マクシミリアン・ロベスピエール
テンプレート:Redirect テンプレート:政治家 マクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(テンプレート:Lang-fr-short, 1758年5月6日 - 1794年7月28日)は、フランス革命期の政治家で、史上初のテロリスト (恐怖政治家)・代表的な革命指導者。
左派の論客として頭角をあらわし、共和主義が勢力を増した8月10日事件から権勢を強め、1793年7月27日に公安委員会に入ってからの約一年間はフランスの事実上の首班として活動した。当初は民衆と連帯した革命を構想していたが、9月25日に国民公会から独裁権を認められてからは委員会独裁を主導、テロリズム(恐怖政治)に転じて粛清を断行したため、独裁者というイメージが定着している。一方、左翼、特に極左の政治家や活動家からは、正義に殉じた政治家として崇拝される傾向にある[1]。
生涯
フランス北部・アルトワ州アラス(現在のパ=ド=カレー県)生まれ。家は1720年より続く法服貴族であり、父フランソワはアルトワの議会議員で弁護士だったがマクシミリアンは幼くして母を亡くし、父も身を持ち崩したため、わずか6歳で家長となる。貧しい苦学生だが秀才の誉れ高く、学生代表として雨の中、膝をついてルイ16世の行幸を出迎えたという[2]。後にロベスピエールは、国民公会において、そのルイ16世を激しく非難し、即時処刑すべきと主張している。
アラス大学卒業後、判事を経て、アルトワ州高等法院で弁護士となり、学会にも選出された。このころ発表した『刑事事件の加害者の一族もその罪を共有すべきか』という論文は高く評価された。
1789年、30歳にして、三部会のアルトワ州第三身分代表として政治の世界に身を投じる。ジャコバン派内の山岳派に属し、ジロンド派内閣が推進した対外戦争に反対した。後のイメージからは想像しにくいが、このころは死刑廃止法案を提出したり、犯罪者親族への刑罰を禁止する法案に関わる等、当時としては先進的な法案に関わっていた。
サン・キュロットの支持を得て、1793年6月2日、国民公会からジロンド派を追放し権力を掌握すると、公安委員会、保安委員会、革命裁判所などの機関を通して恐怖政治(Terreur:テルール 、テロの語源)を断行し反対派をギロチン台に送った(彼自身"Terreur"を必要なものだと信じ、「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」と主張した)。同年7月13日の盟友マラーの死に際しては、マラーを神格化することでジロンド派の支持を奪い、さらにジャコバン派内部でのロベスピエールのリーダーシップを不動にした。
1794年2月、ヴァントーズ(風月)法を可決。同年3月に最左派エベール一派、4月に右派ダントン一派を粛清して、自己の理想とする独立小生産者による共和制樹立を目指した。この頃から、自らの主体的な神(正確には「至高の存在」)の定義を議会で通すなど横暴が目立つようになる。そして、6月8日に自らの主体的な神のための最高存在の祭典(La fête de l'Être suprême)を挙行する。
対外戦争(フランス革命戦争)が好転し国内危機が一段落すると、1794年7月27日(革命暦II年テルミドール9日)、反ロベスピエール派によって逮捕され(テルミドールのクーデター)、1794年7月28日、サン=ジュスト、ジョルジュ・クートンらとともに処刑された。私生活
私生活は至って質素で、紳士的な服装や振る舞いは広く市民の尊敬を集めた。テルミドールのクーデターで処刑されたときには、下宿していたデュプレ家に借金が残っていたともいわれる。その清潔さと独身であることから女性から特に人気があり、ロベスピエールが演説する日は女性の傍聴人が殺到したと伝えられている。
生涯独身を貫いたが、アラスの弁護士時代には、地方の名士として社交界に出入りして女性たちには好感をもって迎えられており、中でもデゾルティ嬢とは恋人関係にあるとの噂もあった。またパリに赴いてからは下宿先であるデュプレ家の長女・エレオノール[3]と内縁の妻同然の間柄だったという[4][5]。直系の子孫はいない。
生前は、端正な容貌をしていたとされており、肖像画などもそのように描かれていた。しかし、2013年にフランスの法医学者グループがデスマスクを元に顔を復元したところ、ロベスピエールの顔は、あばた顔で陰湿な目つきをしたものとなった。あばたは自己免疫不全や類肉腫症によるものとされる。ロベスピエールを評価する左派系政治家は、この結果に「政治的意図があり、歴史を捏造するものだ」と反発している[1]。
家族
弟のオーギュスタンは兄と同様に政治家の道を歩み、テルミドールのクーデターで兄共々処刑されている。妹のシャルロットによる兄弟の回想録がある。[6]。
語録
