ミルトン・フリードマン
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テンプレート:シカゴ学派 (経済学) ミルトン・フリードマン(テンプレート:Lang-en-short、1912年7月31日 - 2006年11月16日)はアメリカ合衆国ニューヨーク出身のマクロ経済学者である。マネタリズムを主唱して裁量的なケインズ的総需要管理政策を批判した。1976年、ノーベル経済学賞受賞。弟子にゲーリー・ベッカーがいる。
目次
人物概要
20世紀後半におけるマネタリスト、新自由主義を代表する学者として位置づけられている[1]。戦後、貨幣数量説を蘇らせマネタリストを旗揚げ、裁量的総需要管理政策に反対しルールに基づいた政策を主張した。
1970代までは先進国の各国政府は「スタグフレーション」で悩んでいたが、スタグフレーションのうちインフレーションの要素に対しての姿勢、政策を重視した。経済に与える貨幣供給量の役割を重視し、それが短期の景気変動および長期のインフレーションに決定的な影響を与えるとした。特に、貨幣供給量の変動は、長期的には物価にだけ影響して実物経済には影響は与えないとする見方は(貨幣の中立性[2])、インフレーション抑制が求められる中で支持された。この功績で1976年にノーベル経済学賞を受賞した[2]。
アウグスト・ピノチェト大統領時代のチリに限らず、訪れた大半の国で経済政策についてアドバイスをした[3]。
経歴
テンプレート:See also ハンガリー東部(現在はウクライナの一部となっている)からのユダヤ系移民の子としてニューヨークで生まれる。
奨学金を得て15歳で高校を卒業。ラトガーズ大学で学士を取得後に数学と経済どちらに進もうか悩んだ結果、世界恐慌の惨状を目にしシカゴ大学で経済を専攻し、修士を取得、コロンビア大学でサイモン・クズネッツ(1971年ノーベル経済学賞受賞)の指導を受け博士号を取得。コロンビア大学と連邦政府で働き、後にシカゴ大学の教授となる。またアーロン・ディレクターの妹であるローズ・ディレクターと結婚し、一男(デヴィッド・フリードマン)一女をもうけた。
後に反ケインズ的裁量政策の筆頭と目されるようになったが、大学卒業後の就職難の最中で得た連邦政府の職はニューディール政策が生み出したものであった(国家資源委員会における大規模な家計調査研究は、クズネッツの助手として全米経済研究所で行った研究と併せて、後の『消費の経済理論』と恒常所得仮説につながった[4])。後に振り返って、ニューディール政策が直接雇用創出を行ったことは緊急時の対応として評価するものの、物価と賃金を固定したことは適切ではなかったとし[4]、大恐慌の要因を中央銀行による金融引締に求める研究を残している。しかし、第二次世界大戦が終わり連邦政府の職を離れるまでの経済学上の立場は一貫してケインジアンであった。
1975年にチリを訪問、1980年から中国を訪問など世界各国で政策助言を行い、日本では1982-1986年まで日銀の顧問も務めていた。
シカゴ学派のリーダーとしてノーベル賞受賞者を含め多くの経済学者を育てた。マネタリストの代表者と見なされ、政府の裁量的な財政政策に反対する。政府の財政政策によってではなく貨幣供給量と利子率によって景気循環が決定されると考えた。また、1955年には、教育バウチャー(利用券)制度を提唱したことでも知られる。議論好きで討論に長けていたことで知られる。主著は『A Monetary History of the United States, 1867-1960』、『資本主義と自由』。
1951年ジョン・ベーツ・クラーク賞、1967年米経済学会会長、1976年にノーベル経済学賞を受賞。1986年に中曽根内閣から勳一等瑞宝章、1988年には当時のレーガン大統領からアメリカ国家科学賞と大統領自由勲章、を授与される。
2006年11月16日 、心臓疾患のため自宅のあるサンフランシスコにて死去。
思想・主張
テンプレート:節stub フリードマンにとっての理想は、規制のない自由主義経済の設計であり、詐欺や欺瞞に対する取り締まりを別にすれば、あらゆる市場への制度上の規制は排除されるべきと考えた。そのため、新左翼勢力は、フリードマンを新自由主義(Neo Liberalism)の代表的存在と位置づけた。しかしフリードマンは公共善を否定していたわけではなくこの点ではケインズと変わるところはなかった[5]。
フリードマンは基本的には、市場に任せられるところはすべて任せてよいが、いくつか例外があり、自由主義者は無政府主義者ではないとしており[6]、政府が市場の失敗を是正することは認めている[7]。また、中央銀行の仕事だけは市場に任せるわけにはいかないという考えであり、中央銀行は無くし貨幣発行を自由化する、金本位制のように外部から枠をはめるような制度をつくるといった代案を提示している[6]。フリードマンは、連邦準備銀行がマネーサプライを一定の割合で増やせば、インフレ無しで安定的な経済成長が見込めると述べている(Kパーセントルール)[8]。
