後フランコは、独裁を続けるフランコを支援することに対する国内世論からの批判を受けたアメリカなどの意向に配慮して、任命制の議員の一部を選挙制に切り替えるなど(1966年)、冷戦の影響をうけて左右に揺れ動くスペイン国内の社会不安の緩和に努めた。しかし、カタルーニャやバスク地方における独立意識を削ぐために、公の場(家の中以外のすべての場所)でのカタルーニャ語やバスク語の使用を禁止するなど、一方では強硬な姿勢を取っており、この様なフランコの姿勢に対して「バスク祖国と自由」(ETA)によるテロなどが活発化した。
後継者指名と王政の復活
テンプレート:See also フランコは政権のあり方について、最終的には王制に移行するべきだと考えていた。これは、フランコ政権が「個人的独裁制」なので、フランコ没後、政権の枠組みをそのままの形で継承することはあり得ないからである。議会制民主主義はこの当時のスペインでは失敗を続けてきたので採用はできず、王制が最良だとしたのである[16]。ただし、新たな王家を迎えるのかボルボーン王朝による王政復古とするのかはフランコも決めかねていた。
1947年に、フランコ総統は「王位継承法」を制定し、スペインを「王国」とすること、フランコが国家元首として「王国」の終身の「摂政」となること、フランコに後継の国王の指名権が付与されることなどを定めた。この「王位継承法」は7月16日の国民投票で成立し、フランコは終身国家元首の地位を得た。
70歳を越え健康状態が悪化すると、フランコの後継者問題が表面化した。前国王アルフォンソ13世の息子で、イタリアへ亡命しているフアン・デ・ボルボン・イ・バッテンベルグ(バルセロナ伯爵)を呼び戻し次期国王とするのが自然であったが、フランコは「考え方が容共的すぎる」としてこれを避けた。さらに一部にはフランコの息子に自らの地位を継がせ、カレーロ・ブランコをその下につけるという意見もあったが、これらの意見は王制移行を希望するフランコにより否定された。
最終的にフランコは、前国王アルフォンソ13世の孫でフアン・デ・ボルボンの息子であるフアン・カルロスを1969年に自らの後継者に指名し、将来の国王としての教育を受けさせる一方、その後自らは公の場に出ることを差し控えるようになった。長い闘病生活の末に1975年に83歳で没した。
フランコ没後のスペイン
王政復古と民主化
ヨーロッパにおいてドイツとイタリアのファシズム政権と同盟関係を結び、自らも国内にファシズム体制を築き上げた独裁者フランコは、ドイツとイタリアのファシズムが崩壊した後も、実に30年間にわたってその独裁体制を維持し続けた。フランコの支持基盤であった陸軍内部には王の帰還を求める声も強く、自身の没後は王族を擁き政治の実権は腹心のテンプレート:仮リンクに与えようとした。しかし、1973年にETAによるテロで乗っていた自動車ごとブランコが爆殺され(Operación Ogro)、この計画は頓挫した。
1975年にフランコが死ぬと、フランコの遺言どおりにスペインにボルボーン王朝が復活した。フアン・カルロス1世は、即位前にフランコの指示で帝王学の教育を受けていたこともあり、そのまま独裁体制を取るかと思われた。しかし即位後は、一転してフランコの独裁政治を受け継がずに政治の民主化を推し進め、急速に西欧型の議会制民主主義および立憲君主制国家への転換を図る。
その後スペインは、国民からの圧倒的な支持を受けた国王の後援もあり、1977年に総選挙を実施し、1978年に議会が新憲法を承認。正式に民主主義体制へ移行した。この様な議会制民主主義及び立憲君主制への速やかな移行は、その順調さから「スペインの奇跡」と呼ばれた。
クーデター未遂事件
また、1981年2月23日に発生した軍部右派のアントニオ・テヘーロ中佐によるクーデター未遂事件「23-F」では、国王親裁の復活を求める軍部右派勢力により議会が占拠され、内閣閣僚と議員350人が人質に取られたが、国王は軍部右派勢力の呼びかけを拒否して民主制の維持を図った。また、陸軍反乱部隊やテヘーロらも国王の呼びかけに応じて投降したため、国民から国王への信頼は不動のものとなった。
歴史の記憶法
