戦国時代 (中国)
テンプレート:出典の明記 中国の戦国時代(せんごくじだい)は、春秋時代に続く時代で、紀元前403年に晋が韓・魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による統一がなされるまでをいう。この名前は『戦国策』から取られている。
どの時点をもって春秋と戦国の境目とするかは、歴史家の間で意見が分かれている。詳しくは春秋戦国時代の項目を参照。
概略
初期
戦国時代の初期に覇権を握ったのは、晋から分離したうちの一つの魏である。魏が周王朝より諸侯として正式に認められたときの魏公・文侯は積極的に人材を求め、李克・呉起などを登用して中山国の都を陥落させるなど、魏を最強国とした。息子の武侯の時代にも覇権は続き、さらにその子の恵王の時代には、諸侯の間で初めて王の称号を使うなど、強勢を誇ったが、斉の孫臏の軍略により大敗したことを契機として、凋落の道をたどる。
そもそも魏が強勢となれたのは、魏の支配領域が周代より文化の中心地とされた中原の中央であり、最も開発が進んだ地域であったからであった。それは一方では周辺諸国からの侵攻を受けやすいということでもあり、開発の余地が無いということでもあった。後方に広大な未開発地帯を持つ斉や秦などが台頭してくると、魏は覇権の座から滑り落ちた。
中期
南の楚は、魏の権力争いに敗れて亡命してきた呉起を迎え入れて政治改革に取り組み領土を広げるが、呉起を擁護した悼王の死後に呉起が反対派によって殺され、改革も頓挫した。東の斉は威王の治世の元で、孫臏の計を用いて魏を大破した。また稷下の学士と呼ばれる学者集団を招聘し、人材を募った。この稷下の代表格として荀子がいる。北の趙は敬侯の下で都を軍事の要衝である晋陽(太原市)から経済の中心地である邯鄲に移した。敬侯の曾孫の武霊王は北方の遊牧民族の騎馬戦術を取り入れた。これは胡服騎射と呼ばれ、これ以後の趙の騎兵隊は諸国に恐れられ、魏に滅ぼされた後に再興した中山国を滅ぼした。秦では孝公の下で商鞅による政治改革が行われ、厳格な法治主義による統治体制により秦の国力は増大し、魏・韓を圧迫し、張儀の策謀により、楚の懐王を捕らえ、その領土を奪った。
その後、一時的に趙・秦・斉の鼎立状態になるが、武霊王が内乱により死去した事で趙が脱落する。秦は趙・韓・魏から領土を奪ったことで更に強大化し、斉も北の燕を一時的に壊滅させ、宋を併合するなどして強大化し、東の斉・西の秦の二強国時代を作る。この時に秦の昭襄王は斉の湣王と共に王の上の称号である帝の称号を使うことに決めたがすぐにとりやめた。
後期
この二強国時代は、紀元前284年の楽毅を大将とする燕・趙・韓・魏・楚の5カ国連合軍に斉が大敗し、首都臨淄を陥とされ、莒と即墨以外の全ての邑は占領されたことで終わりを告げる。湣王は、国外へ逃亡した後、莒に戻ったが楚の将軍で斉の宰相になった悼歯に殺され、皮肉なことにかつての燕のように王がいない状態となった。のちに田単により復興はするものの、国力を大幅に消耗した。
斉の凋落により、中国は秦による一強国時代となる。秦は、名将・白起を使って諸国に苛烈な攻撃を加え、紀元前260年には長平の戦いで趙に大勝し、45万と言う将兵を一度に殺した。また紀元前256年に東周を滅ぼす。
この中で紀元前247年に政が秦王に即位する。のちの始皇帝である。政は、李斯の政策の下で法治主義・権力集中をさらに進め、外征面では王翦・王賁親子や李信などを起用した。まず紀元前230年に韓を滅ぼし、続いて紀元前228年に趙、紀元前225年に魏、紀元前223年に楚、紀元前222年に燕、そして紀元前221年に斉を滅ぼし、天下を統一。ここに戦国時代は終結し、中国史上初めての統一王朝が誕生した。
戦国七雄
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春秋時代には国の祭祀を絶つと国の祖先から呪われるという考えから、国を占領しても完全に滅ぼしてしまうことはそれほど多くなく、また滅びても復興することがよくあった。戦国時代に入ると容赦がなくなり、戦争に負けることは国の滅亡に直接繋がった。そのような弱肉強食の世界で次第に7つの大国へ収斂されていった。その7つの国を戦国七雄と呼ぶ。春秋時代には名目的には周王の権威も残っていたが、戦国時代になると七雄の君主がそれぞれ「王」を称するようになり(ただし、楚の君主は以前から王であった)、周王の権威は失われた。
- 韓(紀元前403年 - 紀元前230年)
- 趙(紀元前403年 - 紀元前228年)
- 魏(紀元前403年 - 紀元前225年)
- 楚(? - 紀元前223年)
- 燕(紀元前1100年頃 - 紀元前222年)
- 斉(紀元前386年 - 紀元前221年)
- 秦(? - 紀元前206年)
七雄以外の宋や中山といった国々も王号を唱えており、諸国における重要度も高かったという指摘もされている。