自由主義に「新」が付くのは、自由放任論からの脱却として現れた、国家管理・官僚統制型ニューリベラリズム(New Liberalism)に基づくケインズ政策(これはケインズが本来主張した学説とはかならずしも一致しない)を、再び古典的な自由主義の側から批判する理論にみえたからである。
財政政策批判
政府によって実施される財政政策は、財政支出による一時的な所得の増加と乗数効果によって景気を調整しようとするものであるが、フリードマンによって提唱された恒常所得仮説[9]が正しいとすると、一時的な変動所得が消費の増加に回らないため、ケインジアンの主張する乗数効果は、その有効性が大きく損なわれる。そのため恒常所得仮説は、中央銀行によって実施される金融政策の復権を求めたフリードマンらマネタリストの重要な論拠の一つになった。また、経済状況に対する政府中銀の認知ラグや政策が実際に行われるまでのラグ、および効果が実際に波及するまでのラグといったラグの存在のために、裁量的に政策を行っても適切なものと成り得ず、却って不要の景気変動を生み出してしまうことからも、裁量的な財政政策を批判した。
フリードマンは、ケインズ政策はスタグフレーションに繋がるとし、ケインズ政策の実行→景気拡大→失業率の低下→インフレ期待の上昇→賃金の上昇→物価の上昇→実質GDP成長率の低下→再び失業率の上昇というメカニズムで結果、物価だけが上昇すると主張している[10]。
大恐慌
フリードマンは金本位制が問題であったと理解しており[11]、著書『A Monetary History of the United States, 1867-1960』の中で、大恐慌はこれまでの通説(市場の失敗)ではなく、不適切な金融引き締めという裁量的政策の失敗が原因だと主張した。金融政策の失敗を世界恐慌の真因としたフリードマンの説は、2012年現在も有力な説とされており[1]、その後の数多くの研究者が発表した学術論文によって、客観的に裏付けされている[12]。ベン・バーナンキFRB理事(当時)は、2002年のフリードマンの誕生日に「あなた方は正しい、大恐慌はFRBが引き起こした。あなた方のおかげで、我々は二度と同じ過ちを繰り返さないだろう」とこの主張を認めている[13]。
麻薬合法化
麻薬政策についてフリードマンは麻薬禁止法の非倫理性を説いている。1972年からアメリカで始まったドラッグ戦争(麻薬の取り締り)には「ドラッグ戦争の結果として腐臭政治、暴力、法の尊厳の喪失、他国との軋轢などが起こると指摘したのですが、懸念した通りになった」と語り大麻の合法化を訴えていた[14]。また別の主張では大麻にかぎらずヘロインなども含めた麻薬全般の合法化を訴えている。[15]
人種差別
人種差別について、フリードマンは「黒人は職業選択において白人と同じ立場になかった。顧客と同僚の労働者両方の偏見のせいで、黒人であることはある職業においては低い生産性を伴う。つまり肌の色は、職に対しての能力の格差と同じ効果を与える。肌の色による人口の階層化は、アメリカにおける収益の非均等化格差を生み出す、最も強い要因の一つとなっている」と指摘していた[16]。
主張した具体的政策
ミルトン・フリードマンは義務教育、国立病院、郵便サービスなどは、公共財として位置づけることに反対し、市場を通じた競争原理を導入したほうが効率的であると主張していた[17]。1962年、フリードマンは著書『資本主義と自由』において、政府が行うべきではない政策、もし現在政府が行っているなら廃止すべき、下記の14の政策を主張したテンプレート:Sfn。
- 農産物の買い取り保障価格制度。
- 輸入関税または輸出制限。
- 商品やサービスの産出規制。(生産調整・減反政策など)
- 物価や賃金に対する規制・統制。
- 法定の最低賃金や上限価格の設定。
- 産業や銀行に対する詳細な規制。
- 通信や放送に関する規制。
- 現行の社会保障制度や福祉。(公的年金機関からの購入の強制)
- 事業・職業に対する免許制度。
- 公営住宅および住宅建設の補助金制度。
- 平時の徴兵制。
- 国立公園。
- 営利目的の郵便事業の禁止。
- 国や自治体が保有・経営する有料道路。
提案・支持したアイディア
日本のバブルについての見解