- 「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」(1794年に行った演説の一説。"la vertu, sans laquelle la terreur est funeste ; la terreur, sans laquelle la vertu est impuissante") [7]
フィクション
- ベルサイユのばら(演:森功至)
- ナポレオン -獅子の時代-:長谷川哲也の漫画。この作品はナポレオン・ボナパルトが主役にも関わらず、殆どナポレオンそっちのけ(コミックス第5巻の大部分を要して)でテルミドールまで進行する展開になっている。童貞であることを告白したり(史実か否かは不明)、最大の特徴といえるサングラスを着用している。(史実においても目の疲労の軽減のために、緑色の眼鏡を使用していた。アベル・ガンスの映画『ナポレオン』、佐藤賢一『小説フランス革命』二巻表紙にも同様の描写がある)
- シュヴァリエ 〜Le Chevalier D'Eon〜:フランスの諜報員として働いていたが、愛する者を王家の手に掛かって殺されたため、革命を決意する。実は幼い頃に身分をすり替えられた真の後継者である。(演:櫻井孝宏)
- アーマード・コア フォーアンサー:「マクシミリアン・テルミドール」と言う革命的思想を持つリンクスが現われる。
- スカーレット・ピンパーネル:主人公と敵対する公安委員の上司として登場する。
脚注
文献リスト
- ロベスピエール『革命家演説集II 革命の原理を守れ』内田佐久郎訳、白揚書館、1946年
- トムソン、J.M.『ロベスピエールとフランス革命』樋口謹一訳、東京:岩波書店、1956年[英語版の原著は1952年]
- 遅塚忠躬『ロベスピエールとドリヴィエ : フランス革命の世界史的位置』東京大学出版会、1986年
- マルク・ブゥロワゾォ『ロベスピエール』遅塚忠躬訳、白水社(文庫クセジュ)、1989年 [原著1956年初版]
- パトリス・ゲニフェニー「ロベスピエール」(フランソワ・フュレ、モナ・オズーフ編『フランス革命事典:1』河野健二ほか監訳、みすず書房、1995年、pp. 447-467)[原著1988]
- 辻村みよ子 "「フランス一七九三年憲法とジャコバン主義(6) — ロベスピエール=ジャコバン派の憲法原理 — 」"(『成城法学』31, 1989年06月, pp. 47-103.
- スラヴォイ・ジジェク『ロベスピエール/毛沢東 : 革命とテロル』長原豊ほか訳、河出書房新社(河出文庫)、2008 [原著2007]
- Scurr, Ruth. Fatal Purity: Robespierre and the French Revolution. London: Metropolitan Books, 2006 (ISBN 0-8050-7987-4).
- Reviewed by Hilary Mantel in the London Review of Books, Vol. 28 No. 8, 20 April 2006.
- Reviewed by Sudhir Hazareesingh in the Times Literary Supplement, 7 June 2006.
- テンプレート:Cite book; scholarly biography
- ↑ 1.0 1.1 テンプレート:Cite news
- ↑ A New Dictionary of the French Revolution http://books.google.co.jp/books?id=2KaHAwAAQBAJ&pg=PT375&dq=robespierre+latin+speech+in+rain&hl=ja&sa=X&ei=WlXfU_GNFo6F8gXJhYH4Ag&ved=0CCMQ6AEwAQ#v=onepage&q=robespierre%20latin%20speech%20in%20rain&f=false
- ↑ (Éléonore Duplay)
- ↑ 彼女は未亡人と呼ばれ、亡くなった際にはロベスピエール未亡人に準じるとして、共和主義者が大勢、葬儀に参列した
- ↑ 妹のシャルロットはこれを否定して、兄は生涯童貞だったと述べている
- ↑ 和訳
- ↑ [Biographie universelle et portative des contemporains, Alphonse Rabbe,Claude Augustin Vieilh de Boisjoslin,Charles Claude Binet de Sainte-Preuve, éd. E. Dézairs et A. Blois - 21, rue du Colombier, 1836, t. 5, p. 677. Wikiquote]