2007年10月31日、スペイン下院議会はスペイン内戦とフランコ政権下の犠牲者の名誉回復、公の場でのフランコ崇拝の禁止などを盛り込んだ「La Ley por la que se reconocen y amplían derechos y se establecen medidas en favor de quienes padecieron persecución o violencia durante la Guerra Civil y la Dictadura(内乱と独裁期に迫害と暴力を受けた人々のための権利承認と措置を定めた法)」通称「Ley de Memoria Histórica(歴史の記憶法)」を与党社会労働党などの賛成多数で可決(Historical Memory Bill)。同年、上院でも可決成立した。
2008年10月より、「歴史の記憶法」に基づき、テンプレート:仮リンク予審判事は内戦被害者調査に着手。10月には、スペイン内戦中とフランコ政権初期に、国民戦線軍によって住民が虐殺されるなどの「人道に対する罪」「戦争犯罪」が行われたとして、スペイン全土に1400か所あると思われる犠牲者が埋められている集団墓地の発掘や関係者の訴追など、人道犯罪調査を行うと発表した。一方、ハビエル・サラゴサ検事局長は、1977年に制定された特赦法「移行協定」により恩赦が成立しているとして、フランコ政権下で行われた犯罪はすべて許されるという立場を示し、対立が起きた。
10月17日、ガルソン判事は、内戦中及び独裁政権時代に住民の殺害や拉致を命じたとして、すでに死去しているフランコ以下35人を「人道に対する罪」等で起訴した[17]。
11月6日、ガルソン判事の調査が終了し、全国25カ所の集団墓地からの犠牲者発掘を命じた。翌7日、サラゴサ検事は案件は全国管区裁判所の管轄外だとして異議申し立てを行い、これを受けて11月28日、全管裁刑事法廷は集団墓地からの遺体発掘命令を停止すると決定した。同法廷のペドラサ判事は異議申し立ての処理が終了するまでガルソン判事の発掘命令とフランコ裁判を中止すべきと要請、同法廷全体会議にかけられ、これが認められた[18]。
アムネスティは、内戦中及びフランコ政権下で市民11万4千人が殺害若しくは行方不明になっているとして、スペイン政府に犠牲者のための真実を解明するよう求めている。
なお、スペインには数多くのフランコ像があったが、2008年12月、サンタンデール市の広場の7メートルのブロンズ像(1964年建立)を最後に、本土からすべて撤去された[19]。
脚注
参考文献
外部リンク
関連項目
- フランキスモ(フランコ主義)
- スペイン内戦
- スペイン国 (1939年-1975年)
- アーネスト・ヘミングウェイ
- ホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ
- フアン・ペロン
- 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)
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- ↑ 町のフルトス・サアベドゥラー108番地で生まれた。彼は5人の兄弟の二男で、兄、妹二人、弟がいた。祖父と父は海軍主計准将までなっている。川成洋「フェロール時代のフランシスコ・フランコ」/ 坂東省次・桑原真夫・湯浅武和編著『スペインのガルシアを知るための50章』明石書店 2012年 72-73ページ
- ↑ クレーブス(2000)、281p
- ↑ クレーブス(2000)、282、283p
- ↑ クレーブス(2000)、285-286p
- ↑ クレーブス(2000)、287p
- ↑ 『シリーズ20世紀の記憶』<第2次世界大戦・欧州戦線―1939-1945 (毎日ムック―シリーズ20世紀の記憶)>毎日新聞社
- ↑ クレーブス(2000)、288p
- ↑ クレーブス(2001)、242p
- ↑ クレーブス(2001)、258p
- ↑ クレーブス(2001)、238p
- ↑ クレーブス(2001)、246p
- ↑ クレーブス(2001)、249p
- ↑ クレーブス(2001)、246-247p
- ↑ クレーブス(2001)、249-250p
- ↑ クレーブス(2001)、258p
- ↑ 色摩力夫『フランコ スペイン現代史の迷路』中央公論新社、2000年
- ↑ http://www.es.emb-japan.go.jp/japones/relaciones_resumen_200810.html
- ↑ 2008年11月7日のニュース
- ↑ 朝日新聞、2008年12月23日朝刊、東京版、11面。