日本のバブル景気について、フリードマンは「日本は、円通貨の供給を増やしてドルを買い支えた結果、通貨供給量の急増を招いた。私はこの通貨供給量の急激な伸びが『バブル経済』を引き起こしたと見ている。日本銀行は長期間にわたってこのような金融緩和路線をとり続け、納税者に莫大な損害を与えた。最後には日銀もブレーキをかけたが、今度は急ブレーキをかけすぎた。金利を引き上げ、通貨供給量の伸びを急激に抑え、深刻な景気後退を引き起こしてしまった。これはどんなによい意図から出たものであれ、不適切な金融政策は悲惨な結果をもたらし得るという最たる例だ。日銀は誤りを正すのが遅くて、そのためにリセッションを長引かせ、深刻なものにしてしまったように思われる」と指摘している[18]。
日本への提言
フリードマンは日本の「平成大停滞」でも、積極的な金融緩和政策の適用をかなり早い段階から提唱していた[19]。日本銀行政策委員会審議委員としてゼロ金利や量的緩和を考案するなどフリードマンの信奉者であったベン・バーナンキから唯一日銀幹部で「ジャンク」ではないとされた中原伸之とも連絡をとりあっていた[20]。
1998年9月11日の読売新聞でのインタビューで日本について「(景気を拡大させるために)減税と歳出削減を通じて小さな政府にする。また、日本銀行が通貨供給量を急速に増やすことが欠かせない」「日銀がもっとお札を刷り、通貨供給量の平均伸び率を5-7%程度まで引き上げることが景気回復の決め手となる。1990年から今日までの日本の状況は、1929年から1933年まで通貨供給を約三分の一減らして大恐慌となったアメリカと似ている」「財政政策で景気のテコ入れを図るケインズ主義的な手法は誤り」と述べている[21]。
評価
池田信夫によればフリードマンがケインズ経済学を批判し挑戦した「保守反動」である、との決め付けは日本の1980年代の進歩的知識人のお約束であり、じっさいには1970年代当時の主流であった新古典派経済学に挑戦したのであり、結果として1968年に発表した自然失業率の理論(財政政策は長期的に無効だとする理論)がフリードマンの最大の貢献となり、その後の歴史が理論の正しさを証明しケインズ理論(ケインズ政策)は葬られたとする[22]テンプレート:信頼性要検証。
シカゴ大学でフリードマンと同僚だった経済学者の宇沢弘文は「危険な市場原理主義者で、アメリカ経済学を歪めた。真に受けて起きたのが2008年のリーマン危機である」と批判している[23]。
経済学者の竹森俊平は「マクロ経済学についてのフリードマンとケインズの考え方の差は意外に僅かであり、二人はともに状況を見て理論を説く。ハイエクはそれはしてはならないという立場であり、二人と大きく異なる」と指摘している[24]。
日本語訳著作
単著
- 『資本主義と自由』(日経BPクラシックス, 2008年)
- 『消費の経済理論』(巌松堂, 1961年)
- 『貨幣の安定をめざして』(ダイヤモンド社, 1963年)
- 『インフレーションとドル危機』(日本経済新聞社, 1970年)
- 『価格理論』(好学社, 1972年)
- 『実証的経済学の方法と展開』(富士書房, 1977年)
- 『インフレーションと失業』(マグロウヒル好学社, 1978年)
- 『政府からの自由』(中央公論社, 1984年/中公文庫, 1991年)
- 『貨幣の悪戯』(三田出版会, 1993年)
共著
- (W・W・ヘラー)『インフレなき繁栄--フリードマンとヘラーの対話』(日本経済新聞社, 1970年)
- (N・カルドア, R・M・ソロー)『インフレーションと金融政策』(日本経済新聞社, 1972年)
- (ローズ・フリードマン)『選択の自由--自立社会への挑戦』(日本経済新聞社, 1980年/講談社〈講談社文庫〉, 1983年/日経ビジネス人文庫, 2002年)
- (ポール・A・サミュエルソン)『フリードマンとサミュエルソンの英文経済コラムを読みとる』(グロビュー社, 1981年)
- (ローズ・フリードマン)『奇跡の選択』(三笠書房, 1984年)
- (ジェームズ・M・ブキャナン)『国際化時代の自由秩序--モンペルラン・ソサエティの提言』(春秋社, 1991年)
- (アンナ・シュウォーツ)『米国金融史7章 大収縮1929〜1933』 (日経BPクラシックス, 2009年)
参考文献
- 若田部昌澄「ミルトン・フリードマンを論じる」経済学史学会
- 若田部昌澄「歴史としてのミルトン・フリードマン」経済学史学会
- 吉野正和「フリードマンの市場経済批判について」徳山大学
- 斉藤泰雄「M・フリードマンの 「教育バウチャー論」 再考」国立教育政策研究所
- 松尾匡「反ケインズ派マクロ経済学が着目したもの--フリードマンとルーカスと「予想」」SYNODOS -シノドス- 2014年1月23日
脚注
関連項目
- マネタリスト
- 新自由主義
- 反共主義
- 市場主義経済
- レッセフェール(自由放任主義)
- 貨幣数量説
- 負の所得税
- グローバリズム - グローバル資本主義
- ショック・ドクトリン
- アウグスト・ピノチェト
