関帝
関帝(かんてい)とは中国後漢末期に劉備に仕えた関羽が神格化されたものである。
呼び名
関聖帝君(かんせいていくん)と呼称される事が多い。関帝聖君、関帝翁、山西夫子、関夫子、蓋天古仏、協天大帝、伏魔大帝、関帝菩薩、関聖大帝菩薩、伽藍神、伽藍菩薩、世護法など、多くの呼び名を持つ。
神号の追贈
北宋の紹聖3年(1096年)に哲宗の命で荊州の玉泉祠が「顕烈廟」という名にされた。その後、歴代の中国王朝で封号(称号)として爵諡を追贈されていたが、武廟(文廟(孔子廟)の対語、本来は唐の時代に太公望を祭る武成王廟のこと[1]。)として明の万暦42年(1614年)万暦帝から「三界伏魔大帝神威遠鎮天尊関聖帝君」、天啓年間に天啓帝による「三界伏魔大帝神威遠震天尊関聖帝君」という神号を追贈され、清では北京地安門(北門)外に廟を作り、順治9年(1652年)に順治帝から「忠義神武関聖大帝」、乾隆年間に乾隆帝から「忠義神武霊佑関聖大帝」、嘉慶年間に嘉慶帝から「忠義神武霊佑仁勇関聖大帝」、道光年間に道光帝から「忠義神武霊佑仁勇威顕関聖大帝」という神号が贈られた[1][2]。
信仰のルーツ
関羽はもともと下層の出身だけに、上の者には反骨の意識が強かったようだ。下の者には厚く接する一方で、上の身分のものを蔑むようなところがあり、そのため恨みを買う事になった。
そして魏と呉が関羽を排除するための連合を組むという最悪の事態を迎え、関羽は養子の関平と共に呂蒙に討たれる事になった(219年 樊城の戦い)、。
その直後に関羽を討った呂蒙は病死(219年末)、魏の曹操も220年3月に病死するなど。
関羽の死に関わった人物が幾人も関羽の死から時をおかず相次いで倒れた。
もともと中国には、通常の死ではなく非業の死を遂げた人は強い霊力が宿ると考えられており。関羽の死の後に起こった関係者の死に超自然的な力を感じ取った事だろう。
関羽の生前の武将としての知名度に加え、こうした関羽の死を巡る展開が信仰のルーツとなったと考えられる。
廟名
関帝を祀る廟名は、たとえば『汝南誌』(萬暦36年(1608年))巻3では汝寧州14県のうち廟の名称は「関王廟」が5県、「寿亭侯廟」が6県、「武安王廟」が3県[1]と名称はまちまちであった。後に関帝廟と呼ばれるようになった。清の時代には5月13日が誕生日として皇帝による式典がおこなわれていた[1]。
現在の信仰
関羽が高名な武将であったことから旧くは武神として、また関羽が義理や信義に厚い人物だったこと、元は塩の密売業者で算盤や大福帳を開発したという伝説や山西商人にとって地元の英雄だったことから現在は主に商業の神として信仰され、中国はもとより世界各地の中華街など華僑の町にはほぼ必ず関帝廟や祭壇が設けられている。日本では1873年(明治6年)に横浜に関帝廟がつくられた。そこでは旧暦6月24日 (8月8日)に関帝誕という誕生日の神事がおこなわれている。また、大阪や長崎の黄檗宗寺院にも関帝が祀られている。
酒見賢一『中国雑話 中国的思想』(文春新書)には、「一部のインテリを除いて、中国人には『なぜ宗教者でもない一武将の関羽がこうまで崇拝されるのか』といった矛盾は全く浮かばない。中国人に、代表的な神を一人挙げてくれというと迷うことなく関帝と答えると聞く」とある。