- ジェームズ・トービン - 経済学者。フリードマンとは絶えずいろいろな場で論戦した。
- フリードリヒ・ハイエク
- フランク・ナイト
- デヴィッド・フリードマン - 息子で経済学者。
外部リンク
- ミルトン・フリードマン 「世界の機会拡大について語ろう」 〜「グローバルビジネス」1994年1月1日号掲載 - ダイヤモンド・オンライン
- ミルトン・フリードマン Milton Friedman
- PBS フリードマン
テンプレート:ノーベル経済学賞受賞者 (1976年-2000年)テンプレート:Link GA
テンプレート:Link GA- ↑ 1.0 1.1 日本経済新聞社編 『経済学の巨人 危機と闘う-達人が読み解く先人の知恵』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2012年、89頁。
- ↑ 2.0 2.1 日本経済新聞社編 『経済学の巨人 危機と闘う-達人が読み解く先人の知恵』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2012年、89頁。
- ↑ 田中秀臣 『不謹慎な経済学』 講談社〈講談社biz〉、2008年、134頁。
- ↑ 4.0 4.1 The Boston Globe "Nobel laureate economist Milton Friedman dies at 94" 2006-11-16
- ↑ 「ケインズの目的は、私と同じで、社会の幸福に貢献することだった。私はケインズを心から尊敬している。」最強の経済学者フリードマン(ラニー・エーベンシュタイン、大野一翻訳、日経BP社2008.1.17)P.140
- ↑ 6.0 6.1 浜田宏一・若田部昌澄・ 勝間和代 『伝説の教授に学べ! 本当の経済学がわかる本』 東洋経済新報社、2010年、150頁。
- ↑ 日本経済新聞社編 『経済学の巨人 危機と闘う-達人が読み解く先人の知恵』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2012年、98頁。
- ↑ ポール・クルーグマン 『クルーグマン教授の経済入門』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2003年、162頁。
- ↑ 消費は、現在の所得の関数ではなく、将来に亘って恒常的に得られると期待される所得(恒常所得)の関数である、とする説。
- ↑ 竹中平蔵 『経済古典は役に立つ』 光文社〈光文社新書〉、2010年、200-201頁。
- ↑ 浜田宏一・若田部昌澄・ 勝間和代 『伝説の教授に学べ! 本当の経済学がわかる本』 東洋経済新報社、2010年、151頁。
- ↑ 日本経済新聞社編 『経済学の巨人 危機と闘う-達人が読み解く先人の知恵』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2012年、93頁。
- ↑ 日本経済新聞社編 『経済学の巨人 危機と闘う-達人が読み解く先人の知恵』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2012年、94頁。
- ↑ Milton Friedman on the War on Drugs Thursday, July 31, 2008
- ↑ Prohibition and Drugs by Milton Friedman From Newsweek, May 1, 1972
- ↑ 田中秀臣 『不謹慎な経済学』 講談社〈講談社biz〉、2008年、140頁。
- ↑ 中谷巌 『痛快!経済学』 集英社〈集英社文庫〉、2002年、181頁。
- ↑ ミルトン・フリードマン「世界の機会拡大について語ろう」〜「グローバルビジネス」1994年1月1日号掲載ダイヤモンド・オンライン 2011年8月1日
- ↑ 田中秀臣 『不謹慎な経済学』 講談社〈講談社biz〉、2008年、131頁。
- ↑ 中原伸之『日銀はだれのものか』中央公論新社、2006年テンプレート:要ページ番号。
- ↑ 森永卓郎 『日銀不況-停滞の真因はデフレ政策だ』 東洋経済新報社、2001年、46-47頁。
- ↑ 最強の経済学者 ミルトン・フリードマン池田信夫 blog 2008年1月26日(2008年1月28日時点のインターネット・アーカイブ)
- ↑ 著者に会いたい 山中季広 経済学は人びとを幸福にできるか 宇沢弘文さんBOOK.asahi.com 2013年12月8日
- ↑ 日本経済新聞社編 『世界を変えた経済学の名著』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2013年、87頁。